7杯目
店内から厨房に移動し、裏口前にある階段を巽を先頭にして登っていく。傾斜の急な階段を登る度に軋む音が、『チャイム』という建物が刻んできた年数や時代を示していた。
「ごめんね、散らかってるけど……。靴はここで脱いでね」
「いやそんな……。は、はい、お、お邪魔しまっす」
階段を上がって右手にキッチンと木製のダイニングテーブルがあり、左手には小さな扉があった。恐らく、お手洗いだろうか。
巽の後を追いダイニングキッチンへと進んだ律は、テーブルの前の椅子に座るよう促され大人しく腰を下ろす。忙しなく部屋中を見回す律に、巽は小さく笑った。
「そんな緊張しなくてもいいよ。さっきも言ったけど、律の話をちゃんと聞きたいだけだしさ。それと、オレも自分のこと話さなきゃいけないって思って……。まずは嫌な思いを、させてごめんね」
キッキンの前に立って申し訳なさそうに眉と頭を下げる巽に、律は何度も首を横に振った。
「い、いや、偉そうに言ったんすけど、そんなわざわざ謝られることじゃ……てか、かなり俺が悪いんスよね。あんな失礼な態度で巽さんに……」
「……ふふ、いやでも、態度っていう点に関しては、結構情熱的だなって思ったかな。突然腕をつかんできた時もそうだけど、オレ、キスもどきっとしちゃった」
「っ……、また、そうやって俺を……」
律に向かって歩いて来る足音が聞こえてきたかと思うと、不意に律の顔の上に影が落ちた。
律がおかしいと感じた時には、律がかつて巽にしたように、今度は巽が律の唇を奪っていた。
「……っ」
巽は律の椅子の背もたれに片手を置き、腰を屈めて律にキスをしている。律が座ったまま固まっていると、泡沫のように短く唇から唇が離れていった。
「――揶揄ってなんかない。オレも好きだよ、律」
唇が離れていくのを名残惜しく感じる間もなく、巽から告白を受ける。そして鮮烈な告白は、さらに巽の口から紡がれていった。
「初めて会ったその日から、オレ、君に惹かれてたんだよ。だから律の気持ちが嬉しくてあんな反応をしちゃったんだけど、あれから少し冷静になったんだ。オレみたいなオジさんが本気になって、君みたいな若い子の人生を台無しにしてしまうのが怖くなったんだよね……。あれが律の一時の気の迷いでそのまま忘れてくれるなら、それでもいいって思ったんだ……」
「は……? え……?」
「……ってことで……。そうだ、晩ご飯、食べてないでしょ? オレ、律の分も勝手に作っていい?」
「えっ、あ、ちょっ……!? 待ってください……!」
再びキッチンへと歩き去ろうとする巽の腕を、律はとっさにつかんで訴えた。
「つまり、俺ら両思いってことスよね!? そんな大事な事、軽く流さないでくださいよ……!」
「え……だ、だって……」
律に鋭く突っ込まれた巽は、斜め下を向き首に手を回しながら口を尖らせた。
「……オレも好きだったのは伝えなきゃと思って伝えたけどさ、自分で思い出してもオレの態度って最低だし大人としてもみっともないし、申し訳なくて……。あ、晩御飯は本当に簡単なのしか作らないから、気にしないで! オレの晩飯でもあるからさ……!」
「あ、また隙あらばはぐらかそうとしてんじゃないすか! ちゃんと話すって言ったのに、卑怯っすよ……!」
「い、いいから、ね。心だけじゃなくて、お腹も満たされてほしいからさっ。それが終わったら、またいくらでも話すから……!」
巽は無理矢理前進して律の腕と追撃から逃走し、今度こそキッチンの前に移動する。フライパンを取り出した巽の後ろ姿を見た律は、ため息を吐いて見逃してやることにした。
律に背を向けるまで巽の顔が赤らんでいた気がするのは、内心舞い上がっている律の見間違いではないと悟ったからだ。
巽はフライパンをコンロに設置し、冷蔵庫から幾つか食材を取り出している。かと思えばコンロの電源を入れて、あっという間にそれらを炒め合わせ始めた。
調理中で火を扱っている中、容易に声をかけるのは控えることにする。律は口を挟みたい気持ちを懸命に抑え、巽の背中をジトリと睨めつけていた。
「――はい、お待たせ。冷めないうちにどうぞ」
