5杯目
「律くん、チーズオムレツのお客さんご飯少なめね!」
「……ウス」
微妙な空気感のまま、忙しいランチタイムに突入する。巽の指示に、律は硬い顔で頷いた。
チーズオムレツにご飯少なめ――これもそのお客さん独自の注文だ。
また一人、常連客が来ているようだ。
律はカウンター席を確認する。
黒髪を同じく黒のシュシュで後ろにまとめた、薄化粧で小綺麗な印象の女性。年齢は巽と同年代か少し上、30前後だろうか。服装も紺色のカーディガンに白のカットソーと堅実な装いだ。
ランチの際1人で入店し、カウンターに座って毎回チーズオムレツを注文する。少食なのかライスはいつも小盛りで、彼女自身饒舌という訳ではなく巽とも交わされる会話はほとんどない。名前も不明だ。
ただ毎週来てくれるので、彼女を認識した巽が注文を記憶しそのまま通すようになった――という訳らしかった。
巽は注文の調理に手一杯のようだったので、律は巽が仕上げたチーズオムレツを盛り付けご飯をよそうと、ランチプレートの乗ったトレイを持ち上げた。
「俺、持っていきます」
「助かる〜! ありがと!」
感謝する巽を一瞥し、律は厨房からカウンターに入って真っ直ぐ女性客のところへ向かう。
スマホを弄り俯く女性客の前に立つと、律はランチプレートを彼女の前に置いた。
「お待たせしました。チーズオムレツランチ、ご飯小盛りです」
「……あ、ええ……ありがとう」
「お、出てきた。本当に働いているのね」
「……は?」
律は忙しいのもあり足早に厨房へ戻ろうとしていたが、聞き覚えのある声に素っ頓狂な声を上げてしまう。身の危険を感じ、素早く振り返った。
「思ったよりマシだけど、やっぱり愛想がないわ」
「姉貴……なんでこんなところに……」
「なんでって、カワイイ弟の顔を見に来たに決まってるでしょ? 貴重な会社の昼休みを使ってね」
「……めんどくせぇからバイト先教えてなかったのに。母さんから聞いたのか?」
「フン」
鼻で笑う女性――律の姉は、律と同じ目尻が細長く切れ込んだクールな目つきで、後ろ髪の長さは顎先ほどのショートカットだ。
律の顔を認めるなり、きつめの黒いアイラインが憎たらしいほどなだらかな丘陵を描いた。
「なんか聞いたことある名前だなーとは思っていたけど、まさか上司御用達のお店だったなんてね。こんな面白い事、見てみたくもなるでしょ」
「奏ちゃん……今は忙しいだろうから、あまり長く引き留めたら悪いわよ……」
「わかってますよ、原さん。すぐ終わらせますから」
勝気な態度で頬杖を突く律の姉――奏を、隣に座る常連客の女性が弱々しく嗜める。会話内容からして、彼女たちはどうやら上司と部下に当たるらしい。
谷中奏は律と7つ年の離れた姉だ。年の差はあるが、律は彼女を頼りになる姉だと思ったことは一度もない。
男勝りで自由奔放。母や父が仕事でいない間の家事や面倒事をよく押し付けられてきた。
外面はいいのか男女共にモテていたようだが、律に対する当たりは強く振り回されることが多かったため、幼い頃から恐怖の対象だった。
「――噂の『イケメン』店長は?」
「た……マスターは今厨房にいる。ランチタイムなんて一番大変な時間なんだから、迷惑だし諦めろよ」
「あら、紹介して欲しかったのに。ザンネ……」
「お待たせしました〜。ロースカツのお客様ですね?」
険悪な兄弟の後ろから威勢のいい声が迫って来るなり、ロースカツ定食が慣れた手つきで滑り込むように配膳される。
目を丸くした奏は立ち上がり、律の背後の声の主――巽に煌々と瞳を輝かせた。
「こんにちは〜。ご注文の時きちんとご挨拶できなかったので、またお話できて嬉しいです。律の姉です。弟がお世話になっています」
「律くんのお姉さんでしたか。いえいえこちらこそ〜。この度はご来店いただきありがとうございます。律くん仕事できる子なんで、僕もとても助かってます。お姉さんもよかったら、また来てくださいね〜」
