濡れた足跡
それは、私がF県での日帰り出張から、帰る道筋の出来事です。
現場での作業に手間取り、客先を出て最寄りのインターチェンジに乗った時には、もう夜の十時を回っていました。ラジオを鳴らしながら高速をひた走り、道程の三分の二ほどをこなしたところで、車内に警告音が鳴りました。コンパネを見れば燃料ゲージがE線を指し、給油を促すサインが出ています。
もちろん、そう言った警告が、かなり余裕をもって表示させることは知っています。しかし、油断して高速で立ち往生なんて事態は避けたいところです。
私はしぶしぶ、目的よりずいぶん手前のインターチェンジで降り、路肩に車を寄せて近場のガソリンスタンドをスマホで検索しました。しかし、時間が時間なので、どこもかしこも閉店しています。
少し悩み、私は旧道を使ってショートカットすることにしました。まっとうに国道を進むより、半分の距離で自宅へ着きます。離合も困難な峠道ですが、贅沢も言ってられません。私は腹を決め、エンジンを始動しました。
国道を外れ県道に入り、さらに田んぼの間を抜ける名も無き道を進みます。そうして峠道の入口に差し掛かった所で、厄介なことに雨が降り始めました。
車一台がギリギリ通れる程度の道幅で、外灯はなく、しかもガードレールもありません。スリップでもしようものなら、段々畑に真っ逆さまです。
慎重に急な上り坂を行き、ようやく峠を越えたところで、雨がぱたりと止みました。馬の背を分けるなんて言葉がある通り、峠を境に天気が変わるなど、よくあることなので驚くようなものでもありません。濡れた急勾配の路面を下らなくて済んだので、むしろラッキーだとさえ思えました。
とは言え険路に変わりなく、私は上り以上に気を張って道を進みました。なにより、ヘッドライトが照らす先に、濡れた足跡が点々と続いています。歩いて峠を越えた何者かが、この先を歩いているのです。
しかし、今はもう深夜。一体、何の目的で山越えなどしたのでしょう。
そうやって足跡を追い掛け、数分が経ちました。
さすがに私は首を傾げます。
そろそろ追い付いてもよさそうなのに、足跡の主は一向に現れないのです。アクセルは抑え気味ですが、それでも自転車程度の速度は出しています。徒歩の人間に追い付けないことなどあるでしょうか。
さらに私はもう一つ、奇妙な点に思い当たりました。
足跡が、あまりにも明瞭すぎるのです。
例えば、スニーカーで水たまりに、足首まで突っ込んだとしましょう。もちろん、スニーカーはたっぷり水を含みますから、それで乾いたアスファルトを歩けば、これのようにきれいな足跡を作ることもできます。数メートル程度であれば、ですが。
それなのにこの足跡は、雨が降っていた峠から何十メートルも、くっきり輪郭を残したまま、ここまで続いている。そして、これほどの距離を追いかけても一向に背中が見えないのであれば、足跡の主は相当な先を進んでいるはずです。では、なぜこの足跡は、乾きもせずこんなに黒々と濡れているのでしょう。
私は次第に薄気味悪さを感じ、少し強くアクセルを踏み込みました。すると、まったく唐突に、足跡の進路は右手に寄れて行きます。そうして、それが道路の端へたどり着いたのを見て、私はアクセルを踏み込みました。
危険は承知の上です。それでも私は、一秒でも早くそこを離れたかったのです。
だって、道の端で止まった足跡の爪先が、私の車の方を向いていたのですから。