↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

白百合の咲く庭で、あなたに伝えられなかったこと

掲載日:2026/11/05

王都の北東に位置するローゼン侯爵家の庭園には、季節を問わず花が咲いている。


春には色鮮やかな薔薇が咲き誇り、夏には白百合が風に揺れる。秋には金木犀が香り、冬でさえ、庭園の片隅には寒さに耐える花々が残っていた。


その日も、色とりどりの花々が午後の陽光を浴び、穏やかな風に揺れていた。


「アデライード様。こちらのお菓子、とても美味しいですわ」


向かいに座る少女が、嬉しそうに微笑んだ。


リリアーナ・フォン・ローゼン。


ローゼン侯爵家の令嬢であり、王都の社交界では、その慎ましやかな人柄と美貌で知られている。


陽光を受けて淡く輝く金色の髪。春の湖を思わせる澄んだ碧眼。そして、誰に対しても分け隔てなく接する優しい心。


彼女の周囲には、いつも自然と人が集まっていた。


そんな彼女の向かいに座る一人の令嬢。


アデライード・フォン・ヴァレンシュタイン。


王国屈指の名門、ヴァレンシュタイン公爵家の一人娘である。


その美貌と才覚は王都でも広く知られていたが、彼女を語るうえで欠かせないものがあった。


それは、苛烈な性格である。


傲岸不遜。冷酷無比。


自らの気に入らぬ者には容赦なく、時には公爵家の権威すら振りかざす。


その振る舞いから、社交界ではいつしか『悪徳令嬢』と呼ばれるようになっていた。


しかし、そんな彼女にも一つだけ、決して人には知られたくない秘密があった。


それは、目の前にいる少女を心の底から愛しているということだった。


「そう。お気に召したのなら結構ですわ」


「このお菓子、どちらのお店のものですの?」


「王都で最も名の知れた菓子職人に作らせたものですわ。あなたのために用意させましたの」


「まあ……ありがとうございます」


「勘違いなさらないで。わたくしが気に入ったものを、あなたにも味わわせてあげようと思っただけですもの」


「ふふ。そういうことにしておきますわ」


リリアーナが笑う。


その笑顔を見るたび、アデライードの胸には言葉にしがたい幸福が満ちていった。


彼女はこの少女を愛していた。


それも、尋常ではないほどに。


美しい宝石を手に入れても、豪奢なドレスを仕立てても、アデライードの心が満たされることはない。


ただ、リリアーナが笑ってくれれば、それだけでよかった。


もっとも、その気持ちを素直に伝えられるほど、彼女は器用ではなかったが。


「ところで、リリアーナ。先日のお茶会にはいらっしゃいませんでしたわね」


「申し訳ございません。少し用事がありまして」


「用事?」


「ええ。少々、村の方へ」


「村?」


アデライードは紅茶のカップを口元へ運んだ。


「侯爵令嬢ともあろうお方が、随分と珍しい場所へ足を運ぶものですわね」


「そうでしょうか?」


「別に構いませんけれど。あなたの行動にいちいち口を挟むつもりはございませんもの」


「ありがとうございます」


リリアーナは微笑み、再び菓子に手を伸ばした。


アデライードは、それ以上尋ねなかった。


村に何の用があるのか。


そんなことは、今のところどうでもよかった。


彼女が自分の前で笑っている。


それだけで十分だった。


     *


それから幾度か、同じような午後が訪れた。


リリアーナは時折、王都を離れた。


理由を尋ねれば、いつも決まって村へ行くのだという。


ある日は、村の子供たちに絵本を届けに。


またある日は、病を患った老人を見舞いに。


侯爵令嬢としては珍しいことではあるが、慈善活動そのものは褒められるべき行いだった。


だからアデライードも、初めのうちは特に気に留めていなかった。


ただ、一つだけ気に入らないことがあった。


「リリアーナ様、最近は随分とお忙しいご様子ですね」


ある日の茶会で、アデライードの侍女がそう口にした。


「ええ。少しばかり予定が立て込んでおりますの」


「また村へ?」


「はい。明後日にも参ろうかと」


「……そう」


アデライードは横目でリリアーナを見た。


彼女はいつもより少しだけ楽しそうだった。


村へ行くときだけ、そんな顔をする。


「あなた、村に何か特別なものでもございますの?」


