四綴目 『大崎恵実』
「私は、大崎恵実でございます。」
二六八四年五月、未明まで降り続いた雨の影響で未だ曇り空のグレイの空を、燕達がいそいそと駆け巡る。
そんな空の元にある廃工場の地下で、青山は半年とは云え長い長い壮絶な闘いを経て、遂に依頼を果たした。
「では、神崎社長がお待ちです。こちらへ。」
大崎はゆっくり立ち上がった。足元が少しふらついているが、必死に毅然とした姿勢を取る。髪の毛は少し伸びて僅かに乱れているが、ノーメークなのにお肌は艶っぽく輝いていて、まさにパンフレットに載っている、憧れのその人だ。実物に逢うコトが出来た青山は、密かに感動を覚えた。
◇ ◇ ◇
ボディーガードと一緒に大崎を護衛しながら、少しずつ神崎の車へと距離を縮める。そして、あの錆だらけの扉から脱出して、車の前に来た。
後部座席に乗っていた神崎は、自分でドアを開けて大崎の元に駆け寄った。
「良かった!無事でいてくれてありがとう!本当に良かった!」
ボディーガード達はあくまでも平静を装っているが、呼吸の乱れを青山は見逃さなかった。と云うか、青山も必死で感情を堪えていた。
大崎は大粒の感情を一筋だけ零しながらも、それでもなお、毅然とした姿勢を崩さなかった。
「私の所為で…私と関わると、皆さんを不幸に巻き込んでしまいます。だから私など、光の届かない所にずっと隠れておくべきですわ。」
開口一番、自分の不幸を顧みて自虐的に云う。
でも、と続ける。
「社長の名前を聞いた時、『自由になりたい』と思うことが出来ました。」
と心が変わったコトを報告し、
「皆様に大変なご迷惑・ご苦労をお掛けして申し訳ございませんでした。私を探して頂いて本当にありがとうございます。」
と、そこに居合わせた者に謝罪と感謝の言葉を述べた。
そして、
「神崎社長のお顔を拝見出来て、とても嬉しいです。」
と、今の感情を最大限表現…する頃にはすっかり感情に溺れてしまい、なんとか声を絞り出して神崎に気持ちを伝えた。
もう神崎も青山も、もしかするとボディーガード達も?グチャグチャになって喜んだ。
◇ ◇ ◇
一旦、神崎の車はとあるお宅に向かう。昨日、青山が訪れた場所だ。大崎が「今まで援助して頂いた『お姉さん』に一言申し上げたくて…」と、その家の主に世話になったコトを感謝し、「状況が状況で、今はコレしかなくて恐縮ですが…」と、自分の服に付けていた四つ葉のクローバーを模ったブローチを外して『お姉さん』に手渡しながら、「ちゃんとお礼をしたいので」と、またいつか会うコトを約束した。
「ああ、矢張りあの婆さん、大崎さんの支援者だったか。」
と、青山はそう小さく呟いて、様子を見守っていた。
『お姉さん』に見送られながら、神崎の車は、神崎の例の別荘に向かう。
車中、あれだけ憧れた美人秘書が隣に座っていると云うのに、青山は完全に疲労して、既に頭が堕ちている。その大崎はもっと疲労しているハズなのだが、未だ姿勢を崩さない。流石はベテラン秘書だ。とは云え、その表情は憔悴しきってる。
目の前に座っている神崎が促す。
「大崎君、今の君は私の秘書じゃないんだから、ゆっくりしてていいんだよ。」
大崎が
「はい、この姿勢が一番リラックス出来ますので。お気遣いありがとうございます。」
神崎が苦笑いしながらため息をつく。
然しながら、車に揺られて十七分、遂に大崎も限界が来たようで、車の揺れに合わせて頭を揺らし始めたかと思うと、そのまま意識を失った。
◇ ◇ ◇
別荘のガレージで、神崎が自らドアを開けて大崎をエスコートする。
「着いたよ。おはよう。」
ハッ、と大崎が意識を取り戻す。
「し、失礼致しました。私としたことが…」
神崎はただただ笑顔で頷いていた。青山はボディーガードに起こされていた。
◇ ◇ ◇
大きな部屋に入ると、ソファーに座っていた神崎の妻、陽子が、大崎の姿を見つけるや否や、すぐさま立ち上がり大崎に駆け寄る。
「ああっ、ホントに無事だったのね!恵実ちゃん!良かったぁ~」
安堵する陽子に大崎は応える。
「はい、おかげさまで、また社長に助けて頂きました。」
その発言に違和感を覚えた神崎は、上から言葉を被せた。
