8杯目
「……常連さんとの会話で何となく知ってると思うけど、オレには4つ歳の離れた兄がいてね……。兄にはもう奥さんと小さな娘さんがいて家庭を持ってるんだけど……俺、初恋が兄さんでさ」
出だしから衝撃的な話に律は絶句する。
肩をすくめて深く息を吸い直す巽の話は、まだ続きそうだった。
「……驚いちゃうよね。たぶん、最初は普通に憧れだったんだと思う。母親が精神的に参って出て行っちゃって親父も忙しい中、幼いオレに唯一親身に寄り添ってくれたのが、兄だったんだ。兄も責任感の強い人だったから自分が保護者の代わりをしないと、ぐらいに思っていたのかもしれないね」
「いいお兄さんすね……俺の所は恐怖政治だったんで……」
律の呟きに、真剣な顔をしていた巽が吹き出した。
「言い方……。律のお姉さん綺麗な方だったけど、確かに気は強そうだったね。律がお姉さんの代わりに家の事してた、ってのも正直納得したよ。……その……見た目の印象で言わせてもらうと、女王様みたいな……」
「女王様っすよ、本当に。俺の事都合のいい家来ぐらいにしか思ってないと思います。……あ、真面目な話の腰折っちゃってすいません。お話続けてください」
「全然、気持ちが和んだよ」
巽は朗らかに破顔すると、口元をまた引き締めた。
「兄は無骨だけどずっと優しくて、真面目でかっこよくて……。オレは兄に恋愛感情に近いものを抱いてるってわかった時、この気持ちはずっと隠しておこうと思ったんだ。大事な兄に嫌われたり、おかしいオレのせいで迷惑をかけて未来を奪うような事はしたくなかったから……。でもその影響なのかな……オレはその後も同性で年上の人に惹かれるようになったんだよね……」
「……」
「……オレさ、前彼氏にフラれたって話したよね?」
「……あ、はい……。なんかそんな感じのこと、言ってましたね……」
『年上』という巽の発言を引きずりつつ、話を振られた律は素直に応じる。律の相槌を挟み、巽の話はさらに加速した。
「……元彼さ、オレの前職の上司だったんだ。新卒からお世話になってた人で、年は5つくらい離れてたかな。オレ、銀行員だったんだけど……」
「銀行員……!? あっ、だからお札数えるの上手いんすね……!」
「え……?」
律が巽の職業に食いつき、腑に落ちたように言い切る。巽は律の返答に間の抜けた顔で固まった後、口元に手を当て小刻みに肩を震わせていた。恐らく、笑っていた。
「……そんなとこ見てたの? 恥ずかしいな……。もちろんこんなだらしない髪型じゃなくて、全部黒髪で短く揃えてたよ? まぁだから見た目が今よりずっと子どもっぽくてね……上司はそんな俺を可愛い可愛いって可愛がってくれたんだ」
「今も充分可愛いっすけどね」
「あはは、いっぱい褒めてくれるね。ありがとう……律は優しいな」
巽は笑っていたが、律はその笑い方に陰りを感じた。案の定、巽は話す声のトーンを少しずつ落としていく。
「……可愛がってくれた上司のこと、社交性も頼り甲斐もあってオレも好きだったんだ。上司はノンケだったけど、『音なら抱ける』って何度も言ってくれて……。馬鹿正直なオレは嬉しくて、仕事外でも上司と関係を持つようになったんだよね。明確な宣言はなかったけど、『愛してる』とか『大好き』とかいっぱい言ってくれてたから、オレは上司のこと普通に彼氏だと思ってた……」
椅子に背を預け腕を組み、懐かしむように天井を仰ぐ巽。そして首を下向きに戻す際右耳の耳たぶに触れ、ぎゅっと握った。過去の傷や痛みにひたむきに耐えるような挙動を、律は唇を噛み締めひたと見つめていた。