「特別なもの、ですか?」


「ええ。随分と頻繁に通っていらっしゃるようですから」


「ふふ。そうですね。わたくしにとっては、大切な場所ですわ」


大切な場所。


その言葉に、アデライードはわずかに眉を動かした。


「そう。随分とご執心ですこと」


「はい。とても素敵な方がいらっしゃいますの」


アデライードの手が止まった。


「……素敵な方?」


「ええ。とても優しくて、穏やかで。お話ししていると、心が安らぐのです」


「まあ。それは結構なことですわね」


口調だけはいつも通りだった。


けれど、カップの中の紅茶は、もう一口も飲む気になれなかった。


     *


その日の帰り際。


アデライードはリリアーナを馬車まで見送った。


「それでは、アデライード様。また近いうちに」


「ええ。次はもう少し早くいらっしゃいな。あなたがいないと、茶会も退屈ですもの」


「まあ。嬉しいですわ」


リリアーナは深々と礼をし、馬車へ乗り込んだ。


車輪がゆっくりと回り始める。


その姿が見えなくなるまで、アデライードは庭園に立っていた。


「お嬢様」


侍女が声をかける。


「何ですの?」


「リリアーナ様がお好きだと仰っていたお菓子ですが、次回もご用意いたしましょうか?」


「当然ですわ」


「かしこまりました」


「それと、次の茶会はわたくしの屋敷で開きます。侯爵家にもそのように伝えておきなさい」


「承知いたしました」


アデライードは踵を返した。


あの子が村へ行くのなら、村へ行く必要などなくなるほど、ここを居心地のよい場所にすればいい。


そうすれば、いつかきっと。


彼女は自分だけを見てくれる。


そう信じていた。


     *


季節が移り変わる頃、アデライードは一つの違和感に気づいていた。


リリアーナが村から戻ってくるたび、その表情が少しずつ変わるのだ。


以前よりも笑顔が増えた。


何かを思い出すように、ふと口元を緩めることもある。


そして、時折、胸元に手を当てては幸せそうに微笑んでいた。


ある日のこと。


アデライードは侯爵家を訪れていた。


廊下を歩いていると、窓の向こうに見慣れた姿があった。


庭園に立つリリアーナ。


彼女は一通の手紙を胸に抱き、誰にも見られていないと思っているのか、普段よりもずっと柔らかな笑みを浮かべていた。


その表情を見て、アデライードは足を止めた。


自分は、あの子のあんな顔を見たことがあっただろうか。


「アデライード様?」


背後から侍女に声をかけられ、我に返る。


「……何でもありませんわ」


彼女は再び歩き始めた。


胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残っていた。


     *


数日後、アデライードは侯爵家の使用人を呼びつけた。


「少々、お尋ねしたいことがございますの」


「は、はい。何なりと」


「リリアーナが頻繁に通っているという村についてですわ」


使用人の顔がわずかに強張った。


「何かご存じ?」


「いえ……その……」


「隠し事は感心しませんわね」


アデライードは扇子を広げた。


「わたくしは、あなたを責めようとしているのではありません。ただ、あの子の身を案じているだけですの」


その言葉に、使用人は観念したように口を開いた。


「村には、リリアーナ様がお慕いになっている男性がいるそうです」


扇子の動きが止まった。


「……男性?」


「はい。平民の青年でございます。以前、リリアーナ様が村を訪れた際に知り合われたとか」


「それで?」


「その後も何度かお会いになっているようで……」


「そう」


アデライードは扇子を閉じた。


静かな沈黙が流れる。


「お名前は?」


「レガシーと申すそうです」


「そう。レガシー……」


その名を口の中で転がす。


何の変哲もない、どこにでもいるような平民の名前だった。


それが、ひどく気に入らなかった。


「ご苦労さま。下がってよろしいですわ」


「失礼いたします」


使用人が部屋を出ていく。


アデライードは窓の外を眺めた。


庭園では、白い百合が風に揺れていた。


「……まったく」


手にした扇子を閉じる。


「わたくしというものがありながら」


