第3章 辺境へ旅立つ馬車の中で(後半)
昼を過ぎ、馬車はひとつの小さな宿場町に到着した。道沿いに並ぶ家々はどれも壁がひび割れ、屋根の藁は色あせている。市場と呼べるほどの賑わいもなく、痩せた子供たちがぼんやりと通りに立っているだけだった。
馬車を止めた御者が、殿下に声をかける。
「ここで休息を取りましょう」
アレクシス殿下は無言でうなずき、私に視線を向けた。
「降りろ」
冷たい響きではあったが、そこに嫌悪や蔑みの色はなかった。私は裾を整え、慎重に馬車を降りる。
その瞬間、近くで遊んでいた子供が私のドレスを指差し、囁いた。
「きれい……でも、都会のお姫様だ」
「きっとすぐ帰っちゃうよ。ここじゃ生きられない」
子供らしい無邪気な声だったが、胸に刺さった。
この地で生きる覚悟を抱いていても、領民からは「すぐに逃げ出す」と思われている。
私はしゃがみ込み、子供たちの視線に合わせた。
「帰らないわ。私はこの地で暮らすの。だから、また会えるわね」
子供たちは目を丸くして見つめていたが、やがて小さく頷いた。その様子を横目に、アレクシス殿下は短く言った。
「……無駄な約束をするな」
私は振り返り、まっすぐに答える。
「無駄かどうかは、行動で示します」
殿下の瞳が一瞬だけ揺れたが、すぐに背を向けて歩き出した。
宿場の宿屋は古びていた。石壁はひび割れ、廊下には藁屑が散らばっている。私は部屋に通されると、旅の埃を払うように椅子に腰を下ろした。窓の外には、沈みかけた夕日が赤々と広がっている。
やがて、エマが湯を運んできた。
「お嬢様……お気を落とされませんように。この地の人々は、まだお嬢様を知りません。必ず心を開く日が参ります」
私は小さく笑みを浮かべた。
「そうね。まずは私から、心を開かなければならないわね」
自分でも不思議だった。王都にいた頃、私は常に心を閉ざし、感情を隠してきた。だが今、辺境に近づくにつれ、心の奥で新しい炎が灯り始めているのを感じていた。
翌朝、再び馬車に揺られて進む。道はさらに荒れ、時折、車輪が大きな穴に取られて跳ね上がる。
私は揺れに耐えながらも、勇気を振り絞って口を開いた。
「殿下は……なぜ辺境を選ばれたのですか? 王都で過ごすこともできたはずです」
アレクシスはしばらく答えず、やがて低く言った。
「……選んだわけではない。俺にはここしかなかった」
それ以上を語る気はないらしい。だが、その短い答えの奥に、彼の過去と孤独が滲んでいた。
私はそれ以上追及せず、視線を窓の外へ向けた。広がる景色は荒涼としていたが、どこか誇り高い強さを秘めているように見えた。
辺境。
ここが私の戦う場所になる。
氷の夫と呼ばれる男と共に。
その日の終わり、馬車の窓から見えたのは、遠くにそびえる黒々とした山脈だった。
その向こうに、ヴァルハルト領がある。
私は息を呑んだ。
長い旅の果てに、ついに本当の始まりが近づいている。