白百合の咲く庭で、あなたに伝えられなかったこと
王都の北東に位置するローゼン侯爵家の庭園には、季節を問わず花が咲いている。
春には色鮮やかな薔薇が咲き誇り、夏には白百合が風に揺れる。秋には金木犀が香り、冬でさえ、庭園の片隅には寒さに耐える花々が残っていた。
その日も、色とりどりの花々が午後の陽光を浴び、穏やかな風に揺れていた。
「アデライード様。こちらのお菓子、とても美味しいですわ」
向かいに座る少女が、嬉しそうに微笑んだ。
リリアーナ・フォン・ローゼン。
ローゼン侯爵家の令嬢であり、王都の社交界では、その慎ましやかな人柄と美貌で知られている。
陽光を受けて淡く輝く金色の髪。春の湖を思わせる澄んだ碧眼。そして、誰に対しても分け隔てなく接する優しい心。
彼女の周囲には、いつも自然と人が集まっていた。
そんな彼女の向かいに座る一人の令嬢。
アデライード・フォン・ヴァレンシュタイン。
王国屈指の名門、ヴァレンシュタイン公爵家の一人娘である。
その美貌と才覚は王都でも広く知られていたが、彼女を語るうえで欠かせないものがあった。
それは、苛烈な性格である。
傲岸不遜。冷酷無比。
自らの気に入らぬ者には容赦なく、時には公爵家の権威すら振りかざす。
その振る舞いから、社交界ではいつしか『悪徳令嬢』と呼ばれるようになっていた。
しかし、そんな彼女にも一つだけ、決して人には知られたくない秘密があった。
それは、目の前にいる少女を心の底から愛しているということだった。
「そう。お気に召したのなら結構ですわ」
「このお菓子、どちらのお店のものですの?」
「王都で最も名の知れた菓子職人に作らせたものですわ。あなたのために用意させましたの」
「まあ……ありがとうございます」
「勘違いなさらないで。わたくしが気に入ったものを、あなたにも味わわせてあげようと思っただけですもの」
「ふふ。そういうことにしておきますわ」
リリアーナが笑う。
その笑顔を見るたび、アデライードの胸には言葉にしがたい幸福が満ちていった。
彼女はこの少女を愛していた。
それも、尋常ではないほどに。
美しい宝石を手に入れても、豪奢なドレスを仕立てても、アデライードの心が満たされることはない。
ただ、リリアーナが笑ってくれれば、それだけでよかった。
もっとも、その気持ちを素直に伝えられるほど、彼女は器用ではなかったが。
「ところで、リリアーナ。先日のお茶会にはいらっしゃいませんでしたわね」
「申し訳ございません。少し用事がありまして」
「用事?」
「ええ。少々、村の方へ」
「村?」
アデライードは紅茶のカップを口元へ運んだ。
「侯爵令嬢ともあろうお方が、随分と珍しい場所へ足を運ぶものですわね」
「そうでしょうか?」
「別に構いませんけれど。あなたの行動にいちいち口を挟むつもりはございませんもの」
「ありがとうございます」
リリアーナは微笑み、再び菓子に手を伸ばした。
アデライードは、それ以上尋ねなかった。
村に何の用があるのか。
そんなことは、今のところどうでもよかった。
彼女が自分の前で笑っている。
それだけで十分だった。
*
それから幾度か、同じような午後が訪れた。
リリアーナは時折、王都を離れた。
理由を尋ねれば、いつも決まって村へ行くのだという。
ある日は、村の子供たちに絵本を届けに。
またある日は、病を患った老人を見舞いに。
侯爵令嬢としては珍しいことではあるが、慈善活動そのものは褒められるべき行いだった。
だからアデライードも、初めのうちは特に気に留めていなかった。
ただ、一つだけ気に入らないことがあった。
「リリアーナ様、最近は随分とお忙しいご様子ですね」
ある日の茶会で、アデライードの侍女がそう口にした。
「ええ。少しばかり予定が立て込んでおりますの」
「また村へ?」
「はい。明後日にも参ろうかと」
「……そう」
アデライードは横目でリリアーナを見た。
彼女はいつもより少しだけ楽しそうだった。
村へ行くときだけ、そんな顔をする。
「あなた、村に何か特別なものでもございますの?」
「特別なもの、ですか?」
