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From Dusk Till Dawn

作者: 相庭 ゆうき

 真っ白に広がる世界を前に僕は立ちすくんでいた。そこは僕に与えられた自由な世界。僕の思うように創造することのできる世界。

 なのに僕は手を動かすことができない。少し前まで確かに見えていたものを描き出すことができない。

 代わりに見えるのはその人の顔。悲哀に満ちた表情は今にも泣き出しそうに歪んでいる。けれどもその人は、決して涙を見せずに僕から背を向け何処かへ行ってしまった。  

 


 赤土の大地が、光を受けて金色に輝く。地平の先には深紅の太陽が真円を描いている。茜色、僅かに陰ったいわし雲が広がる空。

 左に広がる空を見る。正面に浮かぶ太陽を見る。右に広がる空を見て、ゆっくりと視線を落としていく。

 黒い髪が見える。艶やかでしなやかな髪。目が合う。透き通るように白い顔。大きく栗色の瞳に僕の姿が映っている。その目は少し細くなって、彼女は優しく微笑んだ。頬が夕陽を受けて紅に染まっていた。肩を超える程の髪と白く細い首。細い肩と白いワンピース。少しふくらんだ胸元。軽く曲げられて腰に引き寄せられている右足と、無造作に投げ出された左足。素足に白いサンダル。

 僕たちは、岩の上に座っていた。荒野に転がる大小様々な岩石のなかでも一際大きく、正に岩と呼ぶにふさわしい。視線を泳がせて、もう一度彼女の顔を見た。彼女は、やはり微笑んでいた。

 


 失礼しました、と言いながらドアを引く。ギィと嫌な音を立てながらドアは開き、僕は廊下に出た。窓からは夕陽が差し込んでいる。ため息を一つ、腕の時計を見てから、鞄を背負う。ゆっくりと昇降口の向かって歩き出す。赤い光が彫り出す影は壁にもう一人の僕を描いていた。 通りがかりに何気なく自分の教室を覗くと、人影が一つ見えた。見知った姿形。逆光で顔が見えなくとも、誰なのかわかる。

「太陽」僕が口を開く前に向こうが手を振った。教室に入る。オレンジに染め上げられた教室は、何処か違う世界のようで、まるで時が止まっているようだった。反射的に見上げた時計は止まっていて、やっぱりか、とおかしな納得をしてしまった。

「太陽?」声をかけられて我に返る。

「ああ、哲平。今日は一人なんだ?」慌てて視線を巡らせながら話題を探す。それからふと浮かんできた疑問を投げかける。視線の端に移った時計は分針をガチリと揺らしていた。秒針がないから止まってるように見えたのかと、考えれば当然の事にやっと気が付いた。

一輝かずきは塾だと。あいつ最近付き合い悪いよなー」哲平が僕に同意を求めるように、目を合わせた。曖昧に肯定するように頷く。

「哲平は?」

「これから部活に行くとこ。成績悪ぃから今まで先公に説教くらってた。………進路かぁ。どうしようかな俺」哲平が天井を見上げ呟いた。僕は哲平の前まで来ていた。

「哲平はサッカーに関係する仕事がやりたいって言ってたじゃん」それを聞いた哲平は肩をすくめた。

「具体的に決めろってさ」僕は冗談半分に、哲平の肩に手を乗せた。

「がんばれ!未来のファンタジスタ!」おう、と哲平は力強く親指を立てて、笑った。

「太陽は絵、描かないのか?」僕は無表情になり、俯いた。

「お前が描かなくなった理由はわかってる。でも、何度も言うようだけど、本当にもったいないと思うんだ。なあ……。いや、ごめん。結局はお前次第だからな。じゃあ、俺部活から行くわ」哲平は僕は見て、教室を出た。それから振り返り、努めて明るい声で僕に言った。

「また三人で遊ぼうぜ」僕は哲平とは目を合わさずに頷いた。哲平の足音が遠ざかる。



 赤土の大地。光を受けて真赤に燃える。地平の果てでは沈んでいいのかわからない、と太陽が泣いていた。その上をいわし雲の大群が静かに泳いでいる。

 学校を出た僕はまっすぐこの場所に来ていた。見通しのきく荒野の中一際目を引く大きな岩。その岩の象る影に同化した人影。地面に長く伸びた人影、岩陰、岩、徐々に視線を上げて僕は彼女の後ろ姿を確認する。僕は砂を踏みしめてゆっくりと歩き出す。