「それは違うぞ、大崎君!君を命の危険を冒してまで助けてくれたのは、そこの青山さんだ!」
青山は、
「へ、オレ?」
みたいな顔でキョトンとしている。が、実際そうだ。まぁ『命の危険を冒して』は少々盛り過ぎ感はあるが、全く手掛かりのない状況から捜索に次ぐ捜索、途中、殺人犯にされかけたりで、それでもなかなかその姿の欠片の断片すら見つけることが出来ずに、何度挫折し諦めようと思ったか。それでも一本の細い糸を手繰り寄せて、漸く大崎にたどり着いた。仕事とは云え、最大の功労者は青山には違いない。
大崎は神崎社長に諭されて考えを改めた。
「青山様、申し訳ございません。いつまでも神崎社長の秘書のつもりでおりました。大変なご無礼をどうかお許し下さい。この度は、私を助けに来て下さって、本当に感謝します。ありがとうございました。」
と、謝罪と感謝の言葉を深々と頭を垂れる。
「いえいえ、仕事ですから。」
と、頭を掻きながら青山は応えた。
「私からも御礼申し上げます。本当に!恵実ちゃんを救出して下すって、本当にありがとうございました。」
陽子も深々と頭を垂れながら感謝の言葉で青山を包んだ。仕事として、当然のコトをしただけなのに、感謝され過ぎるとなんだかムズ痒い。
そのタイミングで、神崎が「パン!」と手を叩く。
「ひとまず、大崎君、身を清めてらっしゃい。陽子、案内しておくれ。」
潜伏中は恐らく食事もちゃんと摂取出来てないだろうし、シャワーも浴びてないだろう、と、それでもホワイトムスクのいい香りを漂わせて誤魔化している。そのように推測し、先ずはシャワーを浴びてリラックスするように促した。とは云え、足下が少しフラついて危ないので、陽子と一緒に向かわせた。
◇ ◇ ◇
部屋には神崎と青山の二人になった。大崎と陽子を一緒に向かわせたのは意図的で、このタイミングで青山と一対一で話すキッカケを作る為でもあった。
「青山さん、本当にご苦労様。ありがとう。何度礼を言っても言い足りない。」
と、テーブルに小切手をそっと置いた。
「成功報酬です。領収書頂けますか?」
ちなみに青山の事務所は適格請求書発行事業者への登録は諦めた。インボイスに加担すれば即倒産だ。手書きの領収書を渡す。これで依頼は完了。…なのだが、神崎は云う。
「ありがとう。それでちょっとご相談ですが、そちらで大崎君を雇用して頂きたいのです。」
青山はサッパリその意図が分からなかった。あの美人秘書をウチのような貧乏事務所で雇用?日本語間違ってないかな?そうやって頭をひねりながら読解していた。神崎は理由を話す。
「今回大崎君を拉致した犯人は殺害されましたが、殺した犯人も、残党の動きもまだ掴めてない。――つまり危機は終わっていません。そこで青山さんに雇用して頂きながら、大崎君の護衛をお願いしたいのです。」
さらに続ける。
「嘗て私がスキャンダルをでっち上げられた時、『相手役』として祭り上げられたのが秘書だった大崎君でした。私は今も社長と云う立場です。大崎君を私の庇護下に置くと、反神崎派が過去のデマを穿り返し、新たなデマを社内に流布するかも知れない。」
デマが社内を駆け巡る過程で大崎の情報が外部に漏れたら――いずれ反社にも伝わり、大崎の身にも危険が及ぶ。
「だから、青山さんの事務所にいた方が安全なんです。」
そして両手で青山の手を取って、
「どうかこの通り、よろしく頼みます!」
と、スゴい圧で頼まれて、思わず
「ハイ!」
と応えてしまった。
「勿論、依頼料と彼女の賃金は私の方でお支払いします!」
「あ、ありがとうございますぅ~!」
半ば半べそをかきながら、アワアワと青山が応える。
コレは拙いことになった。大企業の社長からのご依頼、しかも自分の配下に雇用、しかも超絶美人。果たして自分に大崎の護衛が務まるのか、ものすごく不安な気持ちなのに、追い打ちを掛けるように神崎は続ける。
「それで、青山さんの事務所の一つ上の階にある部屋が、大崎君の住まいになります。半年前から押さえてました。」
「え?」
いつの間に?半年前って、人捜し依頼受けた直後くらいだよね?なんてこった!最初からそこまでセットだったのか?な?