「ええ。随分と頻繁に通っていらっしゃるようですから」
「ふふ。そうですね。わたくしにとっては、大切な場所ですわ」
大切な場所。
その言葉に、アデライードはわずかに眉を動かした。
「そう。随分とご執心ですこと」
「はい。とても素敵な方がいらっしゃいますの」
アデライードの手が止まった。
「……素敵な方?」
「ええ。とても優しくて、穏やかで。お話ししていると、心が安らぐのです」
「まあ。それは結構なことですわね」
口調だけはいつも通りだった。
けれど、カップの中の紅茶は、もう一口も飲む気になれなかった。
*
その日の帰り際。
アデライードはリリアーナを馬車まで見送った。
「それでは、アデライード様。また近いうちに」
「ええ。次はもう少し早くいらっしゃいな。あなたがいないと、茶会も退屈ですもの」
「まあ。嬉しいですわ」
リリアーナは深々と礼をし、馬車へ乗り込んだ。
車輪がゆっくりと回り始める。
その姿が見えなくなるまで、アデライードは庭園に立っていた。
「お嬢様」
侍女が声をかける。
「何ですの?」
「リリアーナ様がお好きだと仰っていたお菓子ですが、次回もご用意いたしましょうか?」
「当然ですわ」
「かしこまりました」
「それと、次の茶会はわたくしの屋敷で開きます。侯爵家にもそのように伝えておきなさい」
「承知いたしました」
アデライードは踵を返した。
あの子が村へ行くのなら、村へ行く必要などなくなるほど、ここを居心地のよい場所にすればいい。
そうすれば、いつかきっと。
彼女は自分だけを見てくれる。
そう信じていた。
*
季節が移り変わる頃、アデライードは一つの違和感に気づいていた。
リリアーナが村から戻ってくるたび、その表情が少しずつ変わるのだ。
以前よりも笑顔が増えた。
何かを思い出すように、ふと口元を緩めることもある。
そして、時折、胸元に手を当てては幸せそうに微笑んでいた。
ある日のこと。
アデライードは侯爵家を訪れていた。
廊下を歩いていると、窓の向こうに見慣れた姿があった。
庭園に立つリリアーナ。
彼女は一通の手紙を胸に抱き、誰にも見られていないと思っているのか、普段よりもずっと柔らかな笑みを浮かべていた。
その表情を見て、アデライードは足を止めた。
自分は、あの子のあんな顔を見たことがあっただろうか。
「アデライード様?」
背後から侍女に声をかけられ、我に返る。
「……何でもありませんわ」
彼女は再び歩き始めた。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残っていた。
*
数日後、アデライードは侯爵家の使用人を呼びつけた。
「少々、お尋ねしたいことがございますの」
「は、はい。何なりと」
「リリアーナが頻繁に通っているという村についてですわ」
使用人の顔がわずかに強張った。
「何かご存じ?」
「いえ……その……」
「隠し事は感心しませんわね」
アデライードは扇子を広げた。
「わたくしは、あなたを責めようとしているのではありません。ただ、あの子の身を案じているだけですの」
その言葉に、使用人は観念したように口を開いた。
「村には、リリアーナ様がお慕いになっている男性がいるそうです」
扇子の動きが止まった。
「……男性?」
「はい。平民の青年でございます。以前、リリアーナ様が村を訪れた際に知り合われたとか」
「それで?」
「その後も何度かお会いになっているようで……」
「そう」
アデライードは扇子を閉じた。
静かな沈黙が流れる。
「お名前は?」
「レガシーと申すそうです」
「そう。レガシー……」
その名を口の中で転がす。
何の変哲もない、どこにでもいるような平民の名前だった。
それが、ひどく気に入らなかった。
「ご苦労さま。下がってよろしいですわ」
「失礼いたします」
使用人が部屋を出ていく。
アデライードは窓の外を眺めた。
庭園では、白い百合が風に揺れていた。
「……まったく」
手にした扇子を閉じる。
「わたくしというものがありながら」
口元には、いつもの美しい笑みが浮かんでいた。
*
それから、アデライードの行動は変わった。