口元には、いつもの美しい笑みが浮かんでいた。


     *


それから、アデライードの行動は変わった。


リリアーナが村へ行く日は、必ず予定を尋ねるようになった。


茶会の招待も増やした。


贈り物も以前より豪華になった。


新しいドレス。宝石。王都でも手に入らない珍しい香水。


それらを惜しみなく与えた。


けれど、リリアーナは以前ほど喜ばなくなっていた。


「アデライード様、いつもありがとうございます」


「当然ですわ。あなたに相応しいものを選んでいるだけですもの」


「でも、こんなにたくさん……」


「不満でも?」


「いいえ。とても嬉しいです」


リリアーナは微笑んだ。


しかし、その笑顔にはどこか遠慮があった。


アデライードはそれが気に入らなかった。


「ところで、次の休日は空いていらっしゃる?」


「申し訳ございません。その日は少し用事が……」


「また村ですの?」


「……はい」


「そう」


アデライードは紅茶を置いた。


「随分とお忙しいこと。わたくしとの約束よりも大切な用事がおありなのね」


「そういうわけでは……」


「では、どういうわけですの?」


リリアーナは答えなかった。


「……申し訳ございません」


「もう結構ですわ」


アデライードは立ち上がった。


「好きになさいませ。あなたの時間をどう使おうと、わたくしの知ったことではありませんもの」


そう言って部屋を出た。


廊下に出てから、彼女は一度だけ振り返った。


リリアーナは、まだ席に座っている。


寂しそうな顔をしていた。


それを見て、胸がずきりと痛んだ。


けれど、戻ることはできない。


自分から謝るなど、考えられなかった。


公爵令嬢である自分が、なぜ。


あんな平民のどこがいいのか。


ただ、彼女がこちらを向いてくれればいい。


それだけなのに。


     *


王都に冷たい風が吹き始めた頃には、リリアーナと会う機会は片手で数える程度になっていた。


アデライードは心の隙間を埋めるように、別の令嬢たちとの茶会を開いた。


しかし、どれほど美しいドレスを着飾った令嬢たちを招いても、どれほど豪華な菓子を用意しても、そこに満足感はなかった。


笑い声が響くたび、彼女は無意識に向かいの席を見てしまう。


そこには、もうリリアーナはいない。


そんなある日。


ローゼン侯爵家の馬車が、いつものように村へ向かっていた。


その後ろを、少し離れた場所から別の馬車が追っていた。


アデライードの馬車だった。


彼女は窓の外を眺めながら、何も言わなかった。


やがて馬車が村に到着する。


遠くに、小さな教会と古びた家々が見えた。


広場では、リリアーナが一人の青年と向かい合っていた。


青年は平民らしい質素な服装をしていた。


しかし、リリアーナは彼を見つけるなり、花が咲いたように笑った。


そして青年もまた、穏やかな笑みを返した。


二人は何かを話していた。


青年が何かを言うと、リリアーナは口元に手を当てて笑った。


その距離は近く、互いを見つめる眼差しには、確かな親しさがあった。


「……あれが?」


アデライードが尋ねる。


「おそらく、レガシーという青年かと」


侍女が答えた。


「そう」


アデライードは二人を見つめた。


やがて、リリアーナが鞄から一枚の紙を取り出した。


何かを書いたものらしい。


青年はそれを受け取り、しばらく目を通していた。


そして、少し困ったように笑う。


リリアーナは恥ずかしそうに俯いた。


「……何をしているのかしら」


アデライードの声が低くなる。


そのとき、風が吹いた。


リリアーナの手から一枚の紙が飛ばされる。


青年が拾い上げようとするより先に、リリアーナがそれを追いかけた。


ようやく紙を手にすると、彼女はそこに書かれた文字を確かめ、ほっとしたように胸元へしまい込む。


そして、何かを思い出したように王都の方角へ目を向けた。


「……アデライード様にも、お見せしたかったな」


小さな呟きだった。


青年が聞き返すと、リリアーナは慌てて首を横に振った。


「ううん、何でもないの」


その表情には、先ほどまでとは違う、どこか寂しげな色が浮かんでいた。


馬車の中のアデライードには、当然その言葉は届かない。


ただ、青年に向けられたリリアーナの笑顔だけが、彼女の目に焼きついていた。