安賃貸マンションなので、部屋を押さえるくらいは社長なら痛くもかゆくもないだろう。然し、であるならもっと重要な問題がある。
「ウチのマンション、ボロボロでセキュリティーもありません。いつでも悪いヤツに入られますよ。」
青山が懸念を伝える。
すると神崎は涼しい顔で、
「そう思って、大崎君の部屋と青山さんの事務所を、ちょっとだけ改築しておきました。」
「え??」
いや、大崎の部屋だけならまだしも、ウチの事務所までいつの間に手を入れた?
そんな疑問を持ったので、
「いつの間に私の事務所を改築されたのですか?」
「青山さんが勾留されているときですよ。」
ああ、成る程、納得…いくかよ~と思っていたら、
「いえ、一応ご相談に上がったんですがね、勾留されてるとお聞きしまして。然しながらコチラも時間がなかったので、致し方なく大家さんにお願いして二日間だけお部屋をお借りして、工事させて頂きました。お気付きになりませんでしたか?」
「え???」
全く気付かない。釈放後に戻った事務所は何一つ変わらず、大崎を見つける前も、何も変わっていなかった。
「まぁ、気付かなくて当然か。外観は全く同じですからね。中身を増強したのと、ネットワーク周りのセキュリティーを弊社のモノに入れ替えました。あのマンションに今まで無かった監視カメラが付いたので気付くかなぁと思っていたのですが。」
…帰ったら確認しよー…
「なので、あの部屋にいる分には大丈夫ですよ。」
ぐうの音も出ない。然し、そこまで神崎が用意して下さったのだから、もう腹を決めるしかない。
「分かりました。大崎さんのご意思を確認の上、私の方で雇用します。ただ…」
「ただ?」
神崎が真顔で聞き質す。
「…私の理性が保てるか…」
神崎は「ニッ」と口角を上げ、青山の方にポンと手を置いた。
「…信用します…」
と云うか、神崎はどうやって二人をイイ仲にしてやろうかと考えて、あれこれ作戦を立てていた。
陽子にも話したら大賛成で大喜び。
勿論、大崎を青山の事務所で雇用してもらうコトも、青山の事務所の上の階に住まわせるコトも計画の内だ。
まだまだいろんな秘策をストックしているようだ。
そのようなコトを考えているくらいだから、寧ろ青山が理性を崩壊するのを待っている。ご祝儀もたんまり用意している。
◇ ◇ ◇
神崎が新たに青山に『依頼』したところで、シャワーから二人が戻ってきた。
「お待たせ~」
と陽子が赤飯を片手に神崎に声を掛ける。
「結構なお湯でございました。ありがとうございました。」
大崎が神崎に礼を言う。
ちなみに陽子は元スチュワーデスで、彼女も超絶美人だ。何せ、神崎が出張中の機内で勤務中の陽子に一目惚れして、連絡先を渡したのがきっかけで今に至っている。元々の美貌も然る事ながら、五十半ばとは思えない美肌と抜群のプロポーションで、外を歩けば男女問わず、誰もが二度見してしまう。
青山もそんな陽子に一瞬目を奪われたが、その後ろを歩く大崎にすぐに釘付けになる。
バスローブ姿の大崎は先ほどの憔悴しきった姿から一転、肌が燦然と輝き、とても艶っぽい。
あのブロマイドの写真から少し伸びた髪をアップにし、うなじを露わにして輝いている。
四十手前で年季を重ねた美貌、そしてバスローブで隠しきれていない抜群のプロポーション。髪の毛がまだ乾き切っていなくて、三倍増しの色っぽさ。
この時点で青山の理性が吹っ飛びそうになる。
神崎夫妻はそんな青山を横目で眺めながら、笑みを浮かべている。
◇ ◇ ◇
神崎と青山もひとっ風呂浴びたあと、食卓に向かう。豪勢な料理が並ぶ中、先ほどの赤飯も置いてある。ああ、大崎さんの解放のお祝いだからか、と、ようやく青山が赤飯に気付く。少し食べかけられているが気にはしない。
食事中、先ずは神崎が大崎に青山を改めて紹介する。青山は自身の今の仕事や社長との繋がり、バツ一、そんな話をした。神崎は嘗て青山を部下に引き入れようと画策していたくらいなので、青山が退職前に離婚したコトも知っていたが、身辺を調査していたコトがバレると心象悪いと思い、初耳のフリをした。
一方、青山は、雇用する都合上、大崎の経歴を知りたかったので、まるで面接官のように、実務的な質問をする。
大学では心理学を専攻し、経理部門で計算得意、管理部門で法律も勉強し、そして秘書として、気配り心配りを習得したコトを淡々と話す。そして神崎夫妻が太鼓判を押す。
