第5章 辺境の荒廃した領地(前半)
翌朝。まだ夜明けの薄明かりが城を包んでいるうちに、私はアレクシス殿下とともに城を出発した。厚手の外套を羽織っていても、吐く息は白く、頬を刺す空気は容赦なく冷たい。
城下の街路は、王都の石畳とは比べものにならないほど荒れていた。土の道は雨水でえぐられ、馬車が通るたびに泥が跳ねる。軒並み並ぶ家々は壁が崩れかけ、屋根の藁はほとんど黒ずんでいた。
歩く私たちを領民たちが遠巻きに見ていた。
その視線には好意も期待もなく、ただ不安と疑念と、そして少しの敵意が混じっている。
「都会から来た令嬢が、本当にここで暮らせるのか」
彼らの目がそう問いかけていた。
やがて市場と呼ばれる広場にたどり着く。だが、並んでいたのは干からびた魚やしなびた野菜ばかり。王都の市場で見慣れた豊かな品揃えとは天と地ほどの差があった。
「これが辺境の現実だ」
殿下が低く告げる。
「土地は痩せ、収穫は少ない。魔獣の被害もある。商人は利益を見込めず、物資は届かない」
私は沈黙しながらも、必死に景色を目に焼きつけた。数字だけでは分からない現実。領民の疲弊した顔、家々の貧しさ、漂う諦めの空気。これが、私がこれから向き合う領地の姿だった。
しばらく歩くと、ひとりの老婆が私たちの前に進み出た。
「殿下……どうか、どうか助けてくださいませ」
老婆は膝をつき、震える手でアレクシスの裾を掴んだ。
「孫が病に倒れております。薬を買う金もなく、このままでは……」
周囲の人々もざわめき出す。誰もが同じように困窮しているのだ。
アレクシスは冷たい声で答えた。
「城の薬師に診せろ。だが、治せる保証はない」
その言葉に老婆は涙を流しながら頭を下げた。
私は一歩踏み出し、静かに口を開いた。
「薬草を煎じれば、熱を下げるくらいはできます。お孫さんを私のもとへ」
老婆は驚いた顔で私を見上げた。
周囲の視線も一斉に私に集まる。
「都会の令嬢が何を知っている」と言わんばかりの疑念。だが私は視線を逸らさなかった。
アレクシスは横目で私を見たが、否定はしなかった。
「……好きにしろ。ただし責任は取れ」
「もちろんです」
私は毅然と答えた。
その場は一旦解散となり、老婆は孫を連れて城へ来ることになった。
私は歩きながら、殿下に向き直る。
「殿下。領地の荒廃を立て直すには、まず人々の信頼を得ることが必要です」
「信頼など、飢えの前では無力だ」
「いいえ。信頼がなければ、誰も努力を続けられません」
思わず強い口調になった。殿下の目が鋭く光ったが、反論はなかった。
私の言葉が、ほんのわずかでも彼に届いたのだろうか。
城に戻る頃には、夕暮れが迫っていた。
城門をくぐると、兵士たちが私に視線を投げかけた。その眼差しには侮りが混じっていたが、同時にわずかな好奇も宿っていた。
——あの都会の令嬢は、本当に何かをするつもりなのか。
私はその視線を真正面から受け止めた。
まだ始まったばかり。
けれど、今日見た荒廃の現実は、私に強い覚悟を与えていた。