紅茶の温度は、君の声に似て
人は、心の温度をどこで測るのだろう――。
喫茶店の片隅で交わされる何気ない言葉や、
湯気の立つカップの香りに、
そっと心を預けたくなるような瞬間が、
人生のある一時には確かにある。
この物語は、
少し幼さを残した18歳の少女と、静かに日々を過ごす店主の、
言葉よりも温度でつながっていく恋の話です。
派手な事件も、激情的な告白もないけれど、
静かな恋にも、確かな熱がある――
そんなことを感じてもらえたら、嬉しく思います。
駅前の古びた喫茶店「セレナーデ」は、夕暮れ時になるといつもほの暗く、カップの揺れる音だけが静かに響く。
そのカウンターに座るのは、制服を脱いだばかりの少女のような女性。
背は小さく、ふわふわのセミロングを耳にかける癖がある。
けれどその瞳だけは、まるで長い旅を終えた大人のように静かだった。
「おかわり、ください。いつものアールグレイで」
そう言う彼女――**凛音**の声は、まるで冬の朝の蒸気のようにやわらかく、けれどどこか切なげだった。
私は店主として彼女の茶を淹れながら、毎回この時間が来るのを待ちわびている自分に気づいていた。
「凛音さん、今日も大学帰り?」
「ううん、サボっちゃった。……たまには、こういう日も必要だよ?」
肩をすくめるように笑う彼女のその表情は、幼さと色気が入り混じっている。
そんな彼女と交わす会話は、どこか無防備で――そして、だんだんと距離が近づいていくようだった。
紅茶が冷めるころ、彼女がふと呟いた。
「ねえ、店長……誰かを好きになるのって、怖くない?」
私はその言葉の奥に、彼女が何かを隠していることを感じ取っていた。
紅茶の温度は、君の声に似て(第2章)
「ねえ、店長……誰かを好きになるのって、怖くない?」
凛音の声が紅茶に溶ける。曇ったカップの縁を、細い指先がなぞる。
私は答えに迷い、ゆっくりとミルクピッチャーを拭いた。
目の前に座る彼女のまなざしは、私の顔ではなく、ずっと何か遠くを見ていた。
「うん……怖いよ、正直。でも、それでも惹かれてしまうなら、その気持ちは、もう止められないんじゃないかな」
凛音は少しだけ唇を噛んだ。
その仕草がどこか子どもっぽく見えて、同時に妙に艶っぽくもある。
「……私ね、誰かを好きになると、自分が自分じゃなくなるみたいで怖いの」
「自分じゃなくなるって?」
「うまく言えないけど……相手の一言で泣きそうになったり、何気ない笑顔だけで一日中ふわふわしてたり。すごく嬉しいのに、苦しくもなって」
彼女は少し目を伏せて、紅茶を一口すすった。
その瞬間、カップのふちに薄く残った口紅が、彼女の感情を代弁しているように見えた。
「たぶんね……店長と話してるこの時間も、そのうちのひとつ」
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
彼女の瞳が、静かにこちらを見つめている。
揺れるカップの水面のように、優しく、でも確かな意思を秘めて。
私は笑うでも、答えるでもなく、ただ彼女の紅茶にお湯を足した。
温度を取り戻すその香りが、ふたりの沈黙を包んだ。
そして凛音がぽつりと言った。
「もうちょっと、ここにいていい?」
「もちろん」
その夜、閉店時間が過ぎても、カーテンの隙間から漏れる店の灯りは、しばらく消えなかった。
第3章:彼女の秘密
翌週の火曜日、凛音は開店して間もない時間にふらりと現れた。
「……まだ準備中、だった?」
「いや、大丈夫。もう少しで整うから、奥の席使ってていいよ」
彼女はいつものカウンターではなく、壁際の2人席に座った。窓から差し込む午前の光が、彼女の肌を淡く照らしていた。
いつもより少しだけ疲れた顔。
けれど、それを隠すように「アールグレイでお願いします」と微笑む。
カップを運びながら、私は何も問わず隣に腰を下ろした。
彼女は紅茶に口をつけてから、ふと呟いた。
「……私、高校、途中で辞めたの」
私は驚きはしなかった。ただ、彼女がそれを打ち明けるには少し勇気が必要だったのだと気づいた。
「家のこととか、人間関係とか、いろいろうまくいかなくて。逃げた、っていう方が正しいのかもね」