「帰りますわよ」


「よろしいのですか?」


「ええ。見る価値もございませんもの」


馬車が動き出す。


車窓から見える村の景色が、少しずつ遠ざかっていった。


アデライードは膝の上で両手を重ねた。


指先に力が入る。


あの男がいなければ。


あの男さえいなければ。


リリアーナは自分の傍に戻ってくるのではないか。


そんな考えが、頭から離れなくなっていた。


     *


その夜、アデライードは父である公爵を訪ねた。


「お父様。ひとつ、お願いがございますの」


「何だ、アデライード」


「ローゼン侯爵家の令嬢についてですわ」


「リリアーナ嬢か。彼女がどうした?」


「少々、困った問題がございまして」


彼女は村での出来事を話した。


もちろん、自分の嫉妬については一言も触れなかった。


「侯爵令嬢が平民の男と密会しているのか」


「ええ。家の名誉にも関わることでしょう?」


「確かに、放ってはおけんな」


「ですから、あの男を調べていただきたいのです」


公爵は娘の顔を見つめた。


「お前は、その男をどうしたいのだ?」


「どう、と仰いますと?」


「まさか、殺せと言うのではあるまいな」


アデライードは微笑んだ。


「お父様。わたくしはただ、王国の秩序を守りたいだけですわ」


公爵はしばらく黙っていた。


娘の言葉を、そのまま信じたわけではない。


しかし、彼女が何を望んでいるのかは十分に理解していた。


「分かった。こちらで調べよう」


「ありがとうございます」


アデライードは優雅に礼をした。


その日、彼女は一度も父の目を見なかった。


     *


数日後、青年レガシーは拘束された。


罪状は王族への反逆行為。


王国の機密を外部へ流したという嫌疑だった。


もちろん、彼にそのような覚えはなかった。


しかし、証拠として提出された書類には、彼が王国の情報を他国へ渡したと記されていた。


すべて、ヴァレンシュタイン公爵家の手によって用意されたものだった。


裁判は形式的なものに過ぎなかった。


淡々と事は進み、青年には弁明の機会すら十分に与えられず、死刑が言い渡された。


そして処刑は、小規模で行われた。


アデライードは自邸の窓辺で、その報告を受けた。


「処刑は滞りなく終了いたしました」


「そう。ご苦労さま」


彼女は手元の紅茶に口をつけた。


味は、いつもと変わらない。


窓の外には、冬の訪れを告げる灰色の雲が広がっていた。


「これで、ようやく……」


小さく呟く。


これで、リリアーナを惑わせるものはなくなった。


もう村へ行く理由もない。


あの男に会う必要もない。


これからは、自分の傍にいてくれるはずだ。


そうすれば、また以前のように笑ってくれる。


アデライードはカップを置いた。


「次のお茶会の準備をなさい」


「かしこまりました」


「リリアーナの好きな菓子も忘れずに。あの子が喜ぶものを、できる限り用意してちょうだい」


「承知いたしました」


彼女は窓の外へ視線を戻した。


もうすぐ、以前のような日々が戻ってくる。


そう信じて疑わなかった。


     *


翌週、アデライードはリリアーナを自邸へ招いた。


応接室には、彼女の好きな菓子が並べられていた。


庭園には新しい花が植えられ、部屋には彼女が好む香りの香水が焚かれている。


すべて、リリアーナのためだった。


「アデライード様。お話とは何でしょうか」


「まあ、まずは座りなさい」


リリアーナは静かに腰を下ろした。


以前なら、席に着くなり楽しそうに話しかけてきたはずだった。


しかし、今の彼女はどこかよそよそしい。


アデライードはそれに気づかないふりをした。


「あなたに、お伝えしたいことがございますの」


「はい」


「村の青年についてですわ」


その瞬間、リリアーナの顔色が変わった。


「……レガシー様のことですか?」


「ええ。あの男は、先日処刑されましたわ」


カップを持つリリアーナの手が止まった。


「……どうして」


「王国への反逆罪ですって。身の程を弁えない平民には、相応しい末路でしょう」


「そんな……」


「もう、心配する必要はありませんわ」


アデライードは微笑んだ。


リリアーナは彼女を見つめていた。