それと意外だったのは、青山も大崎も、学生時代にヘヴィメタルバンドでギタリストをやっていて、音楽の話で意気投合した。食べ物の好みもかなり一致した。神崎夫妻も嬉しそうだ。
食事中の和やかで楽しい時間が過ぎていった。そして応接間に移動し、神崎夫妻と大崎、そして青山が一つのテーブルに集結する。
先ずは、大崎の身に何か起きたか。恐らく神崎夫妻も知りたいだろう。
大崎が、
「あの社長の息子様の一人が、反社の幹部でした。その部下に拉致されました。」
と、語り始め、その全貌を明かす。
◇ ◇ ◇
ある日、何の前触れもなく、チンピラが大崎の勤務する会社を訪れ、社長に吹っかけた。
「ウチのアニキ、つまりアンタの息子さんだが、会社を設立したいから出資して欲しいそうだ。」
と云いながら、徐にスマフォを取り出し、
「可愛いですねぇ」とニヤけながら、社長の娘の家族写真を突きつけて、圧を掛けた。
消費税と云う国家による詐欺的税金に苦しめられ、会社の利益の殆どを従業員の賃金に充てていた為、社長自身も日々倹しく生きていた。なので、どこからもカネを出せる状況ではないので、チンピラから聞いた乱雑な事業内容を元に事業計画書を作成し、取引先の銀行に提出した。辛うじて融資を受けるコトが出来たので、息子を社長にした会社を『子会社』として設立した。
然しながら、そのチンピラは度々『増資』を強要してきた。その一連の流れを全て知っている大崎は、なんとか社長を助けたいと、交渉することにした。
酷暑厳しい八月のとある日、社長室での大崎の交渉は完璧だった。チンピラも納得していた。ところが、大崎の美貌に目を付けたチンピラが「カネが無いなら身体で稼げ!」と、そのまま大崎を拉致・誘拐して、組の建物の一室に監禁した。
「何とかして脱出しなきゃ!」
大崎は『ユタカ』と呼ばれている食事係の若者に話しかけて、いろんな情報を聞き出した。彼も大崎の美貌にノックアウトされたのだろう。驚いたコトに、警察は一切動いていない、捜索願いすら提出されていないとのこと。恐らく社長は世間体を優先したのだろう。裏切られたが、勘当した息子が起こした事件なので、関わりたく無いのだろう、分からないでもない。複雑な気持ちになった。
監禁二日目、大崎は『ユタカ』に、どうやったらココから出られるのか相談したところ、
「明後日、『総会』があるので、この建物から殆どの組員は不在になります。自分も『総会』でお茶汲みの係になってますので、会場に向かいます。なので、当日の朝食時に鍵を開けておきますので、明後日の午後二時に脱出して下さい。この建物の見取り図と付近の地図も、当日朝に用意します。」
と、あっさり脱出を手引きしてくれることになった。嘘かも知れないが、他に打開策は無い。
『ユタカ』の話では、例のチンピラは『ヤスダ』と云う名前だそうで、『ケンジ』と云う上司…大崎の勤務先の会社の社長息子…に指示を受け、総会に向けた準備で忙しそうにしているそうだ。拉致してきたコトすら忘れているのではないか、と。他の組員も、『総会』に向けて各々忙しくしているので、今は隙だらけとのこと。
ちなみに社長を脅迫したのは『ヤスダ』の独断で、大崎を拉致したコトすら『ケンジ』は知らない。
『ユタカ』はもう一言付け加えた。
「あ、出て行く時にはヘアピンを二本、伸ばした状態のモノを置いてって下さいね。そのヘアピンで鍵を開けたと云う体で。」
そして当日の朝、『ユタカ』は鍵を開けて食事を運んできた。そして見取り図と地図と、封筒を大崎に渡した。
「自分はまだ入りたてなので、どうにでも失敗出来ます。まぁ非道い仕打ちを受けるコトは覚悟の上です。ただ、自分はあなたのような綺麗な人が理不尽に穢されてしまうのが許せないんです。だから、どうか必ず逃げ延びて下さい。」
と告げた。どうやら、明るくて優しかった年上の元カノがそんな目に遭って、今では別人のようにヒステリックで、ずっと引き籠もっていて、長いこと逢ってないらしい。
「では、自分はもう出掛けますので、これで。さようなら。お元気で。」
大崎も応える。
「『ユタカ』さん、またどこかで会いましょう。」
『ユタカ』は扉の手前で、後ろに居る大崎に手を振って最後の言葉を述べた。