 「おはよ。元気してた?」岩によじ登っている僕に彼女は夕陽に顔を向けたまま言った。

「まあまあ」岩を登りきり、彼女の横に座りながら僕は言葉を返した。彼女は少し口を尖らせた。

「曖昧ね。しかもあなたは嘘をついてる。ホントは」

「あんま元気じゃない」頭を掻きながら僕は訂正した。彼女には嘘がつけない。

「何があったの?」

 いつの頃だったろう。彼女と会ったのは。会話を交わすようになったのは。

 彼女は自分の事を話したがらず僕に話をせがんだ。名前すら僕は知らない。?三日月?のミカヅキだと冗談めかして笑いながら言ったことがあるが、違うだろう。それでも僕は特に深い詮索をしなかった。

 彼女は聞き上手だった。彼女の前で、僕は驚くほど素直になれた。夢中で毎日の出来事を話した。悩みを打ち明け相談にも乗ってもらった。  

 「今日は午後の授業中――担任の授業だったんだけど――陽気に誘われてついうとうとしちゃったんだ。それで、チョークを投げつけられて」彼女が気遣わしげに僕を見た。

「大丈夫だった?」

「いや、チョークは的を外れて隣の席の奴に当たったんだけど。そのあと起こされて、怒られたんだ。放課後進路指導室に来いってね」

「そんなに怒られること?」

「いや、進路指導がやりたかったみたい。実際進路指導室では寝たことについては軽く触れられただけだし」

「じゃあ何を話したの」

「進路指導」当然だろ、と言いかけて彼女は学校に行っているのか、ふと気になった。僕がここに来た時彼女がいなかったことは一度もない。毎日ここに来ているのだろうか。そういえば彼女とは夕刻にしか会ったことがない。他の時間に来ても彼女はいるのだろうか。「太陽は、進路どうするの?」視線を外してそんなことを考えていた僕は、不意に彼女に覗き込まれて、少しのけ反ってしまった。どうしたの、と彼女が訊ねる。

「い……いや、何でもない。進路ね。……進路か」一瞬の逡巡。そして僕は口を開いた

「正直なんにも考えてない。僕にはやりたいことも、好きなこともない」無感情に言って、顔を背けた。僕の横顔を彼女はどんな顔で見ているのだろう。痛いほどの視線を感じる。しばらくして彼女は言った。

「本当に?」僕は俯いたまま首を揺らす。

「嘘。だってあなたには……」言葉が途切れる。何かを躊躇っているようだ。

「ごめんなさい。今日は、もう終わりね」

 彼女は何を言おうとしたのだろう。思い出したくないことが蘇りそうになって僕はギュッと目を瞑り頭を振った。彼女がそれを知っている筈がない。彼女にすら話していないのだから。深呼吸を一つして顔を上げた時、彼女の姿はなかった。

 夕陽は、未だに沈まず泣いていた。



 それからしばらくしたある日。薄暗がりの道をトボトボと歩く。家へと繋がる最後の直線は気分によって長くも短くもなる。それくらいの距離だった。今日は早く帰って寝たかったが、その道はとても長く感じられた。そんな気分にさせる出来事が学校で起こった。

 ポケットから鍵を取り出しつつ門を曲がる。そのままの流れで鍵を玄関にねじ込もうとして、僕は動きを止めた。

 玄関前に人が座っている。長い髪。艶やかでしなやかな、綺麗な髪。顔が上がる。目が合った。大きく栗色の瞳に僕の姿が映る。

「太陽!」突然叫んで跳ね上がり、飛びついてきた。そのまま僕に体重を預けながら手を腰に回す。僕の胸に顔を埋めて、

「久しぶり。元気してた?」と言った。

「っ……もしかして、満月みづき?」恐る恐る僕は訊ねた。腰に回された手に一層力が込められる。当たり、と耳元で囁いてから、身体を少し離した。僕と目が合う。

「今年からこっちの大学でね。越してきたんだ。これからよろしく」改まって手を差し出す満月。僕は混乱しながらも手を出した。ブンブンと振られる右手を見ながら、僕はやっとのことで言った。