リリアーナが村へ行く日は、必ず予定を尋ねるようになった。
茶会の招待も増やした。
贈り物も以前より豪華になった。
新しいドレス。宝石。王都でも手に入らない珍しい香水。
それらを惜しみなく与えた。
けれど、リリアーナは以前ほど喜ばなくなっていた。
「アデライード様、いつもありがとうございます」
「当然ですわ。あなたに相応しいものを選んでいるだけですもの」
「でも、こんなにたくさん……」
「不満でも?」
「いいえ。とても嬉しいです」
リリアーナは微笑んだ。
しかし、その笑顔にはどこか遠慮があった。
アデライードはそれが気に入らなかった。
「ところで、次の休日は空いていらっしゃる?」
「申し訳ございません。その日は少し用事が……」
「また村ですの?」
「……はい」
「そう」
アデライードは紅茶を置いた。
「随分とお忙しいこと。わたくしとの約束よりも大切な用事がおありなのね」
「そういうわけでは……」
「では、どういうわけですの?」
リリアーナは答えなかった。
「……申し訳ございません」
「もう結構ですわ」
アデライードは立ち上がった。
「好きになさいませ。あなたの時間をどう使おうと、わたくしの知ったことではありませんもの」
そう言って部屋を出た。
廊下に出てから、彼女は一度だけ振り返った。
リリアーナは、まだ席に座っている。
寂しそうな顔をしていた。
それを見て、胸がずきりと痛んだ。
けれど、戻ることはできない。
自分から謝るなど、考えられなかった。
公爵令嬢である自分が、なぜ。
あんな平民のどこがいいのか。
ただ、彼女がこちらを向いてくれればいい。
それだけなのに。
*
王都に冷たい風が吹き始めた頃には、リリアーナと会う機会は片手で数える程度になっていた。
アデライードは心の隙間を埋めるように、別の令嬢たちとの茶会を開いた。
しかし、どれほど美しいドレスを着飾った令嬢たちを招いても、どれほど豪華な菓子を用意しても、そこに満足感はなかった。
笑い声が響くたび、彼女は無意識に向かいの席を見てしまう。
そこには、もうリリアーナはいない。
そんなある日。
ローゼン侯爵家の馬車が、いつものように村へ向かっていた。
その後ろを、少し離れた場所から別の馬車が追っていた。
アデライードの馬車だった。
彼女は窓の外を眺めながら、何も言わなかった。
やがて馬車が村に到着する。
遠くに、小さな教会と古びた家々が見えた。
広場では、リリアーナが一人の青年と向かい合っていた。
青年は平民らしい質素な服装をしていた。
しかし、リリアーナは彼を見つけるなり、花が咲いたように笑った。
そして青年もまた、穏やかな笑みを返した。
二人は何かを話していた。
青年が何かを言うと、リリアーナは口元に手を当てて笑った。
その距離は近く、互いを見つめる眼差しには、確かな親しさがあった。
「……あれが?」
アデライードが尋ねる。
「おそらく、レガシーという青年かと」
侍女が答えた。
「そう」
アデライードは二人を見つめた。
やがて、リリアーナが鞄から一枚の紙を取り出した。
何かを書いたものらしい。
青年はそれを受け取り、しばらく目を通していた。
そして、少し困ったように笑う。
リリアーナは恥ずかしそうに俯いた。
「……何をしているのかしら」
アデライードの声が低くなる。
そのとき、風が吹いた。
リリアーナの手から一枚の紙が飛ばされる。
青年が拾い上げようとするより先に、リリアーナがそれを追いかけた。
ようやく紙を手にすると、彼女はそこに書かれた文字を確かめ、ほっとしたように胸元へしまい込む。
そして、何かを思い出したように王都の方角へ目を向けた。
「……アデライード様にも、お見せしたかったな」
小さな呟きだった。
青年が聞き返すと、リリアーナは慌てて首を横に振った。
「ううん、何でもないの」
その表情には、先ほどまでとは違う、どこか寂しげな色が浮かんでいた。
馬車の中のアデライードには、当然その言葉は届かない。
ただ、青年に向けられたリリアーナの笑顔だけが、彼女の目に焼きついていた。
「帰りますわよ」
「よろしいのですか?」