「いえ、貴女のために、コレで最後にします。ありがとうございました!」
そして颯爽と部屋を出て行った。
「ありがとう…」
既に消え失せたその後ろ姿に、大崎が呟く。
そして午後二時、云われたとおり自身が身につけていたヘアピン二本を抜取り、真っ直ぐにのばして、出入り口付近にそっと置いた。周囲を警戒しながら大崎は部屋を抜け出した。『ユタカ』の話を思い返す。
「門には門番がいて見つかっちゃうので、裏の小さな扉から出て、右に出て真っ直ぐ歩いて下さい。振り向いたら門番と目が合うかもしれません。そうなったら危険です。遠目で見れば、貴女の後ろ姿が誰だか分かりませんので、追いかける理由にはなりません。目が合えば顔を認識されるので、間違いなく追ってきます。」
とのことで、警戒しつつ、軌道に乗ったら、『ユタカ』の声を頭に浮かべながらまっすぐ前を向いて歩いた。背後の景色は知らない。
「そして消火栓のある角、ビルの隙間を抜けると駅があります。タクシー乗り場もありますので、そこから早急にこの土地を離れて下さい。恐らく貴女の勤務先まで、この封筒の中身で足りるでしょう。」
封筒には紙幣が数枚入っている。財布もスマフォも通勤バッグに入れたままなので、拉致されたとき、何も持って無かった。しかもこの紙幣は、上納金を納める為に、一般の料亭でバイトして稼いだとのこと。『ユタカ』には改めて感謝しか無い。彼の無事を祈った。
さて、会社までの交通費が手元にあるとは云え、捜索願いすら出さない会社に戻る気にもなれず、かと言って自宅に帰っても、すぐに追っ手が来て連れ戻されるだろう。ならばほとぼり冷めるまで、どこか人目につかない場所に消えておこう、そう考えて、逃げ場として記憶の片隅に仕舞い込んだある場所を思い出した。
「…よし、行ってみよう。」
そしてタクシーを走らせた。
◇ ◇ ◇
大崎の記憶力は素晴らしい。三十年も前のコトなのに、その住所や景色をハッキリ覚えている。お陰でタクシーはスムーズに到着した。
幼少の頃遊んだかの廃工場だ。大崎の祖父が最後の社長だった。当時は裕福で、よく工場で遊んでいた。ココに来るのは倒産して引っ越して以来だ。
この場所を潜伏先にするのはベストな選択だが、情報が何も入ってこないし、食事もない。お店も何もない。
そして幼少の頃の記憶を頼りに、迷わず歩き始める。
「この道だ。ココは変わってないなぁ。この先に…」
そうやって工場の近所に住んでいる『お姉さん』の家に到着した。
嘗て見た外観からすると、小さくて、随分傷んでいるように見えた。
大崎が挨拶を投げかける。
「ごめんください。」
少し間をおいて、
「はーい」
と中から聞き覚えのある、懐かしい声が聞こえた。
そして三十年振りに、『お姉さん』と顔を合わせる。
「あらー、めぐちゃん、かな?」
当時の面影が残っているのか、とは云え矢張り記憶力に自信がなかったのか、どうしても疑問形になるが、第一声目で大崎を当てている記憶力・洞察力は素晴らしい。。
「はい、お姉さん、お元気でしたか?大変ご無沙汰しております。大崎恵実です。」
「いやー小さい頃も可愛かったけど、こんな綺麗なお嬢さんになって。ささ、上がって!」
すっかり老婆に成り果てた『お姉さん』に誘われるまま、上がらせて頂く。
お茶を飲みながら、これまでのいろんな話を交換した。『お姉さん』の子供達は皆都会で家を構えている、今は一人暮らし。そんな話から子供自慢、孫自慢、楽しく聞いていた。
恐らく『お姉さん』は最初から何かを察知していたのだろう。
「それで、めぐちゃんはどうしてココに来たの?」
何か理由があるはず。そう思って大崎に尋ねた。
この勘の良さは当時から変わらないなぁと感心しながら、これまでの経緯を洗いざらい話した。
「そうか、大変だったね。」
「それで、あの工場の一室で、ほとぼりが冷めるまで身を隠そうと考えてます。」
「あら、ココに居ればいいのに。」
「そんな、ご迷惑をお掛けするわけにはいきませんわ。」
「子供が遠慮なんてしなくていいんだよ。」
「…もう四十手前の大人ですケド~」
『お姉さん』は思わず大笑した。大崎も久々に笑った。
「とにかく、追っ手が来る危険性があります。私について誰かに聞かれても、知らないと言っておいて頂けると助かります。」
「分かった。誰にも云わないよ。」