律が辛抱強く待っていると、目玉焼きの乗せられた焼きそばが律の前に出された。
「あ、あざす……」
調理が終わったら聞きたいことや気になることを全部問いただそうと思っていたのに、湯気の上がったできたての料理を前にすると、空腹に思考が追いやられ不思議とその気は一瞬で引っ込んでしまう。
律は冷めないうちにそれを食し、それから巽の話を聞こうと思い直した。
「いただきます……」
「はーい、オレも食べるね〜……」
巽も自分の前に皿を置き、黙って食べ始める。賄いの時と同じスタイルだ。あの時と変わらぬ穏やかな時間が、一時2人の間に流れる。
「……ごちそうさまです」
「はーい、お粗末様」
食べ終わり、空になった皿を流しに運ぶ。
巽も立ち上がって流しにいて、律から皿を受け取ろうとしていた。
「……あの、俺皿とか洗います。作ってもらったんで……」
「いいよ、座ってて。オレが好きで作っただけだし」
「でも……されっぱなしはイヤっす」
「そんなの気にしないよ〜」
譲る気のない巽。押しに弱くいつもなら諦めている律だが、今回ばかりは不甲斐ない姿ばかり見せてきたという自覚が、彼を意地にさせていた。
「……俺が気にするんです。賄いの時だって、同じことしてんじゃないすか。黙ってどいてください」
律は頑なに首を横に振る。
賄いの事例を出すと、巽は口をへの字にして困ったように笑った。
「……強情だなぁ。わかったよ。じゃあお言葉に甘えてお願いしようかな。そのスポンジ使ってね」
「ウス」
粘る律に巽は肩をすくめ、渋々流し台を譲った。テーブルの椅子に腰掛けた巽を目視し、律は流し台に視線を落として皿やフライパンなどの器具を洗い始める。
「……巽さん、ここでいつも寝泊まりしてるんすか?」
「そだよー」
洗い物を始めて少し。ふとここに来て気になった話題を振る。律の質問から程なくして、巽の返答が水音の合間から聞こえてきた。
「元は店主……親父の寝床で、それを今はオレが使ってる」
「元々巽さんたち一家が住んでたワケじゃないんスね。結構広そうっすけど」
「あー……、母親がいた頃は、親父以外店の近くのアパートに住んでたんだ。でも離婚して母親が出て行ってからは親父に引き取られて、ここで寝泊まりしてたよ。だから店の手伝いも子どもの頃からたまにしてた。大学から店を出たけど、二代目するってなってまた戻って来て親父と入れ替わったカンジ」
「あ……なんかすいません……」
「いいよいいよ。今はみんな仲良いし、母さんとも連絡取ったり会ったりもしてるよ。母さんが育児で大変だった頃、仕事一筋の親父と上手くいかなくなったってだけで……」
律は思わず巽の顔を見て謝罪の言葉を口にするが、巽は相変わらず笑顔で気丈に話していた。
ここまで話したところで、粗方洗い物が片付く。律は流しを離れると、テーブルに戻って巽と向かい合って座った。
「おかえり。洗い物ありがとね」
「いえ、全然少なかったんですぐ終わりました」
戻ってきた律を、巽は優しく迎えてくれる。
律は巽の陽気ながらも落ち着いた佇まいを見て、告げた。
「……俺、巽さんの事尊敬してます。俺は、巽さんのようにはなれないかもしれないけど、そんな人の隣に立てる人でありたいなって思います」
「……そんなことないさ。オレ卑怯な大人だよ? さっきの告白でよくわかったでしょ」
「はい。でもそれも含めて好きっす」
巽のこととなると、表情が動き途端に饒舌になる律。そんな豊かな表情を浮かべている事にも無自覚なまま、律は眉尻を下げて目を細める美青年の顔を見つめていた。やがて美青年――巽はゆっくりと口を開く。
「……まぶしいね。それ、もっとオレの事を知っても、そう思ってくれるかな?」
「え?」
巽は両肘を机の上に出して置くと、律を真正面から品定めするように見据えた。
「――律、今からする本当のオレの話……聞いてくれる?」
突如重みを増した空気に、律は無意識に姿勢を正す。一度力んで唇を噛み締めると、そっと息を吐き頷いた。
「……はい、巽さんのことなら何でも……。聞かせてください」