「ええ。見る価値もございませんもの」
馬車が動き出す。
車窓から見える村の景色が、少しずつ遠ざかっていった。
アデライードは膝の上で両手を重ねた。
指先に力が入る。
あの男がいなければ。
あの男さえいなければ。
リリアーナは自分の傍に戻ってくるのではないか。
そんな考えが、頭から離れなくなっていた。
*
その夜、アデライードは父である公爵を訪ねた。
「お父様。ひとつ、お願いがございますの」
「何だ、アデライード」
「ローゼン侯爵家の令嬢についてですわ」
「リリアーナ嬢か。彼女がどうした?」
「少々、困った問題がございまして」
彼女は村での出来事を話した。
もちろん、自分の嫉妬については一言も触れなかった。
「侯爵令嬢が平民の男と密会しているのか」
「ええ。家の名誉にも関わることでしょう?」
「確かに、放ってはおけんな」
「ですから、あの男を調べていただきたいのです」
公爵は娘の顔を見つめた。
「お前は、その男をどうしたいのだ?」
「どう、と仰いますと?」
「まさか、殺せと言うのではあるまいな」
アデライードは微笑んだ。
「お父様。わたくしはただ、王国の秩序を守りたいだけですわ」
公爵はしばらく黙っていた。
娘の言葉を、そのまま信じたわけではない。
しかし、彼女が何を望んでいるのかは十分に理解していた。
「分かった。こちらで調べよう」
「ありがとうございます」
アデライードは優雅に礼をした。
その日、彼女は一度も父の目を見なかった。
*
数日後、青年レガシーは拘束された。
罪状は王族への反逆行為。
王国の機密を外部へ流したという嫌疑だった。
もちろん、彼にそのような覚えはなかった。
しかし、証拠として提出された書類には、彼が王国の情報を他国へ渡したと記されていた。
すべて、ヴァレンシュタイン公爵家の手によって用意されたものだった。
裁判は形式的なものに過ぎなかった。
淡々と事は進み、青年には弁明の機会すら十分に与えられず、死刑が言い渡された。
そして処刑は、小規模で行われた。
アデライードは自邸の窓辺で、その報告を受けた。
「処刑は滞りなく終了いたしました」
「そう。ご苦労さま」
彼女は手元の紅茶に口をつけた。
味は、いつもと変わらない。
窓の外には、冬の訪れを告げる灰色の雲が広がっていた。
「これで、ようやく……」
小さく呟く。
これで、リリアーナを惑わせるものはなくなった。
もう村へ行く理由もない。
あの男に会う必要もない。
これからは、自分の傍にいてくれるはずだ。
そうすれば、また以前のように笑ってくれる。
アデライードはカップを置いた。
「次のお茶会の準備をなさい」
「かしこまりました」
「リリアーナの好きな菓子も忘れずに。あの子が喜ぶものを、できる限り用意してちょうだい」
「承知いたしました」
彼女は窓の外へ視線を戻した。
もうすぐ、以前のような日々が戻ってくる。
そう信じて疑わなかった。
*
翌週、アデライードはリリアーナを自邸へ招いた。
応接室には、彼女の好きな菓子が並べられていた。
庭園には新しい花が植えられ、部屋には彼女が好む香りの香水が焚かれている。
すべて、リリアーナのためだった。
「アデライード様。お話とは何でしょうか」
「まあ、まずは座りなさい」
リリアーナは静かに腰を下ろした。
以前なら、席に着くなり楽しそうに話しかけてきたはずだった。
しかし、今の彼女はどこかよそよそしい。
アデライードはそれに気づかないふりをした。
「あなたに、お伝えしたいことがございますの」
「はい」
「村の青年についてですわ」
その瞬間、リリアーナの顔色が変わった。
「……レガシー様のことですか?」
「ええ。あの男は、先日処刑されましたわ」
カップを持つリリアーナの手が止まった。
「……どうして」
「王国への反逆罪ですって。身の程を弁えない平民には、相応しい末路でしょう」
「そんな……」
「もう、心配する必要はありませんわ」
アデライードは微笑んだ。
リリアーナは彼女を見つめていた。
その瞳に、少しずつ理解が浮かんでいく。
「……あなたが、やったのですか?」
「何を仰っているの?」