その瞳に、少しずつ理解が浮かんでいく。


「……あなたが、やったのですか?」


「何を仰っているの?」


「レガシー様を……殺したのは、あなたなのですか?」


アデライードは少しだけ首を傾けた。


「どうして……どうしてそんなことを」


リリアーナの声が震える。


アデライードは彼女の手を取ろうとした。


「もう大丈夫ですわ。これからは、ずっと一緒にいられます。あなたの好きなものは何でも用意いたしますし、望むものはすべて与えましょう。ですから――」


「触らないで」


小さな声だった。


けれど、アデライードの動きは止まった。


「リリアーナ?」


「どうして、あなたは……」


リリアーナの頬を涙が伝った。


「わたくしが何を望んでいるのか、一度でも考えてくださったことはありますか?」


「もちろんですわ。だからこそ、あの男を……」


「違います!」


悲痛な叫びだった。


「あなたは、いつもそうです……」


リリアーナは涙を拭うこともなく、アデライードを見つめた。


「わたくしの話を聞こうともせず、勝手に決めつけて……。わたくしが何を考えているのか、知ろうともしてくださらない」


「それは、あなたのためを思って――」


「もう結構です」


リリアーナは静かに首を横に振った。


「……リリアーナ」


「どうして、わたくしの気持ちを聞いてくださらなかったのですか」


その瞳には、怒りよりも深い悲しみが宿っていた。


「わたくし、何度もあなたにお話ししようと思いました。村でのことも、そこで出会った方のことも……」


「でしたら、最初からそう仰ればよかったではありませんの」


「お話ししようとしました!」


リリアーナは初めて、声を荒らげた。


「でも、あなたはいつもわたくしの言葉を遮るではありませんか。わたくしが何かを話そうとすると、すぐに決めつけてしまう。だから、言えなかったのです」


「それは……」


「わたくしが村へ行く理由も、レガシー様と何を話していたのかも、あなたは一度だって尋ねようとはしなかった」


リリアーナは俯いた。


「本当は、あなたに聞いてほしかったのに……」


アデライードの胸がざわついた。


「……何を、ですの?」


リリアーナは答えなかった。


ただ、涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。


「もう、帰らせていただきます」


「待ちなさい」


「お話しすることはありません」


「リリアーナ!」


その声に、リリアーナの足が一瞬だけ止まった。


しかし、振り返ることはなかった。


「あなたなんて、大嫌いです」


その言葉は、刃のようにアデライードの胸を貫いた。


「……何ですって?」


「二度と、あなたの顔など見たくありません」


扉が閉まる。


残されたアデライードは、しばらくその場から動けなかった。


テーブルには、二人分の紅茶が置かれている。


片方は、ほとんど口をつけられていなかった。


彼女のために用意した菓子も、花も、香水も。


当然何一つ、今のリリアーナの心には届かなかった。


     *


その夜、リリアーナは自邸へ戻った。


馬車を降りてからというもの、彼女は誰とも言葉を交わさなかった。


自室に入ると、侍女たちに「今夜は一人にしてほしい」と告げ、扉を閉ざした。


夕食が運ばれてきても、手をつけることはなかった。


翌朝になっても、部屋から出てくる気配はない。


心配した侍女が何度も声をかけたが、返事はなかった。


もともとリリアーナは、幼い頃から身体が弱かった。


ここ数か月は村への往復や侯爵家の仕事に加え、アデライードとの関係に思い悩み、十分に休めていなかった。


そして、その日。


彼女は高熱を出して倒れた。


医師が呼ばれ、侯爵家の者たちが懸命に看病した。


しかし、弱りきった身体は回復することなく、静かに息を引き取った。


最後まで、彼女は一つの手紙を枕元に置いていたという。


     *


それから数日後。


アデライードは何も知らぬまま、ローゼン侯爵家へ向かった。


馬車が屋敷の前に止まる。


いつもなら、リリアーナが出迎えてくれるはずだった。


しかし、その日、玄関に立っていたのは侯爵ただ一人だった。


「ローゼン侯爵。リリアーナ様はどちらに?」