「聞いてないよ」

「言ってないもん。家は前の家と同じだから」左手で隣の家を指差す。

「それより……大きくなったねぇ〜。昔は私のが背ぇ高かったのに」頭に手を乗せ僕の方へスライドさせる。トンッと軽く、僕の胸に満月の手が当たった。

「満月は……」手から顔を見て僕は、満月は肌黒くなったねと言いかけた。かつての満月は、驚くほど白い肌だったはずだ。

「やっぱ南国は日差しが強くてね。でも、おかげで身体が強くなった」僕の言わんとすることを察して満月が手をさすった。それから、積もる話もありますが、と前置きしてから僕の顔を見て言った。

「明日までに引っ越しの片づけを済まさないといけないから、今日は挨拶だけ」満月は歩き出す。門の方向ではなく、隣――満月の家へと続く塀へ向かっている。満月のしようとしていることに気付き改めて、満月だ、と実感した。

「後で手伝いに行くよ」塀によじ登った満月はこちらを向き、ありがと、と言って塀向こうに消えた。

 満月は、僕の一つ年上の幼なじみ。身体が弱く、入院する事も多かったが姉代わりに色々面倒を見てもらった。それ以上に面倒に巻き込んでもらった。悪戯は命をかけてやるもの、と宣言して比較的身体の丈夫な僕ですら大変なことを実行して、周りに迷惑をかけた上にその後しばらくベッドで寝込む満月は今思えば相当に手がかかる子だったに違いない。病人にきついことは言えないので僕はこっぴどく怒られるのを一身に引き受けた。止めたって聞かないんだ満月の悪戯は。僕は思い出して苦笑した。僕が小学六年の時、親の転勤で鹿児島へ越していって以来会ってないので五、六年ぶりか、と考えながら鍵穴に入れた鍵をひねり、ドアを開けた。


 僕は彼女に話す。一輝のこと。哲平のこと。二人とは小学の頃からの付き合いで、親友だと僕は思ってるし、きっと彼らもそう思っているはずだ。

 一輝が塾のために試合を前にしてサッカー部を辞めると言い出したこと。サッカーは何があっても一生続けると言っていた一輝の変化に哲平は激昂した。

 一輝には夢があり、それを果たすには部としてのサッカーは時間をとられすぎる。でもサッカーをやめる訳じゃない。それは変わらない。一輝はそう説明したが、哲平は納得しなかった。

 哲平にも夢がある。そのためにサッカー以外にする事があること。それはわかってる。でも高校で部としてみんなと、一輝とサッカーをやれるのはこれが最後なのだから、たとえ夢が叶うのが遅れても、やりたい。哲平は、一輝を裏切り者とののしり教室を出て行った。一輝も静かに教室を出て行った。

 そんな二人に僕は何一つ言ってやれなかった。夢のない僕には彼らに口を出す権利はないのだと、痛感した。それが悔しくて、口惜しくて。

 沈まぬ夕陽を見ながら、そんなことを話した。彼女はずっと、前を見ていた。 

 夕陽は厚い雲の間から微かな光を送っていた。いつもよりも闇が深い。

「だったら、探せばいい」黙って僕の話を聞いていた彼女は静かに口を開いた。夕闇が彼女を包んで離そうとしない。側にいるはずなのになんだかかすんで見えた。

「……わからないんだ。僕には彼らみたいに熱中出来る物がある訳じゃない。なんとなく勉強して、遊んで、それだけ」僕は呻いた。

「あなたはあなたが思うことをやればいいの」彼女は言った。静かに、しかし強い口調で。

「それがないんだ」僕は目を逸らして言った。

「だったら探すの。あなたが彼らと対等に親友であるためにはそれが必要なんでしょう?それに先生にだって言われたんでしょう?いい機会じゃない」静かな口調だが、いくばくか怒気をはらんだ声。