「レガシー様を……殺したのは、あなたなのですか?」
アデライードは少しだけ首を傾けた。
「どうして……どうしてそんなことを」
リリアーナの声が震える。
アデライードは彼女の手を取ろうとした。
「もう大丈夫ですわ。これからは、ずっと一緒にいられます。あなたの好きなものは何でも用意いたしますし、望むものはすべて与えましょう。ですから――」
「触らないで」
小さな声だった。
けれど、アデライードの動きは止まった。
「リリアーナ?」
「どうして、あなたは……」
リリアーナの頬を涙が伝った。
「わたくしが何を望んでいるのか、一度でも考えてくださったことはありますか?」
「もちろんですわ。だからこそ、あの男を……」
「違います!」
悲痛な叫びだった。
「あなたは、いつもそうです……」
リリアーナは涙を拭うこともなく、アデライードを見つめた。
「わたくしの話を聞こうともせず、勝手に決めつけて……。わたくしが何を考えているのか、知ろうともしてくださらない」
「それは、あなたのためを思って――」
「もう結構です」
リリアーナは静かに首を横に振った。
「……リリアーナ」
「どうして、わたくしの気持ちを聞いてくださらなかったのですか」
その瞳には、怒りよりも深い悲しみが宿っていた。
「わたくし、何度もあなたにお話ししようと思いました。村でのことも、そこで出会った方のことも……」
「でしたら、最初からそう仰ればよかったではありませんの」
「お話ししようとしました!」
リリアーナは初めて、声を荒らげた。
「でも、あなたはいつもわたくしの言葉を遮るではありませんか。わたくしが何かを話そうとすると、すぐに決めつけてしまう。だから、言えなかったのです」
「それは……」
「わたくしが村へ行く理由も、レガシー様と何を話していたのかも、あなたは一度だって尋ねようとはしなかった」
リリアーナは俯いた。
「本当は、あなたに聞いてほしかったのに……」
アデライードの胸がざわついた。
「……何を、ですの?」
リリアーナは答えなかった。
ただ、涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「もう、帰らせていただきます」
「待ちなさい」
「お話しすることはありません」
「リリアーナ!」
その声に、リリアーナの足が一瞬だけ止まった。
しかし、振り返ることはなかった。
「あなたなんて、大嫌いです」
その言葉は、刃のようにアデライードの胸を貫いた。
「……何ですって?」
「二度と、あなたの顔など見たくありません」
扉が閉まる。
残されたアデライードは、しばらくその場から動けなかった。
テーブルには、二人分の紅茶が置かれている。
片方は、ほとんど口をつけられていなかった。
彼女のために用意した菓子も、花も、香水も。
当然何一つ、今のリリアーナの心には届かなかった。
*
その夜、リリアーナは自邸へ戻った。
馬車を降りてからというもの、彼女は誰とも言葉を交わさなかった。
自室に入ると、侍女たちに「今夜は一人にしてほしい」と告げ、扉を閉ざした。
夕食が運ばれてきても、手をつけることはなかった。
翌朝になっても、部屋から出てくる気配はない。
心配した侍女が何度も声をかけたが、返事はなかった。
もともとリリアーナは、幼い頃から身体が弱かった。
ここ数か月は村への往復や侯爵家の仕事に加え、アデライードとの関係に思い悩み、十分に休めていなかった。
そして、その日。
彼女は高熱を出して倒れた。
医師が呼ばれ、侯爵家の者たちが懸命に看病した。
しかし、弱りきった身体は回復することなく、静かに息を引き取った。
最後まで、彼女は一つの手紙を枕元に置いていたという。
*
それから数日後。
アデライードは何も知らぬまま、ローゼン侯爵家へ向かった。
馬車が屋敷の前に止まる。
いつもなら、リリアーナが出迎えてくれるはずだった。
しかし、その日、玄関に立っていたのは侯爵ただ一人だった。
「ローゼン侯爵。リリアーナ様はどちらに?」
アデライードは普段と変わらぬ調子で尋ねた。
侯爵は答えなかった。