アデライードは普段と変わらぬ調子で尋ねた。


侯爵は答えなかった。


ただ、アデライードを見つめるその目には、隠しようのない怒りと悲しみが宿っていた。


「……お帰りください」


「何を仰っているのです? わたくしはリリアーナ様に会いに来たのです」


「娘は亡くなりました」


その言葉を聞いた瞬間、アデライードの表情が固まった。


「……今、何と?」


「リリアーナは、数日前に亡くなりました」


「そんな……嘘でしょう?」


アデライードは一歩、侯爵へ近づいた。


「昨日まで、あの子は……いえ、そんなはずはありませんわ。少し取り乱してはいましたが、まさか、そんな……」


「あなたが原因です」


侯爵の声は静かだった。


だからこそ、その言葉は重かった。


「あなたが娘から何を奪ったのか、お分かりですか」


「わたくしは……」


「娘は、最後まであなたのことを気にかけていました」


アデライードの瞳が揺れた。


「……え?」


「あなたに嫌われているのではないかと、何度も私に尋ねてきましたよ」


侯爵は一度、言葉を切った。


「あなたから贈り物が届いた日は、まるで子供のように喜んでいました。次に会ったとき、何を話そうかと、嬉しそうに考えていたこともあります」


アデライードは黙っていた。


「それでも娘は、あなたの前ではいつも不安そうでした。あなたの何気ない一言に傷つき、それでも嫌われたくないと笑っていた」


「……そんな」


「それなのに、あなたは娘が大切にしていた人を奪った。娘がどれほど悲しむか、考えもしなかったのでしょう」


「わたくしは、ただ……」


「もう結構です」


侯爵は静かに首を横に振った。


「葬儀には、招待状をお送りいたします。それが、娘の最後の望みでしたから」


「最後の……望み?」


「娘は、最後まであなたを嫌いになれなかったのです」


アデライードは何も言えなかった。


侯爵は屋敷の扉に手をかけた。


「お帰りください」


扉が閉じられる。


アデライードは、しばらく玄関の前に立ち尽くしていた。


やがて、手にしていた小さな包みに目を落とす。


中には、リリアーナの好きな菓子が入っていた。


もう一度、話をしようと思っていた。


あの日のことを謝ろうとまでは考えていなかった。


ただ、いつものようにお茶を飲み、以前のように笑ってくれれば、それでよかった。


けれど、もうその機会は二度と来ない。


アデライードの手から、包みが静かに滑り落ちた。


     *


葬儀の日。


王都の貴族たちが集まる中、アデライードは一人、棺の前に立っていた。


白百合に囲まれたリリアーナは、眠っているように穏やかな顔をしていた。


「……リリアーナ」


呼びかける。


当然、返事はない。


「随分と、困った方ですわね」


いつものように、少しばかり皮肉を交えて語りかける。


「勝手に村へ行って、勝手にあの男を好きになって……最後には、わたくしを置いていくなんて」


言葉の途中で、声が途切れた。


いつもなら、ここでリリアーナが笑ってくれた。


困ったように眉を下げて、それでも最後には微笑んでくれた。


もう、その姿を見ることはできない。


アデライードは視線を落とした。


棺の傍らには、小さな箱が置かれていた。


中には、古びたリボンと数枚の手紙が入っている。


そのうちの一通に、アデライードの名が記されていた。


彼女は静かに封を開いた。


そこには、見慣れた美しい文字が並んでいた。


『アデライード様へ。


今日は、あなたのことを考えていました。


先日のお茶会で、あなたがわたくしの好きなお菓子を用意してくださったことです。


あのとき、あなたは「たまたま目についただけですわ」と仰っていましたね。


けれど、わたくしは知っています。


あなたが以前、わたくしの好きなものを尋ねてくださったことを。


そういうところが、わたくしは好きなのです。


あなたはいつも少し意地悪で、素直ではありません。


わたくしが話しかけても、つれない返事ばかりなさいます。


それでも、あなたと過ごす時間は何より楽しいのです。


本当は、もっとお話ししたいことがあります。


けれど、いざあなたを前にすると、何を話せばよいのか分からなくなってしまいます。


レガシー様にも、このことを相談しました。