彼女の指が、カップの持ち手をなぞる。
「それで……親とも、ほとんど話してない。一人暮らし、始めたの」
私は黙っていた。慰める言葉も、共感のセリフも、今この場には似合わない気がした。
すると彼女はぽつりと笑った。
「店長って、変な人だね。普通、こういう話、もっとリアクションするでしょ?」
「そうかもな。でも……凛音が、今ここにいることの方が、大事だと思うから」
その一言で、彼女の目元が少し潤んだように見えた。
「……ありがとう」
そう呟いた彼女の横顔は、どこか決意を帯びていた。
第4章:揺れるスプーン、沈む鼓動
その日、店は午後から雨だった。
窓ガラスを滑る水滴と、通りを行く人の足音が混じり合う音の中で、私はカップを磨いていた。
「雨音って、少しだけ寂しいよね」
カウンター越しに、凛音が紅茶のスプーンを静かに揺らしながらつぶやく。
「でも、嫌いじゃない。……昔から、こういう日は落ち着くの」
「俺も、似たようなもんだよ。人の声が静かになる気がして」
「……そう、だよね」
彼女は紅茶に唇をつけながら、じっとこちらを見つめていた。
なにかを言いたそうで、けれどそれを言葉にしようとせず、沈黙のまま間を置いた。
「ねえ、店長」
「うん」
「私のこと……どう思ってる?」
突然の問いだった。けれど、それがどれほどの勇気からくるものか、私は察していた。
「正直に言ってもいい?」
「……うん」
私は紅茶ではなく、彼女の目を見た。
「たぶん、俺は君に惹かれてる。気づいたのは、先週。けど、怖くて、それ以上深く考えないようにしてた」
「……どうして?」
「君が若いからかもしれないし、俺がもう、恋をするには歳を取りすぎたって思ってたからかもしれない」
凛音は黙って聞いていた。
そしてそっとスプーンを紅茶の中に沈めた。
「……そう思ってくれてるだけで、十分」
「本当に?」
「うん。だって私、誰かに必要とされたいって、ずっと思ってたから」
彼女の声が小さく震えていた。
その震えは雨音の中で、かすかに掻き消されながらも、確かに心に届いた。
その日、ふたりは何も結論を出さなかった。
ただ、雨の音が止むまで――ふたりで同じ空間の温度を感じていた。
第5章:雨が降る夜、傘の音が近づく
その日の雨は、いつもより強かった。
風も混じっていて、看板が軋む音が店内にまで響いてくる。
閉店時刻はとっくに過ぎていた。
客足も早く途絶えたのに、凛音はまだカウンター席に座っていた。
「……もう、帰らないとまずい?」
私が問いかけると、彼女は首を横に振る。
「傘、持ってこなかったの。天気予報、外れたね」
「だったら、送っていくよ。もう少し待てば、弱くなるかもしれないけど」
「……ねえ、店長」
「ん?」
凛音は、少し迷ったように眉を寄せてから言った。
「もし……もし、私がこのまま、ここに泊まっちゃったら、困る?」
一瞬、心臓の音が喉元まで上がってきたような気がした。
雨音が急に遠くなったように感じる。
「……困る、かな。お互いに」
そう答えながら、どこかで自分をごまかしているのを感じていた。
そのとき――ガタン、という音が外から聞こえた。
思わず顔を上げて、ガラス戸の外を見る。
傘を差した人影が、倒れた看板のすぐ横にいた。
「誰かいる?」
「ちょっと見てくる」
私は急いで戸を開け、びしょ濡れの傘の下に立つその人影に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
そこにいたのは、10代後半の男
第6章:言葉のないさよなら
季節が変わりはじめた。
木々の色が少しずつ黄味を帯びて、窓の外を歩く人々の服が長袖に変わっていく。
その変化を静かに見つめながら、私はずっと考えていた。
凛音の不在が、最近多くなっていた。
連絡はある。
「今日はちょっと実家に顔出すね」
「バイトの面接があるんだ」
「久しぶりに友達に会うことになって」
その一つひとつに嘘はないのだろう。
でも、何かが――心のどこかの糸が、ゆっくりとほどけていくような気がしていた。
⸻
ある日、久しぶりに彼女が店に来た。
秋雨が静かに降る午後だった。
「……久しぶり」