ただ、アデライードを見つめるその目には、隠しようのない怒りと悲しみが宿っていた。
「……お帰りください」
「何を仰っているのです? わたくしはリリアーナ様に会いに来たのです」
「娘は亡くなりました」
その言葉を聞いた瞬間、アデライードの表情が固まった。
「……今、何と?」
「リリアーナは、数日前に亡くなりました」
「そんな……嘘でしょう?」
アデライードは一歩、侯爵へ近づいた。
「昨日まで、あの子は……いえ、そんなはずはありませんわ。少し取り乱してはいましたが、まさか、そんな……」
「あなたが原因です」
侯爵の声は静かだった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「あなたが娘から何を奪ったのか、お分かりですか」
「わたくしは……」
「娘は、最後まであなたのことを気にかけていました」
アデライードの瞳が揺れた。
「……え?」
「あなたに嫌われているのではないかと、何度も私に尋ねてきましたよ」
侯爵は一度、言葉を切った。
「あなたから贈り物が届いた日は、まるで子供のように喜んでいました。次に会ったとき、何を話そうかと、嬉しそうに考えていたこともあります」
アデライードは黙っていた。
「それでも娘は、あなたの前ではいつも不安そうでした。あなたの何気ない一言に傷つき、それでも嫌われたくないと笑っていた」
「……そんな」
「それなのに、あなたは娘が大切にしていた人を奪った。娘がどれほど悲しむか、考えもしなかったのでしょう」
「わたくしは、ただ……」
「もう結構です」
侯爵は静かに首を横に振った。
「葬儀には、招待状をお送りいたします。それが、娘の最後の望みでしたから」
「最後の……望み?」
「娘は、最後まであなたを嫌いになれなかったのです」
アデライードは何も言えなかった。
侯爵は屋敷の扉に手をかけた。
「お帰りください」
扉が閉じられる。
アデライードは、しばらく玄関の前に立ち尽くしていた。
やがて、手にしていた小さな包みに目を落とす。
中には、リリアーナの好きな菓子が入っていた。
もう一度、話をしようと思っていた。
あの日のことを謝ろうとまでは考えていなかった。
ただ、いつものようにお茶を飲み、以前のように笑ってくれれば、それでよかった。
けれど、もうその機会は二度と来ない。
アデライードの手から、包みが静かに滑り落ちた。
*
葬儀の日。
王都の貴族たちが集まる中、アデライードは一人、棺の前に立っていた。
白百合に囲まれたリリアーナは、眠っているように穏やかな顔をしていた。
「……リリアーナ」
呼びかける。
当然、返事はない。
「随分と、困った方ですわね」
いつものように、少しばかり皮肉を交えて語りかける。
「勝手に村へ行って、勝手にあの男を好きになって……最後には、わたくしを置いていくなんて」
言葉の途中で、声が途切れた。
いつもなら、ここでリリアーナが笑ってくれた。
困ったように眉を下げて、それでも最後には微笑んでくれた。
もう、その姿を見ることはできない。
アデライードは視線を落とした。
棺の傍らには、小さな箱が置かれていた。
中には、古びたリボンと数枚の手紙が入っている。
そのうちの一通に、アデライードの名が記されていた。
彼女は静かに封を開いた。
そこには、見慣れた美しい文字が並んでいた。
『アデライード様へ。
今日は、あなたのことを考えていました。
先日のお茶会で、あなたがわたくしの好きなお菓子を用意してくださったことです。
あのとき、あなたは「たまたま目についただけですわ」と仰っていましたね。
けれど、わたくしは知っています。
あなたが以前、わたくしの好きなものを尋ねてくださったことを。
そういうところが、わたくしは好きなのです。
あなたはいつも少し意地悪で、素直ではありません。
わたくしが話しかけても、つれない返事ばかりなさいます。
それでも、あなたと過ごす時間は何より楽しいのです。
本当は、もっとお話ししたいことがあります。
けれど、いざあなたを前にすると、何を話せばよいのか分からなくなってしまいます。
