第1章 婚約の決定と王都の嘲笑(前半)
王都アルディアの大広間には、春を告げる陽光が降り注いでいた。窓から差し込む光は、磨き上げられた大理石の床を白く照らし、そこに集う貴族たちの衣装の刺繍をきらめかせる。しかし、華やかに彩られた場の中心に立つ私、セレナ・アルディアの心は、決して晴れやかなものではなかった。
伯爵家の令嬢として育った私に与えられた役割は、本来ならば舞踏会で優雅に踊り、笑みを浮かべ、名門同士の婚姻を結び、家の繁栄に寄与することだった。しかし、いま私が直面している現実は、それとは程遠い。
——政略結婚。
しかも相手は、辺境を治める公爵家の嫡男、アレクシス・ヴァルハルト殿下。王家の次男でありながら、冷酷無比と噂される人物だ。彼が治める北の辺境は、魔獣と疫病が絶えず、領民は飢えに苦しみ、幾度も反乱が起きていると聞く。人々はその地を「呪われた地」と呼び、そこに嫁ぐ私は、王都の社交界で陰口の的となった。
「アルディア家の娘が、あの氷の公爵に差し出されるとはな」
「領地が没落寸前だからだろう? 借金返済に令嬢を売るなど、惨めな話だ」
「冷たい殿下と無表情な令嬢……氷と氷の夫婦だな」
広間の隅々から、ひそひそとした声が聞こえてくる。わざと聞こえるようにささやいているのだろう。私の家が借金にあえぎ、父が最後の手段としてこの縁談を受け入れたことは、すでに王都中に広まっていた。
私は俯かず、顔を上げていた。無表情を崩さないのは、幼い頃からの習慣だ。感情を表に出せば、弱さを突かれる。ならば氷の仮面をかぶり、冷たい視線を返す。それだけで相手は勝手に怯える。
「セレナ」
背後から声をかけてきたのは、妹のリディアだった。淡い金の巻き髪を揺らし、花のように微笑んでいる。私とは対照的に、彼女はいつも表情豊かで、社交界の華と呼ばれている。
「おめでとう。辺境の公爵夫人になれるなんて、栄誉なことよ。……もっとも、都では二度と顔を出せなくなるでしょうけれど」
その声音は甘やかでありながら、刃を含んでいた。私が王都から追い出されることを、彼女は心から楽しんでいるのだ。
「ありがとう、リディア。あなたのように笑顔で祝福できれば、きっと皆も喜んでくれるでしょうね」
皮肉を返しても、彼女は涼しい顔を崩さなかった。むしろ勝ち誇ったように顎を上げる。彼女の背後では、王太子ユリウス殿下が視線を投げかけていた。彼がリディアに寄り添い、微笑む姿を見て、私はようやく父がなぜ私を辺境へ追いやる決断をしたのか理解した。
——王家との縁は、リディアに託す。
——私は切り捨てられる。
胸の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じながらも、表情を変えることはなかった。
広間の壇上では、国王陛下が縁談を正式に告げていた。
「アルディア伯爵家の長女、セレナ・アルディアは、ヴァルハルト公爵家嫡男、アレクシスと婚姻を結ぶ」
その瞬間、場にざわめきが広がった。喜びの声ではない。好奇と嘲笑が混ざり合った、冷ややかな空気だった。
私はただ一礼し、視線を正面に向けた。人々の視線が突き刺さる。だが、その先にいるはずの婚約者——冷酷と呼ばれる殿下は、まだ姿を現していなかった。
噂ばかりが先行する彼は、本当に冷酷なのか。それとも、ただ誤解されているだけなのか。
答えはまだ闇の中にある。