「それと、食料は自給自足します。が、道具も種もございませんの。少しお借りしたいんですけど、可能ですか?」
廃工場は広大な土地、花壇もあるので、そこを畑にしてしまおうと考えている。
「いいよ。だけど今から開墾するのは大変だよ。それに管理人が定期的に来るからね。だからアタシの代わりにウチの畑を耕してくれたら、それでいいよ。」
「そうさせて頂きます。ありがとう。」
それから毎日、朝早くから『お姉さん』の畑を耕し、正午に『お姉さん』からおむすび数個とお手製のお漬物、水を詰め込んだ二リットルのペットボトル二本、それに新聞を頂いて、周囲を警戒しながら廃工場に戻る、と云う生活が続いた。廃工場は建物を含めた売り物なので、ブレーカーを上げれば電気は使用可能。とは云え、使いすぎると管理会社にバレて事件になってしまうので、必要最小限で使う。一日の汗は濡れタオルで身体を拭うだけ。兎に角、追っ手に見つからないように、自分自身と『お姉さん』の身に危険が迫らないよう考慮しながら、毎日を過ごしていた。
◇ ◇ ◇
そんなある日、『お姉さん』が少し緊張した声で教えてくれた。
「めぐちゃんが昔働いていた会社の、えーと、神崎さんだっけ?社長さん。その人の依頼で青山って云う人がめぐちゃんを探しに来たよ。」
「|神崎《かんざき》」の四文字を聞いた瞬間、その大きな瞳が感情の海に溺れそうになる。
然し、なりすましの恐れもある。なので、感情をグッと堪えながら、
「絶対に私の居場所は言わないで下さい!お願いします!」
「ああ、知らない、とだけ云っておいたよ。」
ただ、この後青山の能力によって発見されるのだが。
◇ ◇ ◇
とまぁ、大崎の回想を拝聴して、神崎夫妻はもう惜しみなく感情を放出してボロボロになっている。
神崎は、
「肝心な時に助けになれなくて本当にすまなかった。」
と、別に謝罪する必要もないのだが、『あのとき』のコトがあり、思わず言葉が出てしまう。
「ホントにホントに、再会出来て良かったわ。」
陽子が喜ぶ。
そして、改めて大崎の無事救済と再会を祝って、ワイングラスを傾けた。
◇ ◇ ◇
暫くして、青山のグラスがあまり進んでいないのを神崎が問う。
「ワインは苦手かい?」
青山が口を開く。
「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしておりました。失礼しました。」
そして大崎の方を向いて、青山が続ける。
「先ほど申した通り、私は調査事務所を営んでおります。社長に大崎さんの探索を依頼されて、ようやく今日完了し、報酬も頂いたところです。それで、社長から新たに、大崎さんをウチの事務所で雇用するよう依頼されました。それで、大崎さんのご意思を確認させて頂きたいのです。私はこのご依頼を受けるべきか否か。」
大崎が応える。
「はい、社長のご依頼とあらば…」
と言いかけて、すぐに言い直す。
「あ、違いますね。失礼致しました。社長のご依頼とは云え、命の恩人である青山様のご提案を、私にはお断りする理由がありません。一所懸命青山様をお助けして恩返ししたいです。何なりとお使い下さいませ。」
本人の意思…スゴく乗り気なので、青山は前に進むしかなくなった。
青山は少し考えて、神崎に提案する。
「先ほど、大崎さんの賃金を神崎社長の方でご負担されるとご提案頂きましたが、私の事務所の雇用ですので、私の方で負担させて頂きます。恐らく、その方が社長の敵対勢力が社長のカネ周りに目を付けた時、大崎さんの名前が出ることを回避出来ます。」
神崎は、
「なるほどね。確かに仰る通りです。助かります。では、大崎君の賃金は青山さんにご負担頂きます。でも足りなくなったらいつでもご相談下さいね。大崎君にも青山さんにも幸せになってもらいたいので。」
と言うと、陽子も一緒になって依頼する。
「私の方からもお願い致します。恵実ちゃんを幸せにしてあげて下さい。」
と、二人揃って深々とお辞儀をされた。
青山はそれに応えるべく気合いを入れて応える。
「承知しました。全力で大崎さんを幸せにします!」
…神崎夫妻が今にも歓喜の声で叫びそうな雰囲気で手を取り合っている。
…あれ?なんかマズいコト言ってないか、オレ…
神崎夫妻を安心させようと言ったのが、誤解を招いてるっぽい?陽子サンにつられた、シマッタ!
