第2章 氷の公爵との初対面(後半)
執務室の窓からは、夕暮れの光が淡く差し込んでいた。赤く染まる空が灰色の雲に呑まれていく様は、まるでこの辺境そのものを象徴しているかのようだった。
私は帳簿を閉じ、指先でその表紙をそっと撫でた。これまで王都で見たどの帳簿よりも重苦しく、そして現実を突きつけてくる記録だった。だが、それを前にして退く気はなかった。
「殿下、私は……この地を支える覚悟で参りました。たとえ氷と呼ばれようとも、領民の暮らしを立て直すために力を尽くします」
口にした瞬間、自分の声がほんのわずかに震えていたことに気づいた。だが、それは恐れではなく、決意の重さによるものだった。
アレクシスはしばし沈黙し、机に両肘をついた。その灰色の瞳が、鋭く私を射抜く。
「……言葉だけなら誰にでも言える」
「ええ」私は即座に答えた。
「ですから、行動で示します」
その瞬間、彼の瞳がわずかに見開かれた。だがやはり感情の色を見せることなく、彼は椅子から立ち上がる。
「部屋を用意させよう。長旅で疲れているはずだ」
それだけを告げ、彼は扉へと歩み去った。
残された私は、大きく息を吐いた。
——冷酷。
確かに噂通り、彼は冷たく、不愛想で、人との距離を決して縮めようとしない。
だが、あの瞳の奥にあった一瞬の揺らぎ。あれは本当に何も感じていない者の眼差しではなかった。
私は窓の外に目をやった。城の下には、夕暮れに染まる荒れた村が広がっている。
痩せた土地、崩れかけた家々。ここで人々はどれほどの困難を背負って暮らしているのだろう。
この地を救うことができれば、必ず道は開ける。
氷の夫に、氷の妻と揶揄されようとも、私はやり遂げなければならない。
その夜、案内された部屋は石造りで冷え切っていた。厚い毛布が用意されていたが、王都で慣れ親しんだ暖炉のぬくもりはどこにもない。窓から入り込む風が、蝋燭の火を細く揺らしていた。
侍女のエマが荷物をほどきながら、心配そうに私を見た。
「お嬢様……本当に大丈夫でございますか?」
「ええ」私は毛布を整えながら答える。
「大丈夫。むしろ、ここからが始まりよ」
エマはそれ以上言葉を重ねなかったが、瞳の奥には強い決意が宿っていた。彼女もまた、私と共にこの地で生きる覚悟を固めているのだろう。
ベッドに身を横たえ、暗い天井を見上げながら、私はこれからのことを考えた。
まずは領民の暮らしを知る必要がある。畑を、井戸を、家々を、そして人々の顔を。
数字だけではわからない現実を、この目で確かめなければならない。
だが、最初の関門は間違いなく——氷の公爵。
彼の信頼を得なければ、領地経営の改革など到底できない。
私と彼は、表情も言葉も交わさぬ氷同士。
けれど、その氷が溶ける日は必ず来る。
そう信じなければ、私は一歩も前に進めなかった。
翌朝、まだ夜明け前の空が白み始める頃。
扉をノックする音で目を覚ました。
「起きているか」
低く冷たい声。アレクシスだった。
私は急ぎ身支度を整え、扉を開ける。
廊下に立つ彼は相変わらず無表情で、感情を一切見せていなかった。
「領内を案内する。ついてこい」
それだけを言い、彼は背を向けた。
その姿を追いながら、私は胸の奥に微かな高鳴りを覚えた。
——氷の公爵との、本当の初対面はこれから始まるのかもしれない。