「ええ、勿論」
「それではごゆっくり〜」
他所行きの姉の高い声に、律は耳を塞ぎたくなる。奏に頭を下げた巽は笑顔で手を振ると、また厨房へと風のように消えていった。その勇ましい後ろ姿を、律は呆気に取られながら見送る。
――そして見送ったのも束の間、後ろからポンと肩を叩かれる。振り返った先にあるのは、上機嫌な奏の顔だった。
「……ってことで、また来るから。頑張ってね、弟♪」
「なっ……せめて俺が非番の時に来い! ……食べたら、さっさと帰れよな……!」
他の客の目を気にして声を潜めながらも、律は乱暴に吐き捨て釈然としないまま厨房へ舞い戻る。
――なんだか巽に身内を見られるのは無性に恥ずかしく、またフォローされるのもばつが悪く感じた。
*
常連客の女性や姉が帰った後も、その日のランチタイムは苛烈を極めた。どうやら向かいにあるカフェが臨時休業らしく、その客がチャイムに流れて来ているようだ。律も厨房だけでなく店頭に出て注文や配膳、レジ会計に積極的に勤める。息を吐く暇もない時間が続いた。
そんなランチのオーダーもこなしながら、巽がコーヒーの注文のためカウンターに設置されたエスプレッソマシンを稼働している最中だった。
律は満席で客が待っている中、席を空けるため退店した客の食器を下げようとカウンターに赴く。
チャイムの店員が通る側のカウンターの幅は狭く、人1人が少し余裕を持って立てる間隔しかなかった。カウンター内ですれ違う際には、体を横向きにして慎重に後ろを通るしかない。
カウンター席への配膳はどちらかが厨房にいるかもしくは一方通行で、基本的にすれ違うことは可能な限り避けていた。
しかし異例の忙しさの今日は真昼を過ぎてもランチで来店する客が続き、ランチ客と昼過ぎにコーヒーやデザートを注文する客層が店内に混在している状況であった。
律は飲料の業務をしたことがない。そのため飲料は自ずと巽が対応し、律はランチの作業を担当していた。
そんな状況下でカウンターに入った律は巽の後ろを慎重にカニ歩きで通り、食器を乗せたトレイを回収するとまた巽の後ろに差し掛かった。
――しかし、姉との出来事やいつにない忙しさに、知らぬ間に精彩を欠いていたのだろう。
もしくは一度は通れた事で油断していたのかもしれない。
食器類を持っていたことでバランスが取りづらかったといった事も、きっと原因としてあったはずだ。再度後ろを通り抜けようとした律の腕が、巽の肘に弾くようにして当たった。
「……っ……!?」
「わっ……!」
巽との予期せぬ接触は想像よりずっと勢いが強く、律が持っていたトレイがぐらりと斜めに傾く。巽が手にしていたコーヒーカップもだ。
その場面を目撃していた時には、律はなす術なく床へと滑り落ちる食器を眺めることしかできなかった。
食器が重なって割れる音に、店内は一時騒然とする。食器だけでなく、食べ残しやお冷、コーヒーなどの固体や液体が全て床にぶちまけられ、陶器の食器やガラスのコップは落下の衝撃で割れてしまっていた。
「わー……やっちゃったね〜……だいじょ……」
「――っ! すんません! すいません!!」
巽の発言を聞く余裕もなく律は青ざめて謝罪を繰り返すと、目にも止まらぬ早さで厨房から箒と塵取りを持って来ていた。
「最悪だ……マジすいません……」
律は虚ろな顔で破片だらけの狭い床に屈み、一心不乱にそれらの回収に努めていた。
「律くん……」
そんな律の焦燥に巽は明らかに戸惑いながら、それでも甲斐甲斐しく声を掛けていた。
「律くん、そんな焦らなくてもいいからね? 提供するランチがダメになった訳でもないし、コーヒーだって機械ですぐ淹れられるんだから……」
「いいです。俺のせいなんで、俺がやるんで、気にしないでください。……俺の事なんかいいんで、巽さんは自分の仕事をしてください」
