4杯目
『律』
右耳に寄せられた、巽の体温。
平常ではない耳の温度に、巽への特別な『好意』を自覚した律は、激しく戸惑った。
――それは、律が今までに感じた事がない、他者への強い興味だった。
女性との交際経験は何度かあるが、いずれも相手からの告白で付き合い始めた。律から相手への恋愛感情はなかったが、相手の愛情を否定できるほどの度胸もなかった。
付き合っていく内に相手を好きになるかもしれない――そんな淡く甘い見通しを抱きながら交際を続けたが、都合良く律の気持ちが動くことはなかった。
交際から程なくして自然消滅、またはフラれて関係が終わることが続いた。
自分が恋愛に向いていないと悟った律は、大学生活でも変わらず色恋沙汰に関わることはなかった。――しかし、それからの昨日のアレだ。
性別関係なく初めて好きになった人が、巽という人間だった。同性を好きになるとは、思ってもみなかった。
それは恋愛感情というよりもっと知りたい、頼りにしてもらいたいといった憧れや敬愛に近いものかもしれない。
だが彼の行動や表情、接触に胸がときめいたのも事実だ。
この難解な自分の気持ちに明確な名前をつけることはとてもできないが、今までに出会ったことがない、特殊な感情であることには違いなかった。
「お……おはようございます」
――キスから翌日のチャイムへの出勤。
巽との関係性が大きく変わってしまうのではないかと恐れた律だったが、律を出迎えたのはいつも通り明るく爽やかな巽だった。
「おはよー、律くん。今日もよろしくね〜」
「え……? あ、はい……ウス」
巽に気さくに手を振られ、律は肩透かしを食らう。
呼び方も、『律くん』だ。
複雑な気持ちを募らせたまま、律はエプロンを装着し作業を開始する。
自分の不可解な気持ちと巽のあっけらかんとした態度にモヤモヤしながら、律は味噌汁用の万能ネギの小口切りを量産していく。
自分は遊ばれただけなのか?
だが意を決して自らをゲイと告白し律の反応を恐る恐る窺ってきた人が、軽率に誰も彼も手を出して弄ぶようには思えない。抱きしめた時の迷いも体を預けてくれたか弱さも、その時は本物だったように感じたのだが――。
「おはよーさん」
ネギを切り終わり米を洗って炊こうと思った律は、ドアチャイムに重なる低い声を聞く。
壁掛け時計を見やる。時間は10時、開店直後だ。
声から既に誰か察することはできたが、念の為厨房から店内を覗き来客の姿を確認する。
「おはようございます」
「おー、兄ちゃん。みー坊は?」
「今呼ぶっスよ」
白髪に無精髭の60代と思しき小太りの老年男性。服装は上下グレーのスウェットというラフな出立ちだ。
挨拶もそこそこにカウンターに男性が腰掛けたのを見て、律は巽に呼びかけた。
「巽さん、三武さんっす」
「あいよー」
サブという響きを聞いた巽は、作業の手を止めカウンター端に座った男性――三武の前に颯爽と現れた。
「いらっしゃい、サブさん。元気?」
「おう、かろうじてな。……魚、何入ってる?」
「今日の刺身はイワシで焼きはキンメだよ」
「ん。じゃ、それで頼むわ」
「おっけー」
巽は注文を聞くと、また厨房に戻って来る。
喫茶店チャイムには、頻繁に店を訪れる常連客が数人存在する。数ヶ月勤務した律にも、それが把握できるようになってきた。
サブさんこと三武は、毎週2、3回ほどチャイムを訪れる常連客の1人だ。
来店時間はピークを外れた昼前か昼過ぎ。
注文するのは必ず魚で、ご飯は無し。刺身と焼き魚両方を頼み、それを肴にして酒を飲んでいる。彼だけの特別ミックス魚定食だ。
「はい、サブさんビール」
「悪いなみー坊、今日はやめとくわ。これから病院で定期検診があってな……。ビールはお前が飲め。ワシの奢りだ」
「へへ、ご馳走様です。健康診断は定期的にした方がいいよ〜。サボってると親父みたいに急に倒れちゃうから」
「笑えねぇよ。たっさん……親父さんは最近どうだ?」
巽が笑いながら缶ビールをあおると、三武は顔をしかめた。巽は気にすることなく明るい調子で答える。
「元気は元気。文句言いながら、抗がん剤治療頑張ってるよ」
「可哀想になぁ。みー坊も1人だと店大変だろ。きー坊はやっぱりこっちに帰ってこねぇのか?」
「……そうだね〜。樹兄さんは奥さんと子どもがいるから、そう簡単に仕事は辞められないし無理させられないよ。本人からも、店のことは任されてるし」
「そうか……まー、家族の事を考えれば仕方ないわな……」
三武は先代からの常連のようで、巽を『みー坊』と呼ぶ。巽も三武には敬語を使わず、まるで友人のようなフランクな話し方だ。昔からの長い付き合いなのだろう。
2人はよく家族と健康の話をしている。律が容易に踏み込めないような巽の家庭事情を話していることが多く、盗み聞きをしているつもりはないが他に客がいないと会話が丸聞こえで、そこで初めて知る巽の事情も多かった。
……自分はまだ、巽について知らないことばかりだ。律は店先から響く巽と三武の声を聞きながら、黙々と厨房で作業を進める。
三武は巽と話をすることを目的に来ているため、それを理解している巽も他の客や注文がなければ三武につきっきりになる。
今日は予約もなく巽の仕込みも落ち着いているので、巽はずっと表に出て三武の話を聞いているようだった。
――昨日のことで確かめたいことがたくさんあるのに、尋ねる事もできずもどかしい。どうしてこんな時に――。
律は横に頭を何度か振る。三武は当然悪くない。
律は昨日の事を覚えているはずなのに何も言ってくれない巽の後ろ姿を、厨房から恨めしく睨んだ。
「んじゃあな、また頼むわ!」
「はーい、親父にも伝えとくよ〜。いってらっしゃい!」
入店から1時間と経たず三武は帰って行った。
もうすぐ11時。店内はまもなくランチタイムで賑やかになる。律は忙しくなる前に三武の食器を片付けたいという焦りと巽に対する不満で、二重の苛立ちを抱えていた。
「律くん、これお願いできる?」
「いいスけど……お酒なんて飲んで大丈夫なんすか。これから忙しくなるのに」
「あの程度じゃ酔わないよ〜」
巽が三武の食器を流し場まで運んできてくれたにも関わらず、律は仏頂面で巽に嫌味をぶつけてしまう。
しかし巽は軽口を叩いて受け流すと、アイドルさながらピースとウインクをしてみせた。愛らしい見た目と挙動からそこそこ様になっているのが、より一層腹立たしい。
「……はぁ、そうスか。俺にはどう見ても酔っぱらいにしか見えないっすけど……気をつけてくださいね」
「はいよー、そうする」
律は不貞腐れると、背後の食洗機へ踵を返した。
どうせ大人ぶって笑っているのだろう――振り返らずともそのにやけ顔が目に浮かんで、律は面白くなかった。




