第1章 婚約の決定と王都の嘲笑(後半)
儀式の場が一通り終わり、人々が三々五々に散っていく中でも、私の耳にはなお嘲笑と皮肉が突き刺さっていた。
「氷の令嬢が氷の殿下に……まさにお似合いだな」
「いや、どちらが先に心を凍らせられるか、見ものだ」
まるで見世物のように扱われても、私は一言も返さない。返したところで、彼らは面白がるだけだと知っているからだ。
壇上から降りてきた父は、私の前に立ち、ぎこちなく微笑んだ。
「……セレナ。お前ならやり遂げられる。アルディアの名を、辺境で守ってくれ」
その言葉には、父としての情よりも、家を存続させるための重い責務がにじんでいた。私は静かにうなずいた。反論も、拒絶もできはしない。借金にあえぐ我が家には、もはや選択肢など残されていなかったのだから。
そのとき、広間の扉が開いた。
ざわめきが一気に広がる。人々が一斉に視線を向ける。
黒の軍装に身を包み、鋭い灰色の瞳を持つ青年が、堂々と歩みを進めていた。アレクシス・ヴァルハルト。私の婚約者となる男。
噂通りの冷たい雰囲気だった。表情ひとつ変えず、周囲に視線を投げることもない。彼の歩く先では、人々が自然と道を空け、恐れるように距離を取った。
彼は国王の前で跪き、簡潔に言葉を述べた。
「この縁談、確かに承知いたしました」
その声音は冷ややかで、必要最小限の礼節しか含んでいなかった。
だが不思議と、その簡素さに重みがあった。
やがて彼は立ち上がり、私の前に進み出る。
「セレナ・アルディア」
私の名を呼んだその声は、低く落ち着いていた。私は一礼し、静かに答える。
「はい、公爵殿下」
短い視線の交差。そこに温もりも優しさもなく、ただ冷たい刃のような光があった。
けれど、その奥底に一瞬だけ、消え入りそうな揺らぎを私は見た。
それが何を意味するのかは分からない。ただ確かなのは、この人が私の夫となり、共に辺境で生きることになるという事実だけだ。
式が終わり、貴族たちのざわめきが戻ってきた。人々は互いに顔を見合わせ、口々に囁く。
「本当に氷の夫婦が誕生したな」
「哀れな令嬢だ。あんな男に嫁ぐとは」
「いや、哀れなのは公爵殿下かもしれん」
どちらにしても、笑いものにされているのは私たち二人だった。
その夜、馬車の中で並んで座った私とアレクシスの間には、冷たい沈黙だけが漂っていた。
灯されたランプの光が揺れ、窓の外の王都が遠ざかっていく。
私は少しだけ顔を横に向け、彼を見た。
彼は窓の外に視線を向け、何も言わない。
口を開くべきか迷った末、私は言葉を選んだ。
「……この縁談は、お互いに望んだものではないでしょう。それでも、私は務めを果たすつもりです」
返事はすぐには返ってこなかった。
長い沈黙の後、彼は低くつぶやいた。
「……俺もだ。互いに不要な感情を持ち込まなければ、それでいい」
冷たい響き。けれどその言葉の奥に、どこか諦めのような影が差しているのを感じた。
私は再び前を向いた。
これから向かう辺境は、どれほど厳しい土地なのだろうか。
人々が「呪われた地」と呼ぶ場所で、私は果たして生きていけるのだろうか。
胸の奥に広がる不安を、私は押し殺した。
無表情の仮面を崩さず、ただ前を見据える。
馬車はゆっくりと、王都を離れ、北へと進んでいった。
その行く先には、誰も知らない未来が待ち構えている。
——氷と氷の夫婦と呼ばれる、私たちの物語が、今始まったのだ。