「……。うん……そうだね、わかった……」
背中から未だに巽の案じるような声と視線を感じるが、律は巽を見たくなくて――ただ下を向いていた。
律は自分の不甲斐なさに、奥歯を噛み締める。悔しさを誤魔化すように、後始末に没頭した。
**
「……はぁ」
――ランチが落ち着き、店全体の人気がなくなった頃。
普段なら14時には帰れているのに、今日は15時を回っていた。
律は今日引き起こしてしまったミスで上の空になりながら、もそもそと賄いのチキン南蛮を食していた。
美味しいはずなのだが、気落ちしている今は味を楽しむ余裕がなかった。
「おつかれー」
「……っかれっす」
「忙しかったね、今日。しかもいろいろあったしさぁ……オレら、頑張ったよね〜」
「……」
ふりかけのかかったご飯を片手に、普段と変わらない陽気な笑顔で着席する巽。
巽は律が食器を割ってしまったことに、直接触れなかった。コップや皿など幾つもの食器を使えなくしてしまったのだが、弁償の話も何も言われていない。十分反省しているからそれで良いという言葉で片付けられてしまった。
「律くんのお姉さん、美人だったね〜。オレより身長高そうだったよ? 律くんの家系はみんなスタイルがいいんだねー、羨ましいや」
食事中は決まって静かな巽が、今日はよく喋る。律は普段通り黙って箸を動かし続けていた。
――巽が律を責めないことが、責任感の強い律を余計に苦しめる。そんな事もきっと知らずに、巽は明るく話し続ける。
「そうだ律くん、甘いの好き?」
「……食える、ッスけど……」
「そっか! ちょっと待ってて」
例の如く先に食事を終えた巽は立ち上がり業務用の冷蔵庫の前に移動すると、向こうの調理台で何かを切り皿に載せて運んで来た。
「はい、デザート」
そう言って律の前に出されたのは、一切れのミルクレープだった。
「……これは、何すか」
「メーカーさんが試食で持ってきた冷凍ケーキだよ。よかったらどうぞ」
「……ざっす」
律も食事を終えると、用意されたフォークでミルクレープを割いていく。
一口大に切ったミルクレープを口に運んでいくと、人並みには美味しいがクリームの油分としつこい甘さが少し、気になった。
「どうかな? 律の意見が聞けたら嬉しいんだけど……」
安直に覗き込んで尋ねる巽に、律の片眉が上がる。律は柄にもなく説明し難い激情に駆られた。
「……なんで今、そんな風に言うんすか」
「え?」
「そんなに俺、単純に見えますか? ガキすか?」
律は座ったまま、俯いてフォークを握り締める。律には巽の言動が理解できなかった。
昨日のキスの真意も、自分のミスに対する対応も。なんで直接言ってくれないのだろう。
このケーキだって味見とは言っているが、律を元気づけようと思って持って来たのではないか。巽の優しさが、今の律には煩わしかった。
「……正直、ウザいっす。俺だけ本気にして……馬鹿みたいじゃないっすか」
律はときめきより不満が濃く芽生え、巽を忌々しく睨んでいた。
「律……わっ……」
律は座った状態で、隣に立つ巽の襟を乱暴に引く。
不意な出来事によろける巽に、構わず独りよがりに唇を押しつけた。
「り……」
「……どうすか? こんな既製品、甘いだけっしょ? ……巽さんと、同じっす」
見上げた巽の顔は予想外にも面食らっているように見えて、律は直ちに顔を逸らしてしまった。
動揺した律は巽を顧みず食器を重ねると、洗い場に向かう。重苦しい空気の中淡々と食器を洗い終えると、律は巽を見ないようそっぽを向いてエプロンを脱ぎ、トートバッグを担いだ。
「……帰ります」
「……うん、お疲れ様……」
巽の声に元気はなかったが、優しかった。
苛立ちに任せた行動を今更後悔するが、謝罪を実行に移す勇気はなかった。
律は依然と巽を見ることもそこから言葉を交わすことなく、音を殺しチャイムを後にした。




