表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/69

第3章 辺境へ旅立つ馬車の中で(前半)

 翌朝、まだ王都が目覚めぬ時刻に、私とアレクシス殿下は再び馬車に乗り込んだ。

 城門をくぐるとき、夜明けの光が街並みを薄紅に染め上げていく。豪奢な屋敷や石畳の大通り、活気に満ちた市場。生まれ育ったこの王都を背にするのだと思うと、胸の奥に小さな痛みが走った。


 だが、振り返ることはしなかった。

 私はもう、この街では必要とされていない。妹リディアの笑顔と王太子の視線がすべてを物語っていた。私は切り捨てられ、辺境へ送られる存在に過ぎない。


 馬車の中は沈黙に包まれていた。向かいに座るアレクシス殿下は、変わらぬ無表情で窓の外を眺めている。

 木製の車体がきしむ音と、車輪が砂利を踏みしめる音だけが響いていた。


「……」


 言葉を交わさずとも、その沈黙は心を圧迫する。

 私は視線を膝の上に落とし、両手をきつく握りしめた。仮面のような無表情を保ちながらも、胸の奥ではさまざまな思いが渦巻いていた。


 侍女のエマは、別の馬車に乗せられていた。私と殿下が二人きりで過ごすよう配慮されたのだろうが、それは配慮というより試練だった。


 沈黙に耐えかねて、私は小さく息を吐いた。

「殿下……辺境までは、どのくらいかかるのでしょうか」


 わずかに彼の視線が動いた。

「五日。道は荒れている」


 それだけ言うと、再び窓の外へ視線を戻す。

 会話は途切れたが、少なくとも返事はあった。それだけで少しだけ肩の力が抜けた。


 やがて馬車は城下町を抜け、街道へと入った。周囲の景色は徐々に変わり、整えられた石畳はやがて土の道へと姿を変えた。馬車は激しく揺れ、座席の背もたれにしがみつくしかなかった。


 その揺れに紛れるように、アレクシス殿下が口を開いた。

「王都で、何を言われた」


 突然の問いに、私は少しだけ目を見開いた。

 彼が自ら会話を持ちかけてきたのは、これが初めてだったからだ。


「……皆、笑っていました。氷と氷の夫婦だと」


 私が淡々と答えると、彼はわずかに瞼を伏せる。

「愚かな連中だ」


 その声色は、初めてわずかな感情を帯びていた。怒りとも軽蔑ともつかぬ色が、冷たい響きの奥に潜んでいた。


 私は不思議に思い、思わず問い返した。

「殿下は……お気になさらないのですか?」


「慣れている」彼は短く答えた。

「俺はずっとそう呼ばれてきた。冷酷だと、氷の男だと。だから今さらだ」


 その言葉は淡々としていたが、どこか深い傷跡を隠しているように思えた。

 私は口を閉じ、それ以上は追及しなかった。人には、触れられたくない過去がある。私自身にも。


 再び沈黙が訪れた。だが先ほどまでの重苦しさとは違い、わずかに柔らかな空気が流れていた。


 馬車の窓から差し込む朝日が、彼の横顔を照らしていた。冷たい線で形づくられたその顔に、かすかに陰影が浮かぶ。

 氷の仮面の奥にあるものを、私はどうしても知りたいと思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