不法侵入幼女(?)と、深夜の身元確認会
「お、おい……! ちょっと待ってくれ!」
俺の制止も虚しく、彼女は軽やかな身のこなしでベランダの仕切りを乗り越え、俺の部屋のフローリングに着地した。
スタッ、と音がする。
あまりに軽い。猫か何かなのか、この生き物は。
「ふぅ……。お邪魔しますね、お隣さん」
彼女はパジャマの埃を軽く払うと、当然のような顔で部屋の中を見渡した。
「ちょ、ちょっと待て! 不法侵入だぞ!? それに深夜に小学生を連れ込んだなんてバレたら、俺の社会的な命が……!」
俺は慌てて窓とカーテンを閉めた。
心臓がバクバク言っている。
深夜の密室に、見知らぬ幼女(推定)と二人きり。
これは完全に事案だ。冤罪で逮捕される未来しか見えない。
彼女は俺のパニックをよそに、散らかった部屋の中をズカズカと歩き回り、デスクの前のゲーミングチェアにちょこんと座った。
足が床に届いていない。ブラブラさせている。可愛い。
……じゃなくて!
「落ち着きなさいよ、佐藤さん」
彼女はチェアの上で足を組み、手に持っていたロング缶をプシュッと開けた。
部屋に炭酸の抜ける音が響く。
「き、君……それ、お酒……?」
「は? これ『強炭酸エナジードリンク・鬼殺し』だけど? パッケージが似てるだけよ。私まだ17歳だし」
「じゅ、17歳……!?」
俺の声が裏返った。
17歳? この見た目で?
ランドセル売り場にいても誰も疑問に思わないこのビジュアルで、女子高生(JK)だって言うのか?
「疑り深い人ね。……ほら」
彼女はパジャマのポケットから、何かを取り出して俺に投げてきた。
慌ててキャッチする。それは学生証だった。
『私立〇〇芸術高等学校 2年 小鳥遊 真白』
写真には、今目の前にいる少女が、少し不機嫌そうな顔で写っている。
生年月日を見ると、たしかに17歳だ。
「合法……ロリ……」
「何か失礼なこと考えてない?」
「い、いいえ! 滅相もございません!」
俺は直立不動で学生証を両手で返却した。
彼女——小鳥遊真白は、ふん、と鼻を鳴らしてドリンクを一口飲むと、俺をじろりと見上げた。
「で、本題だけど。……私の正体、バレちゃったわけよね」
声のトーンが変わる。
先ほどまでの少し子供っぽい地声から、一瞬で『夜空メルディ』の、あの脳髄を溶かすような低音ボイスへ。
「私の配信、いつも聞いてくれてるんでしょ? ……『メルディ様、結婚してください』って呟いてたわよね?」
「ぶっ……!!」
俺はむせ返った。
壁の薄さを呪いたい。独り言まで筒抜けだったのかよ!
「あ、あの、それは……その、仕事のストレスで、つい……」
「ふふ。いいのよ、別に。ファンが近くにいるなんて、ちょっと驚いたけど」
真白は椅子から降りると、ゆっくりと俺に近づいてきた。
身長差は40センチ近くあるはずなのに、なぜか彼女の方が大きく見える。
彼女は俺の真正面に立つと、小さな人差し指を俺の胸元に突きつけた。
「単刀直入に言うわ。私の正体——VTuber『夜空メルディ』であること、そして人気イラストレーター『Mashiro』であることは、学校でも秘密にしてるの」
「イ、イラストレーターのMashiro!?」
俺でも知っている。SNSで神絵師として崇められている名前だ。
VTuberの中身が神絵師で、しかも現役JKで、さらに隣人?
情報量が多すぎて処理落ちしそうだ。
「だから、ここでのことは他言無用。……もしバラしたら、社会的に抹殺するわよ?」
「ひっ……わ、わかりました! 誰にも言いません! 神に誓って!」
俺が首を縦に振ると、彼女は満足げにニッコリと笑った。
その笑顔は、年相応の少女のように無邪気で——。
「よし、契約成立ね。……じゃあ、口止め料として」
彼女は部屋を見渡した。
カップ麺の空き容器、脱ぎ散らかしたワイシャツ、コードが絡まった床。
そして、目の下に深いクマを作って立っている、今の俺。
「……ひどい顔。あんた、ちゃんと寝てるの?」
「え? あー、まあ……最近プロジェクトが炎上してて……」
「ご飯は?」
「ウィダー的なゼリーを吸ってます」
「……はぁ」
彼女は呆れたように深いため息をついた。
そして、突然俺の手を取り、自分の小さな掌で包み込んだ。
温かい。そして、驚くほど柔らかい。
「佐藤健太さん」
彼女は上目遣いで、でも声だけは、あの大人の余裕たっぷりの『メルディ』の声で囁いた。
「秘密を共有した共犯者として、私が面倒見てあげるわ」
「……はい?」
「あんた、このままだと過労死しそうなんだもん。推してくれてるファンを死なせるわけにはいかないでしょ? ……特別に、お姉さんが可愛がってあげる」
彼女の瞳が、怪しく光った気がした。
その言葉の意味を、俺の疲れた脳みそはまだ理解できていなかった。
ただ一つわかるのは、俺の平穏な生活が終わり、何かとんでもなく騒がしく、そして甘美な日常が始まろうとしているということだけだった。
「まずは、そのガチガチの体、なんとかしなさい。……そこに寝転がって」
「え、いや、床汚いし……」
「いいから寝る! ……命令よ?」
ゾクッとするような低音。
俺の体は条件反射的に従っていた。
埃っぽいラグの上にうつ伏せになる。
「……よろしい」
背後で、衣擦れの音がした。
何か、柔らかい気配が降りてくる。