レガシー様にも、このことを相談しました。
わたくしがあなたの話ばかりするものですから、少し呆れられてしまいましたけれど。
彼は、そんなに好きなら素直に伝えればいい、と笑っていました。
けれど、わたくしにはそれがとても難しいのです。
あなたは、わたくしのことをどう思っているのでしょうか。
もし、少しでもわたくしと同じ気持ちでいてくださるのなら、どれほど嬉しいことでしょう。
次にお会いするときは、もう少し素直にお話しできるといいのですが。
いつか、あなたにこの気持ちを伝えられたらと思います。
リリアーナ』
そこまで読んだところで、アデライードの指が止まった。
手紙がわずかに震える。
もう一度、最初から読み返す。
何度読んでも、そこに記されている言葉は変わらなかった。
あの青年は、恋敵ですらなかった。
ただ、リリアーナが自分の恋心を相談していた相手だったのだ。
村へ行くたび、彼女は自分の話をしていた。
自分の好きなものを尋ね、自分の何気ない言葉を覚え、次に会う日を楽しみにしていた。
あの広場で、青年に見せていた紙。
あれは、自分に宛てた手紙だったのだろう。
そして、王都の方角を見つめていた理由も。
「……そうでしたの」
小さく呟いた。
「あなたは、わたくしのことを……」
その先は言葉にならなかった。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、眠るように横たわる少女がいる。
もう、何を伝えても届かない。
もう、どれほど後悔しても遅い。
「リリアーナ」
棺の縁に手を置く。
「わたくしも、あなたが好きでした」
声が震えた。
「あなたが村へ行くたび、寂しかった。あの男の話をするたび、胸が痛かった。あなたが笑ってくださるなら、何だってしてあげたかった」
涙が一粒、手紙の上に落ちた。
「けれど、わたくしは……あなたが何を望んでいるのか、一度も尋ねようとしなかった」
彼女は手紙を胸に抱いた。
「あなたが笑ってくださる理由を知ろうともしなかった。ただ、わたくしの傍にいてほしかった」
声がかすれる。
「……ごめんなさい」
その言葉を口にしたのは、生まれて初めてだった。
王国中の貴族を見下し、誰にも頭を下げなかった悪徳令嬢が。
ただ一人の少女に、謝罪を捧げていた。
「ねえ、リリアーナ」
彼女は棺の中の少女を見つめた。
「一度でいいのです。いつものように笑ってくださいませんか」
返事はない。
「わたくし、今度こそちゃんとお話ししますわ。あなたの話を最後まで聞きます。好きな場所にも、好きな人にも、何も口出ししません」
返事はない。
「だから……お願い…」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
窓の外では、冷たい風が白百合を揺らしていた。
アデライードはその場を離れなかった。
日が沈んでも、参列者が帰っても、ただ一人、棺の傍らに座り続けた。
彼女は最後まで理解できなかった。
あれほど多くのものを手に入れてきた自分が、なぜ、たった一人の少女の心だけは手に入れられなかったのか。
────いや。
本当は、分かっていたのだ。
愛とは、相手を自分のものにすることではない。
相手の心を知ろうとし、その幸せを願うことだったのだと。
それを知るには、あまりにも遅すぎた。
*
翌年。
ヴァレンシュタイン公爵家の庭園には、白百合が植えられた。
それは、かつてリリアーナが最も好きだった花だった。
誰が命じたのかは分からない。
ただ、その庭園を訪れる者は、いつも同じ光景を目にした。
悪徳令嬢アデライードが、一輪の白百合を前にして静かに微笑んでいる姿を。
かつての彼女を知る者たちは、不思議に思った。
あれほど傲慢で、誰にも心を許さなかった令嬢が、なぜ毎日のように花を眺めているのか。
しかし、誰も尋ねることはできなかった。
「綺麗に咲きましたわね」
アデライードは花弁に触れる。
その指先は、以前よりもずっと優しかった。
「……あなたにも、見せて差し上げたかった」
風が吹く。
白百合が揺れる。