「……そうだね」微かだが確かな首の動き。ギュッと噛みしめた下唇。顔を上げて彼女を見て、もう一度、はっきりと言った。

「やってみるよ」彼女は優しく微笑んだ。 

 一層深くなる闇に彼女が呑み込まれそうになる。そのまま消えてなくなりそうな、そんな気がした。

彼女は少しだけ僕に顔を近づけて、右手で僕の頬にそっと触れた。その顔はかつての満月に似ているような気がした。

「思い出して。あなたにはあるはず――あったはず」

彼女の言いたいことはわかる。なぜ彼女がそれを知っているのかはこの際どうでもいい。ただ、それでも、僕にはその選択肢を選ぶ気にはなれなかった。

 僕は瞳を閉じた。


 目を覚ますと天井が見えた。ゆっくりと起きあがる。自宅のベッド。時計を見る。いつの間にか寝てしまっていたようだ。満月の引っ越しを手伝うと言ったことを思い出して、慌てて立ち上がる。私服に着替えて家を出る。塀を超えてチャイムを鳴らす。満月が出るまでの間。やけに明るいと見上げた空に金色の月が、まるく浮かんでいた。

「おはよ。入って入って、今いいところだから」それだけ言ってまたドタドタと階段を駆け上がっていった。

 昔から満月はどんな時の挨拶もおはよ、だった。

 今はよくなっているようだが、かつて満月は病気だった。夜には必ずと言っていいほど発作が起きた。朝頃収まって、日中は割と安定していた。朝が好きなのだ、と満月は言っていた。きっといつでも朝の気分でいたいのだろう、と僕は思った。

 僕は階段を上がっていった。

 満月はアルバムを見ていた。一向に部屋が片づいてる気配はない。おそらく片づけようと始めに開けた段ボールの中に入っていたのがそれだったのだろう。僕はため息をついて言った。

「片づけは」

「かたいこといいなさんな」そう言って満月は僕を手招きした。

 僕はため息を一つついて、ゆっくりと満月の隣に腰を下ろした。 


 写真には僕と満月が写っていた。白いワンピースを着た満月が僕と肩を組んで笑っている。僕も満月も泥だらけだ。アスレチックのある公園に遊びに行った時のものだろう。普通に遊ぶのでは面白くないとわざと柵の上をコースにしたりしては落っこちていたような気がする。よくけがをしなかった、と今更ながらに思った。満月はたまに外で遊ばしてもらえるといつもの三倍くらいはしゃいでいた。白いワンピースに白いサンダルは満月お気に入りのファッションで、元々は病弱なまでの白い肌を目立たせないための配慮だったらしい。隣の満月を見る。黒いTシャツに紺のジーパン。見るからに、というほどではないが、純白に身を包めばさすがに軽めに焼かれた肌が目立つかもしれない。嬉しい変化だ。

 次の写真では二人は泣きはらした顔でホットケーキを食べていた。前の晩に調子が悪かった満月が朝になって、元気になったと勝手に僕の家に遊びに来たのだ。正門を通ると二階の親の部屋から見えてしまうとの理由から満月は脱走にこの塀を使った。それからは普通に遊ぶ時にもこの塀づたいにくるようになった。近道だし、スリルがあるからと満月は嬉しそうに語った。この写真は僕の親づたいに満月の親に脱走がばれてこっぴどく叱られた後だろう。撮ってくれたのは満月のお父さんで、彼は昔から写真を撮るのが好きだった。激しく怒った後の満月のお母さんをなだめながら、僕らにホットケーキをふるまい、ブツブツ文句を言う妻を尻目に楽しそうにシャッターを切る満月のお父さんの姿が印象的だった。僕は彼が大好きだった。今も全く変わってないよ、と大げさにため息をつく満月に、同情を含めた笑いを送りながら、内心なんとなくホッとしていた。

 川の土手から山に沈む夕陽を撮った風景写真が隅に貼られていた。

「子供の頃夕方が嫌いだった」僕は呟いた。

「私も。でも私とは理由が少し違うかな?」満月が応える。

「寂しかった。友達と遊んでても、世界がこの色に塗られたら、別れなくちゃいけないから。今でも夕陽を見ると毎日友達と遊べて、他に気にすることがなく遊び回ってた頃を思い出すよ。子供時代といえば夕方だ」

「そうだよね。遊び終わったらその日は終わりって感じで。もう明日まで待てない、みたいな」満月の声のトーンが暗くなる。口には出さなかったが、心の中ではこう続けているだろう。

――夜が、来るしね。

 こんな話をするべきじゃなかった。僕は少し後悔した。 

 ページをめくる。

 そこには写真ではなく絵が貼られていた。風景画。色鉛筆やクレヨン、水彩など多種の画材によって描かれたそれらの絵は、自分で言うのも何だが、よくできていると思う。

 そう、これは僕がかつて描いた物だった。決して見たままの風景をそのまま切り取ったような絵ではないが、その場所の情感、受けた感動がよく伝わるとみんなに言われた。僕自身、そうありたいという思いを込めて描いたと自信を持って言える。

