後編
律が喫茶店『チャイム』でアルバイトを始めてから、約1ヶ月――。
「おはよう律くん。今日は11時半から6人の予約が入ってるよ」
出勤するなり、壁かけカレンダーを見ていた巽から声がかかる。律は戸惑うことなく首を縦に振った。
「了解っす。多めに盛り付け用意しておきますね」
「うん、よろしくね。今日は天気も良いし客足も伸びるかも」
「了解です」
あれから随分仕事に慣れてきた律は、大方の事態に対応できるようになっていた。
仕事も食材の下ごしらえや盛り付けだけでなく、フライヤーの揚げ物の管理も律が担当するようになっていた。
グラッセなど比較的工程の単純な惣菜も任せてもらえるようになり、また律から巽に頼んで店内の清掃や配膳と下膳もさせてもらえるようにした。
少しずつだが、確実にできることが増えている。日に日にそんな実感が湧き、それが巽の役に立っているという自信に繋がり始めていた。
「律くん、積極的になったよね」
今日はいい干物が入ったとのことで、律の賄いのメインはアジの干物だった。律は箸を持ったまま巽に答える。
「巽さんのおかげっす」
律はそれだけ伝えて、柔らかい魚の身をほぐし食べ進める。
隣にいる巽の昼は、ご飯に味噌汁をかけただけのねこまんまだった。
「頼りになるよ」
茶碗をかき込んで、巽の昼食は終了。既に立ち上がり、流しへ向かおうとしていた。
「……」
『頼りになる』――何気なく言われた巽の台詞が鍵となり、律の心の錠前を開く。
「――巽さんがピアスしてないのって、衛生上の問題すか?」
律がそう口にすると、流しに向かっていた巽の足が不自然に止まった。
――初めて、自分から巽のことを尋ねた。出会った時から気になっていたことだ。
立ち止まった巽に引っ込みがつかなくなった律は、切り出した勢いで意見を並べる。
「俺、アクセサリーも興味ないし穴も開けてないんでよくわからないんすけど、ピアスをしている友人は穴が塞がらないよう透明なピアスとかシリコン入れてるらしいっす。……巽さんはそうしないのかなって気になって」
「べつに無くなってもいいからね。むしろそれなら好都合だし」
巽は律に背を向けたまま一言返すと、再び歩き出し流し台で食器を洗う。
それも茶碗と箸だけなのですぐ終わりそうだった。
――沈黙が苦しい。巽の言葉に浮かれて安直に言わなければよかったと律は後悔する。
だが同時に、このままでは終われないと腹を括った。
「誰かの影響すか」
「どうして?」
「……なんとなく。そんな気がしただけっす。片方だけだし、なんか意味があんのかなって……」
洗い終わり振り返った巽の顔は、感情の読み取れない真顔だった。気後れした律の声は自ずと小さくなるが、巽はようやくフッと頬を緩める。
「いや、当たってる――昔の恋人の影響。その人はもういないから、手放した」
巽は律の前まで悠然と戻ってくると、立ったまま台に手を着き、物憂げな瞳で律を見つめた。
目線は座っている律と同じ高さ。向かい合う距離は近く、律と巽の間に1メートルあるかどうかだ。
普段の巽らしくない色気と仄暗さに、律は不意にドキッとした。
「……ちょうど良いから言うけどさ、俺、ゲイなんだよね。愛が重いって言われて、フラれたんだ」
「そうなんすか。巽さんに愛してもらった男の人は、失礼スすけど馬鹿っすね」
「……ん? 待って、リアクション薄くない?」
「あ、すいません。自分反応薄いってよく言われるもんで……」
「いや、そうじゃなくて……引かないの? 2人きりだと犯されるかも、とか……」
「思わないっす。巽さん、そんな人には見えないんで」
感情に任せたやり取りで畳みかけるように発言し、律は巽から目を逸らさず断言する。巽は信じられない様子で目を見開き、あどけない瞳に戻って律を見返していた。律は立ち上がり、小柄な巽を俯瞰する。
「それに、俺の方が巽さんよりでかいし。――巽さんは、逆に守りたいって思う人なんで」
律は固まって動けない巽の右腕を引き寄せた。
「……え」
巽の間の抜けた声がこぼれる。
つかんだ巽の腕は、見た目よりもずっと筋肉質だった。毎日鍋やフライパンを振るっているからだろうか。
抱き締めるまではいかず、つかんでいる右腕以外は巽の体のどこにも触れていない。ただ2人の距離は、鼻先が触れてしまいそうなぐらい接近していた。
「律くん、何をしているの……? どういう意味でこんな……自分のしてること、わかってる?」
「わかんないっす。でもなんかこうしたかったんです。……しないと、後悔するって思ったんです」
抑揚のない声と輝きを失った瞳で尋ねる巽。だが拒絶もしなかった。律は想いを言葉にできないもどかしさもあり、強気に言い返す。
律の指先は、高揚で熱を帯びて汗ばんでいた。それは触れられている巽も感じているだろう。
巽の息遣いがとても近くに聞こえて、律の感情の昂りは最高潮に達していた。
「俺、巽さんのこともっと知りたい。……もっと頼ってほしいっす。俺に――もっと甘えてください」
律は躊躇いながら空いた腕を巽の細い腰に回し、抱き寄せた。
「律くん……」
背中に触れないと気づかなかったであろう息を殺した震えが、律に伝わってくる。強張っていた巽の肩の力が抜けたのを感じ、律は目を閉じた。
――カランカランカラン。
2人の世界の終わりを知らせるように、来店ベルの音が軽快に残酷に鳴り響く。
鐘の音を聞いた巽はまぶたを開き、優しく律の肩を押した。
「……行かないと」
「俺、待ってます」
「この後講義とかサークルないの?」
巽の鋭い突っ込みに律は言葉を詰まらせ、ぐっと眉を寄せながら噛み締めるように答える。
「……あり、ます……」
「じゃあ、行っておいで。いくら閑古鳥が鳴いてるって言っても営業中なんだから、律くんとだけ一緒にいる事はできないよ。――オレは、みんなのマスターだからね」
「……ウス。でも……」
巽の言い分に正当性は感じるものの、素直に納得ができない。すぐに動こうとしない律に、巽は眉を下げ小さく笑うと歩み寄り、前屈みになって耳打ちした。
「――大丈夫。オレは律くんの『巽さん』だからね。オレはいつでもここで……律を、待ってる」
そういうと巽は柔らかい唇を律の右耳に擦り寄せ、音を立てて短くキスをした。
「――また明日」
律が事実を自覚した時には、巽は悪戯っぽく、しかし恥ずかしそうに微笑み、瞬く間に店頭へと滑り込んでいった。
「……ずるいっす」
律は自分の右耳を手の平で覆ってつぶやく。
耳だけでなく顔も熱く、今まで経験したことのない紅潮を感じたが、誰にも見られずに済んだのは救いだった。
律と巽の恋のチャイムはまだ――人知れず鳴ったばかりだ。