「……関係を持つようになったって言っても、基本はオレが手や口でする奉仕みたいな事がほとんどだったんだけどね。される行為も乱暴だったし……。あの時は上司に依存していて盲目になっていたけど、今思えばおかしかったのかも……」
「……」
「でもオレはオレで一人暮らしの上司に毎日お弁当を作ったりとか、本当は痛いのが怖くて嫌だったけど上司が言うから頑張って耳に穴開けたりとか……。重いって言われるだけのことも、しっかりしてたんだけどね……」
話の結末を知っているだけに、当人である巽から直々に詳細を聞くのは辛いものがあった。
しかし巽は言葉湧き出るままに話し続ける。
「……結局、上司は別の女の人と浮気してたんだ。現場を目撃したオレは問い詰めたんだけど、見事に逆ギレされちゃって。そもそもオレとは『付き合ってない』って……。顔が可愛いから抱いてやってただけで、男と付き合うのなんてそもそも無理だって、あっさり言われてさ。……そんで親父の病気のこともあったし、色々心折れてちょうどいいと思って仕事辞めちゃったんだよね。……オレは、失恋の逃げ道にこの店を利用したんだよ」
巽は話したい事を一通り話終えたようで、部屋は再び静寂を取り戻す。
居心地の悪い静けさの中、律は自分の体が別人のように沸々と熱くなるのを感じた。
「……その元彼、どこの銀行のなんて名前ですか」
重い空気の中、口火を切ったのは律だった。
唸るような律の言い方に、巽は弾くように顔を上げた。穏やかな巽には珍しい険しい顔だった。
「やめなよ律。オレは傷ついてこそいるけど、上司を恨んではないんだよ。騙されてたオレも悪いし……」
「……そこまで言うなら巽さんの意思を尊重しますけど、巽さんが悪いって事は絶対にないです。じゃあ、どうやったらそいつのこと忘れさせられますか?」
――これまでに感じた事のない激しい感情の波と同時に、巽に対する愛おしさや庇護したい思いが募っていく。律の問いに、巽は黒目がちの目をひたすら丸くしていた。
「……今のを聞いて幻滅しないの? オレ、律が思うような立派な大人じゃないよ……?」
「するわけないじゃないすか。むしろ、守りたいって想いがもっと強くなったっす」
律は自身の膝に手を乗せ、深呼吸して怒りを鎮め、巽に伝えた。
「……巽さん。俺、やっぱ巽さんのこと好きっす。巽さんは俺の心配をしてくれるけど、俺はもっと巽さんが巽さんのことを好きになれるように、大切にしてあげたいっす……。改めて伝えるっすけど、俺と付き合ってくれませんか?」
律は巽と真っ直ぐ向き合った後、礼儀正しく頭を下げた。誠実さを示すためと、火照る顔を隠すためでもあった。頭を下げ巽が視界から消えると、巽の震えた声が降りかかってくる。
「……ほんとに、ほんとにいいの? オレ、面倒臭いよ? 全然律が思ってるような大人じゃないし、好きな人にはいっぱい愛してほしいって思うし、できる限り一緒にいたいって思う。重いのは嘘じゃないんだよ? それでも、オレの事嫌いにならないの……?」
不安そうな、巽とは思えないたどたどしい幼さを感じる語りかけだった。
――いや、一度だけ……律が巽の腕をつかんで引き寄せた時も、そんな雰囲気を纏っていたか。
これが店主ではない巽の素の姿なのだろう。律は顔を上げ、はっきりと首を縦に振った。
「はい。巽さんの悲しみも苦しみも全部、俺が受け止めます。……まだまだ頼りない男ですが、貴方を守らせてください」
律は机に置かれた巽の手を包み込むように横から手を被せる。華奢な巽の手は、律の掌にすっぽりと収まっていた。
「……律……、オレこそ……オレなんかで、いいのなら……」
息が止まるような逡巡の後、巽は唇を甘噛みして律を見上げた。
「……よかったら今日、泊まってく?」
巽の発言と熱を孕んだ視線に、律の心臓は大きく高鳴った。