「懐かしいなぁ。太陽の風景画。久しぶりに見るよ。すっごく上手だよね」フィルム越しに絵の輪郭を人差し指でなぞりながら満月は言う。先ほどとは違い、明るい声。無理している様子もない。僕はホッとしながら、少しだけ身体が緊張するのを感じた。

「たしか私が、すっごく楽しみにしてた遠足に行けなくなっちゃって、泣きじゃくってたのを見た太陽が、代わりに見てくるって。写真でいいのに、わざわざ絵を描いてきてくれて。それが最初だった」二枚目の絵も同様になぞり続ける。

「その前から太陽は絵を描いてたよね。何だっけ…アニメかなんかのポスターを模写したりしてた」右のページに飛んで三枚目。僕は拳に流れる汗を握りつぶした。

「で、色んな場所の絵を私のために描いてくれるようになって。すごく、嬉しかった。今も描いてる?また、見せてね」四枚目もなぞり終え、ページをめくろうと動かした手が止まる。

「そういえば太陽は風景画もうまいけど似顔絵はもっとうまかったよね」緊張が隠しきれなくなる。満月に伝わったのだろう。こちらを見ている。僕は俯いたまま何も言わない。視線をなるべく遠ざけようと隣の段ボールを流し見た。『台所用品』とマジックインキで書かれている。

「もしかして、まだあの事……」少しだけためらいがちに満月が訊ねる。

 反応しないつもりだった。が、しかし、俯いてさらに満月の視線から逃げようと首が微かに動いてしまう。ただの友達なら、あるいは見逃してしまうような小さな動作だった。しかし満月にはそれで十分すぎるほどに伝わっただろう。そんな関係が少しだけ、うらめしかった。

 時計の秒針が時を刻む音が部屋に響いていた。

「……片づけ、しよっか」アルバムを閉じる音。立ち上がる気配。段ボールに手がかけられ、ガムテープをちぎり箱が開けられる。あわただしく歩き回る足音。さらに数分経ってからようやく僕はのろのろと、緩慢な動作で立ち上がり、動き始めた。


 小学六年生。卒業を間近に控えた頃。僕には好きな人がいた。

 その人は頭がよく、運動神経も秀でていた。誰にでも優しく声をかけ、クラスの中心であり、人気者と呼ぶにふさわしい。おまけに美人であった。誰の目から見ても、一際目を引く容姿。僕の目もまた例外に漏れず、その人を魅力的な人物と見ていた。

 今思えば、ただの憧れだったのかもしれない。当時だってほとんど憧れ以外の気持ちはなかったはずだ。しかし、ちょっとしたことで気落ちしていた僕に優しく声をかけてくれた時――それが彼女にとって至極当然の行為であったとしても――僕の中で何かのスイッチが入ってしまったのだろう。

 その頃の僕は満月に色々と絵を描いていたため、校内でも絵の上手い奴としてのポジションを得ていた。特に似顔絵描きでは他学年からわざわざ来るような人もいるほどだった。

 クラス一の美人が僕の所に来るのも当然といえば当然であった。

 僕はいつも以上に緊張しながらその人の顔を見つめた。少し照れたように笑いながら僕の目の前にいる。その顔はやっぱり美しくて、紙に写せばさぞや高尚な一枚絵になるだろう。いや、しようと思った。僕の目にはそう映っていた。

 けれど、僕の手は、違った。

 描き終えた時、いや描いている途中からうすうす気付いていた。なんて醜い顔なんだろう。顔の造作自体は実物とほぼ同じだし、その絵が誰を表しているのかは一目瞭然な程に似ている。しかしその顔からにじみ出る印象は醜悪なそれであり、おおよそ僕の目に映る憧れの人とは異なっていた。僕は焦り、何度も描き直したが結局その印象をかき消すことが出来ずにその絵は皆の目にさらされることになってしまった。