そう思って大崎に目をやると、シャワーを浴びて取り戻した折角の美貌をグチャグチャに崩して、大粒の感情を放出している。
青山は慌てて弁明する。
「あわわわ!そういう意味じゃありませんからね。違いますよ!大崎さんの生活費は私が見る、と云う意味ですからね!」
と、さらに深い泥沼に沈み込む青山。
何はともあれ、大崎は青山の事務所で雇用されることに、さらに事務所の上の階に住むコトになった。
◇ ◇ ◇
翌朝、青山が小鳥の囀りで目を覚ますと、大崎が扉をノックする。
「青山様、お食事の用意が出来たそうですよ。」
「はい、分かりました。すぐ行きます。」
食卓へ向かうと、昨夜は一つのテーブルに四人で腰掛けていたのが、何故かテーブルが二つに分けられていた。そして一つのテーブルには神崎夫妻が座っている。
「おはようございます。」
青山が朝の挨拶をする。
陽子が応える。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「はい、おかげ様で。何から何までありがとうございます。」
大崎が応える。
そして青山と同じテーブルに大崎が腰を掛ける。
…それにしても眩しい…
目の前に洋服もメイクもヘアーもバッチリ整えた大崎が座っている。
とても直視出来ない。。。
そう思いながら、一通りの食事を終えて、青山が神崎夫妻を巻き込んで提案する。
「恐らく、このままじゃ大崎さんは目立ち過ぎて、その残党やらもすぐに目を付ける恐れがあります。なので、大崎さんには少し変装して頂きたい。」
そう云って、青山は鞄をテーブルに乗せて、青山がいろんなところに潜入する時の変装セットを取り出す。
ロングヘアのウイッグ、赤いフレームのキャットアイメガネ、付け黒子、あとファンデーション。
先ずは口元のホクロをファンデーションで消して、左の唇の上に付け黒子を、そしてウイッグとメガネを装着して完成。コレだけでも誰だか分からなくなった。カモフラージュ完璧。
「ひとまず今日はこのセットで。ウイッグのサイズが合ってないと思いますので、改めて入手しましょう。」
青山は「敵を欺く」と、もっともらしいコトを言っているが、
半ば自分の本能を抑える為にやっている。
この変わり果てた姿に、陽子は顰めっ面をしていたが、
神崎が、
「ほぅ、青山さんはこんな女性がお好みか。」
と、からかうと、陽子の表情が一気に緩んだ。
そして当の大崎は、
「青山様がお望みなら、私はどんな格好でも喜んでさせて頂きますわ!」
と『コスプレ』のように楽しんでいる様子。もし拒否られたら悪漢どもの餌食。受け入れてくれて良かった。
「それと…」
青山が切り出す。
「『青山様』ってのはどうも気持ち悪いので、『青山さん』とかでいいよ。まぁお客さんの前では『所長』と呼んでくれたら箔が付くかな?」
そこに陽子が青山の呼び方を提案する。
「『浩一さん』いや、『浩一君』、『こうちゃん』、う~ん、もうお互い呼び捨てでもいいんじゃないの?」
神崎もそれに同調して、「それがいい!」と陽子を指さして爆笑しながら頷いている。
青山が火消しをする。さすがに大崎もそれは恐れ多いと拒否している。
◇ ◇ ◇
青山の事務所に四人で戻ってきた。
確かに監視カメラが付いている。今まで全く気付かなかった。
そして、むさ苦しくて散らかっているこの事務所には、神崎と大崎がいる。
「はぁ~」と青山がため息をついたそのとき、
事務所の電話がけたたましく鳴り、青山が取る。
スッ、と大崎が神崎から支給されたスマフォとタブレットを持って、青山に近寄る。
迷惑な営業だったので、話途中だけど十秒で受話器を置く。
神崎が青山と大崎に、この部屋の追加機能などを説明する。
青山は只々驚くばかり。
その後、大崎の部屋に移動した。
青山は大崎の部屋に入るコトを拒んでいたが、神崎に促され、大崎も是非とのことで、渋々部屋に入る。
とても懐かしいいい香がする。陽子が料理している。
そしてこの部屋についても神崎から説明を受ける。
一通り説明が済んで、昼飯を頂く。
午後三時、神崎夫妻が帰っていく。
「二人とも、仲良くな~」