「うん。元気そうだね」
紅茶を淹れる間も、彼女はどこか上の空だった。
その視線は、いつものカップではなく、カウンターの端をぼんやり見つめている。
「ねえ、店長」
「うん」
「私、この街を離れることにした」
一瞬、音が消えたような感覚に陥る。
「……そうか」
それ以上、何も言えなかった。
何を言っても、自分の気持ちを押しつけることになりそうで。
「自分の人生をちゃんと生きてみたいの。今まで、誰かに守られたくて逃げてばっかりだったから……。でも今は、守られたままじゃ、あなたの隣にも立てないって思った」
「……うん」
紅茶の香りがいつもより遠く感じた。
「ごめんね、何も言わずに」
「謝るなよ。言ってくれて、ありがとう」
沈黙が、ふたりの間に優しく降る雨のように降り積もる。
そのあと、何を話したかよく覚えていない。
ただ彼女が帰る時、
**「いってきます」**とだけ言って、
私の顔を見ずに扉を閉めたことだけが、胸に残っている。
⸻
紅茶が冷めるのも気づかず、
私はカップを洗い続けた。
彼女が座っていた席に、温もりがまだ残っているような気がして。
第7章:また、紅茶を淹れる日まで
あれから、半年が過ぎた。
喫茶店「セレナーデ」は相変わらず、夕方になるとカップと椅子の音だけが響く静かな空間で、
凛音がいた頃と何も変わっていない――ように見えた。
でも、違うのは彼女のいない日々に慣れてしまった自分だ。
彼女がいないカウンター。
彼女の好きだったアールグレイの香りだけが、時折、空気に揺れていた。
⸻
その日も、曇り空。
午後4時。客はまばらで、私はひとり本を読んでいた。
カラン、と扉が開く音。
何気なく顔を上げて――
一瞬、息が止まった。
「……久しぶり」
そこに立っていたのは、前より少しだけ大人びた雰囲気をまとった凛音だった。
髪が肩につくほどに伸び、コートの裾からのぞくスカートが秋風に揺れていた。
「帰ってきたのか?」
「うん。一週間だけ。面接があって……でも、まずはここに寄ろうって思ってた」
彼女はそう言って、自然にカウンターの定位置に座った。
まるで何事もなかったかのように。
「アールグレイでいいか?」
「ううん……今日は、あなたが一番好きな紅茶にして?」
「……ああ」
私はゆっくりと立ち上がり、凛音がいなかった半年の間に見つけた新しいお気に入り――
少し渋みのあるダージリンのセカンドフラッシュを淹れた。
湯気の立つカップを彼女の前に置くと、
凛音は深く息を吸って、微笑んだ。
「なんか、すごく懐かしいね。この香りも、この距離も」
「俺は……毎日、懐かしんでたよ。ずっと」
凛音は少しだけ目を見開いて、
それから、かすかに震える声で答えた。
「私ね、やっと言える気がする」
「なにを?」
「“いってきます”じゃなくて……」
彼女は、紅茶を見つめながら言った。
「ただいま、って」
私は笑った。
言葉は、それ以上いらなかった。
雨は降っていないのに、
心の中でずっと降り続いていたものが、静かに止んでいくのを感じた。
⸻
エピローグ:「ふたり分のカップ」
凛音は、再び街を離れた。
でも今度は、行き先も、目的も、気持ちも知っている。
そして――カウンターの端には、いつもふたつのカップが並んでいた。
ひとつは、今日来るかもしれない彼女のために。
もうひとつは、毎日彼女を思いながら淹れる、自分のために。
⸻
おわり
ここまで物語を読んでくださり、ありがとうございます。
「紅茶の温度は、君の声に似て」は、
大きな決断やドラマティックな運命の代わりに、
**“静かにすれ違い、静かに戻ってくるふたり”**の距離感を大切に描きました。
大人と子どものあいだ。
保護と対等のあいだ。
感情を伝えることと、伝えないことで守ることのあいだ。
そんな“あいまいで不確かな境界線”のなかにこそ、
恋の本質が宿っているのではないか――と考えながら書き進めました。
もし、読後に少しでも温かい余韻が残っていたなら、
それはきっと、凛音と店主ふたりの静かな時間が、
あなたの中にもほんの少し届いたということかもしれません。
またどこかで、新しい物語を一緒に紡げますように。