 絵を見た本人と周りから覗き込んだ人達の、驚愕の顔は今でも鮮明に覚えている。その表情は誰かがポツンと言った言葉によって崩される。

――そっくりじゃん。

 やっぱり?そう思う?実は私も……。なんていうか、しっくりくるよね。

 そんな会話が本人の前でひっそりと、しかしはっきりと流れていく。

 僕は悲しくなった。僕の描いた絵によって僕が皆の罵倒を受け、憧れの人に嫌われることになるのは、覚悟していた。それが普通だと思っていたからだ。しかし現実には僕の絵は受け入れられ、その人が昔からその絵の表すような人物であったことを再確認するような流れになっている。

 僕は悲しくなった。僕の憧れの人が、僕の描いた絵によって、かなしみに顔を歪めている。こんな事は初めてだった。

 僕が冗談にしてしまえばよかったのかもしれない。弁護の言葉があればあるいは。しかし僕には何も言うことができなかった。

 足下にパサリと絵が落ちた。息の詰まる空気の中その人は立ち上がり教室を出て行った。そして、戻ってくることはなかった。誰かが落ちた絵を拾い、その人の鞄に入れた。「現実を見せるためにね」その言葉には以前あったはすの尊敬や憧れの情は含まれず、人を見下し笑い者にしようとする無感情な嘲笑いだけがあった

 後に聞いた話では、人の羨望の的になるために手段を選ばない人間だったという。人知れず涙を流していた人の数も少なくなかった。表面上仲良くしていたが、嫌っていた人は多かったという。その人が卒業目前に引っ越していった後、そういった事実は明るみに出ることになった。

 結局、僕の手が正しかった。しかし、それで僕の好きだった人を学校にいられなくなるほどに傷つけたという出来事は僕の心に自分の絵が誰かを傷つけるかも知れないという恐怖を生み出し、その日以来僕は描くことをやめた。描くことができなくなった。

 それから程なくして満月は鹿児島に行った。最後まで、落ち込む僕を心配してくれた満月。手紙も何度かくれたが、僕は返信しなかった。

 そして僕は彼女に出会った。暮れなずむ世界に佇む彼女に。それは僕の心の生み出した――。それは子供時代の――。そして僕の?彼女?への――。


 引っ越しの手伝いというより邪魔をするように満月の家をうろうろしながら僕は記憶の彼方からそんなことを引っ張り出していた。

 満月は片づけをなんとか終えて小型のテーブルで僕に紅茶を振る舞ってくれた。そしておもむろに一枚の絵を取り出した。

 それは何枚も描いた満月の似顔絵のうち一番新しい物だった。「あの」事件の起こる少し前に描いた奴だ。

「太陽の絵は、ただの似顔絵じゃない。その人の持つ本性までもそこに描き出す力がある。だから、太陽が私をこんな風に描いてくれて本当に嬉しかった。病気とかで心が弱るとね、闇に呑み込まれちゃうんだよ。それはとっても恐くて、怖くて、泣きたくなって、自分に嫌気が差して、周りの世界まで大嫌いになっていくの。そんな自分がもっともっと嫌いになって、どんどん、どんどん深い闇の底へ吸い込まれていくような、そんな気がするの。そんなときにこの絵を見ると、ああ私はこんなに綺麗なんだ、こんなに綺麗に見られてるんだって勇気づけられるんだ。だから私向こうに行ってもこの絵は肌身離さず持ってた。一生大事にするよ」愛おしげにその絵を撫でながらそのまま話を続ける。

「うまく言えないけど、太陽の絵の影響力はすごいと思う。良くも……悪くも。でも人を傷つけるっていうのは必ずしも悪い事じゃないと私は思う。悪意があって傷つけるのはともかく、それがないのにその人が傷つくのは、きっと傷ついた方に何か問題があるんだよ。太陽が悪いわけじゃない。むしろそれをプラスに出来るかもしれない。それならその時は悪い影響に見えても、結局は良かったってことになるんじゃないかな」僕には満月の言うことがよくわからなかった。傷つけることが良いことだなんて、信じられなかった。満月は顔を上げて、僕の目を見る。

「発作のひどい夜が続くと、ずっと夜の世界をさまよってる気がするの。もう二度と陽は昇らないんじゃないかってね。でもあなたが、あなたの絵が、教えてくれた。陽はまた昇る。何度でも。……あなたが、くれたんだよ」少し間をおいて、だから、と続ける。

「だから、太陽は絵を描くべきだと思う。もっとたくさんの人に、朝を、見せてあげて。たとえ夜をもたらしたとしても、朝は必ず来るのだから」

 