わたくしがあなたの話ばかりするものですから、少し呆れられてしまいましたけれど。


彼は、そんなに好きなら素直に伝えればいい、と笑っていました。


けれど、わたくしにはそれがとても難しいのです。


あなたは、わたくしのことをどう思っているのでしょうか。


もし、少しでもわたくしと同じ気持ちでいてくださるのなら、どれほど嬉しいことでしょう。


次にお会いするときは、もう少し素直にお話しできるといいのですが。


いつか、あなたにこの気持ちを伝えられたらと思います。


リリアーナ』


そこまで読んだところで、アデライードの指が止まった。


手紙がわずかに震える。


もう一度、最初から読み返す。


何度読んでも、そこに記されている言葉は変わらなかった。


あの青年は、恋敵ですらなかった。


ただ、リリアーナが自分の恋心を相談していた相手だったのだ。


村へ行くたび、彼女は自分の話をしていた。


自分の好きなものを尋ね、自分の何気ない言葉を覚え、次に会う日を楽しみにしていた。


あの広場で、青年に見せていた紙。


あれは、自分に宛てた手紙だったのだろう。


そして、王都の方角を見つめていた理由も。


「……そうでしたの」


小さく呟いた。


「あなたは、わたくしのことを……」


その先は言葉にならなかった。


彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


目の前には、眠るように横たわる少女がいる。


もう、何を伝えても届かない。


もう、どれほど後悔しても遅い。


「リリアーナ」


棺の縁に手を置く。


「わたくしも、あなたが好きでした」


声が震えた。


「あなたが村へ行くたび、寂しかった。あの男の話をするたび、胸が痛かった。あなたが笑ってくださるなら、何だってしてあげたかった」


涙が一粒、手紙の上に落ちた。


「けれど、わたくしは……あなたが何を望んでいるのか、一度も尋ねようとしなかった」


彼女は手紙を胸に抱いた。


「あなたが笑ってくださる理由を知ろうともしなかった。ただ、わたくしの傍にいてほしかった」


声がかすれる。


「……ごめんなさい」


その言葉を口にしたのは、生まれて初めてだった。


王国中の貴族を見下し、誰にも頭を下げなかった悪徳令嬢が。


ただ一人の少女に、謝罪を捧げていた。


「ねえ、リリアーナ」


彼女は棺の中の少女を見つめた。


「一度でいいのです。いつものように笑ってくださいませんか」


返事はない。


「わたくし、今度こそちゃんとお話ししますわ。あなたの話を最後まで聞きます。好きな場所にも、好きな人にも、何も口出ししません」


返事はない。


「だから……お願い…」


その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。


窓の外では、冷たい風が白百合を揺らしていた。


アデライードはその場を離れなかった。


日が沈んでも、参列者が帰っても、ただ一人、棺の傍らに座り続けた。


彼女は最後まで理解できなかった。


あれほど多くのものを手に入れてきた自分が、なぜ、たった一人の少女の心だけは手に入れられなかったのか。


────いや。


本当は、分かっていたのだ。


愛とは、相手を自分のものにすることではない。


相手の心を知ろうとし、その幸せを願うことだったのだと。


それを知るには、あまりにも遅すぎた。


     *


翌年。


ヴァレンシュタイン公爵家の庭園には、白百合が植えられた。


それは、かつてリリアーナが最も好きだった花だった。


誰が命じたのかは分からない。


ただ、その庭園を訪れる者は、いつも同じ光景を目にした。


悪徳令嬢アデライードが、一輪の白百合を前にして静かに微笑んでいる姿を。


かつての彼女を知る者たちは、不思議に思った。


あれほど傲慢で、誰にも心を許さなかった令嬢が、なぜ毎日のように花を眺めているのか。


しかし、誰も尋ねることはできなかった。


「綺麗に咲きましたわね」


アデライードは花弁に触れる。


その指先は、以前よりもずっと優しかった。


「……あなたにも、見せて差し上げたかった」


風が吹く。


白百合が揺れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。