神崎が車窓から声を出す。
青山が苦笑いで応える。
「お世話になりました。またよろしくお願い致します。」
斯くして事務所には青山と大崎の二人きり。
さぞ気まずかろうと思っていたら、大崎がプルプル震えながら、
「勝手ながら、大掃除させて頂きますわ!」
と、乱雑で荒れ放題だった事務所を、掃除と整理整頓をして、二時間程度で綺麗な部屋にしてしまった。
「ありがとう。凄いよ!自分では散らかってるとか思ってなかったけど、こうやって見るとよく分かる!」
「いえいえ、仕事ですから。頭を撫でて頂きたいですわ。」
「え?」
「い、いえ、な、何でもありません。空耳ですわ!幻聴ですわ!」
大崎が顔を赤らめながら、慌てて放ったコトバを消そうとする。
青山は心中で、
「今、頭を撫でろ、と言った?」
と思いつつ、
「スゲぇ撫でてみてぇ〜」と思ってしまった。
しかし、神崎夫妻の笑顔を思い出しながら、なんとか踏みとどまった。ヤバかった。
神崎夫妻にとって大崎はとても大切な人であり、雇用主と云う形で預からせて頂いている。なので、下手に手を出せないと思ってる。神崎夫妻的には、寧ろ手を出してほしいと思っているのだが、青山は気付かない。
「一日疲れたでしょ?ココの掃除も丁寧にやってくれたし。今日はもう仕事無いから、帰っていいよ。ゆっくり休んで。」
と、帰宅を促した。青山自身も疲労していて、大崎と一緒だと理性がいくつあっても足りないと感じていた。
然し、大崎は許してくれない。
「いえ、私は残り時間で業務を覚えますわ。先ずは青山様…いや、青山さんのお仕事について教えて頂けますか?それと今まで調査したものについて、書類があれば全てに目を通しておきたいですわ。」
…なんかもう、今日は寝かせてくれなさそうな勢いだ。勢いに押されて思わず
「…はい…」
と言ってしまった青山。
「オレ、大丈夫かなぁ」
と呟きつつ、全ての資料閲覧の許可を大崎に与えつつ、質問に答えつつ、たった一回、瞬きをした。
…チュンチュン…
頭の向こうから雀の鳴き声が聞こえる。
「ハッ!」
と、目覚めた。そうだ、大崎は?
すぐ隣に姿勢よく座っていた。
「お目覚めですか。おはようございます。」
「おはよー」
朝の挨拶をする。大崎は極めて冷静沈着だ。が、その心中は、
「一つ屋根の下、初めての夜を過ごすことが出来ましたわ。」
と、口角を上げ、「フフフ」と喜んでいる。
「ごめん、昨日はそのまま疲れて眠ってしまったらしい。大崎さんの方が何倍も疲れてると思うけど。」
「ええ、大丈夫ですよ。あ、資料の方、ありがとうございました。全て目を通させて頂きました。」
「え、もしかして、自室には帰ってないの?」
「いえ、ちゃんと定時に帰宅させて頂きました。とは云え、定時が何時とか聞いておりませんでしたので、神崎社長秘書時代の時間で、自主的に終業させて頂きましたわ。」
と、きちんと帰宅したコトを告げた。
青山は驚いた。
「…この女性、スゲぇわ。あの大量の資料を短時間で。しかも全て綺麗に整理されている。」
大崎は、定時で上がる際、ちゃんと事務所の鍵とセキュリティーを起動して帰宅したコトを伝えた。自室から毛布を持ってきて眠っている青山に被せてあげたコトは特には言わなかった。
「ああ、それは良かった。」
…と、不意に毛布がハラッと落ちそうになるのを押さえた。で、漸く気付いた。
「この毛布、大崎さんが?」
「ハイ、『私の』部屋からお持ちしました。日中は暑くなりましたが、夜間は冷えるとカーラジオの天気予報で聞いておりましたので。」
と、大崎が毛布を受け取って、綺麗に畳んだ。
「ありがとう。気が利くね。流石、神崎社長のお墨付きだ。」
と青山がお礼を言う。大崎は、
「仕事ですから。」
と眼鏡を人差し指で「クイッ」としながら返す。いや、それは仕事の範囲を超えてますケドーと思いながら、青山が嬉しそうにしている。
…と同時に、大崎も、
「フフフ、青山さんを包んだ毛布ゲット♡」
と、毛布を抱きしめながら、別の意味で嬉しそうだ。
こうして、青山が一人で立ち上げた調査事務所は、新たなスタッフを迎えて、再スタートを切った。