 「一輝、会わせたい人って……」日曜日の昼。僕は一輝に呼び出されて駅前に来ていた。「ああ、塾で偶然会ってさ。ぜひお前に会わせたかったんだ」僕の前には、憧れの人がいた。かつての面影を残しつつ、すこし緊張したように、恥ずかしそうに、決まり悪そうに、はにかむその人は、やっぱりきれいだった。

「久しぶり。カズ君にあなたの話を聞いたの。確かにあの時はすっごく傷ついたけど、家に帰って鞄の中に入ってた絵を見て、それから鏡をみて、反省したの。こんな風に描かれるのも無理ないことだと思って、私自分を変えようと努力したのよ」あの絵を取り出し、僕にも見えるような位置に持ち、その人はしげしげと絵を見た。

「大変だった。最初の頃なんて普通に人と話すのも怖くて。何度も何もかもが嫌になって、鬱みたいになったけど、そんなときはこの絵を見て自分を奮い立たせたの。あなたのおかげで私は生まれ変われたのよ。ありがとう。そしてごめんなさい。私のせいであなたを随分苦しめてしまった。何も気にしないで。結果的には良かったのだから」僕はこの時やっと満月の言った言葉を実感の伴った言葉として理解することが出来た。少しだけ、今なら描けるかもしれないと思った。

「ね、今の私を描いてくれない?きっとこれよりはマシな顔になるはずだから」その人は遠慮がちに訊ねた。僕は頷いた。

「でも少し待って。その前に描きたい物があるんだ」その言葉にその人は今までで一番きれいに笑った。

「よかった。もう二度と描かないことに決めたんだなんて言われたら私どうしようって思ってたの」

 それからしばらく話して、別れ際一輝が僕に話しかけた。

「哲平とのことでお前に迷惑かけてゴメン。でももう決めたから。俺やっぱサッカーもしたいんだ。親は怒るだろうけど、哲平の方が恐いからな」へへへ、と照れ笑いして一輝は頭を掻いた。


 

 赤土の大地。もはや夕陽はその光を届けるだけの力を持っていない。ただ微かに地平の果てを照らすのみだ。

 彼女はやはり、岩に腰掛けていた。

「どう?見つかった?」

「そう簡単に吹っ切れるもんでもないよ。でも少しずつやろうと思う。とりあえず、今のところ」

「そう。よかった」彼女は笑った。でもその顔は少し寂しげに見えた。

「陽が沈んでいく。さよならだね」岩から飛び降りる。くるりと回り僕を見る。

「すぐに朝が来る。夜は、月と共に飛び越えてしまったから」

「またいつか夜が来る時が来るかもしれない。とても、長い夜かもしれない。でも忘れないで。陽はまた昇る。それに夜は月が輝く」ニッコリと笑った。

 世界が、やがて闇に包まれていく。

 消えゆく視界の中、彼女は言った。

 手を軽く挙げて、指を曲げ、開きながら。


――バイバイ。 



 「太陽!ほら起きなさいって」

 朝の光を受け、心地よいまどろみに身を委ねていた僕を布団ごと投げる。

「まだ早いよ」しこたま打ちつけた腰をさすりながら時計を指さす。

「私は行く時間なの!……っと、もう行かないとぉ!」そう言って僕の部屋のドアを開けて、立ち止まる。振り返って、窓の横に掛けてある物を見る。

「いいじゃん」心底嬉しそうに笑って言う。

 満月はこっちに来て以来毎日僕を起こしに来る。僕はやれやれ、と苦笑した。

 机の上のケイタイ。昨日の夜送られてきたメールが表示されっぱなしになっている。

『来週日曜十時にいつもの場所で。メンバーも勿論いつも通り、俺、お前、一輝。遅れるなよ! 哲平』

 机の引き出しの中。新しく描いた満月の似顔絵。そこに描かれたものはまだ満月に見せるわけにはいかない。いつか僕に決心がついたらそれを見せよう。きっとそんなに遠い事じゃない。

 僕は満月が慌ただしく駆けていった後、立ち上がって満月の見た物を見る。

 そこには一枚の絵が飾ってある。昨日仕上げたものだ。

 夕陽と荒野の絵。そして白いワンピースを着た少女の後ろ姿。

 僕は一言、バイバイと言って階下に降りていった。

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