第3章 辺境へ旅立つ馬車の中で(前半)
翌朝、まだ王都が目覚めぬ時刻に、私とアレクシス殿下は再び馬車に乗り込んだ。
城門をくぐるとき、夜明けの光が街並みを薄紅に染め上げていく。豪奢な屋敷や石畳の大通り、活気に満ちた市場。生まれ育ったこの王都を背にするのだと思うと、胸の奥に小さな痛みが走った。
だが、振り返ることはしなかった。
私はもう、この街では必要とされていない。妹リディアの笑顔と王太子の視線がすべてを物語っていた。私は切り捨てられ、辺境へ送られる存在に過ぎない。
馬車の中は沈黙に包まれていた。向かいに座るアレクシス殿下は、変わらぬ無表情で窓の外を眺めている。
木製の車体がきしむ音と、車輪が砂利を踏みしめる音だけが響いていた。
「……」
言葉を交わさずとも、その沈黙は心を圧迫する。
私は視線を膝の上に落とし、両手をきつく握りしめた。仮面のような無表情を保ちながらも、胸の奥ではさまざまな思いが渦巻いていた。
侍女のエマは、別の馬車に乗せられていた。私と殿下が二人きりで過ごすよう配慮されたのだろうが、それは配慮というより試練だった。
沈黙に耐えかねて、私は小さく息を吐いた。
「殿下……辺境までは、どのくらいかかるのでしょうか」
わずかに彼の視線が動いた。
「五日。道は荒れている」
それだけ言うと、再び窓の外へ視線を戻す。
会話は途切れたが、少なくとも返事はあった。それだけで少しだけ肩の力が抜けた。
やがて馬車は城下町を抜け、街道へと入った。周囲の景色は徐々に変わり、整えられた石畳はやがて土の道へと姿を変えた。馬車は激しく揺れ、座席の背もたれにしがみつくしかなかった。
その揺れに紛れるように、アレクシス殿下が口を開いた。
「王都で、何を言われた」
突然の問いに、私は少しだけ目を見開いた。
彼が自ら会話を持ちかけてきたのは、これが初めてだったからだ。
「……皆、笑っていました。氷と氷の夫婦だと」
私が淡々と答えると、彼はわずかに瞼を伏せる。
「愚かな連中だ」
その声色は、初めてわずかな感情を帯びていた。怒りとも軽蔑ともつかぬ色が、冷たい響きの奥に潜んでいた。
私は不思議に思い、思わず問い返した。
「殿下は……お気になさらないのですか?」
「慣れている」彼は短く答えた。
「俺はずっとそう呼ばれてきた。冷酷だと、氷の男だと。だから今さらだ」
その言葉は淡々としていたが、どこか深い傷跡を隠しているように思えた。
私は口を閉じ、それ以上は追及しなかった。人には、触れられたくない過去がある。私自身にも。
再び沈黙が訪れた。だが先ほどまでの重苦しさとは違い、わずかに柔らかな空気が流れていた。
馬車の窓から差し込む朝日が、彼の横顔を照らしていた。冷たい線で形づくられたその顔に、かすかに陰影が浮かぶ。
氷の仮面の奥にあるものを、私はどうしても知りたいと思った。