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中編

「お待たせー」

 

 20分と経たず律の前に運ばれてきたのは、サラダと惣菜がランチの時の倍以上盛られたワンプレートだった。その中央にはロースカツ、そしてカツの上には楕円形のクリームコロッケが2つ載せられており、別に玉ねぎと挽肉の味噌汁もついていた。圧巻のボリュームに、律も驚きを隠せない。


「なんかいっぱいあるんすけど、こんなにいいんすか?」

「ウチは賃金が低いからね〜。だからせめてお腹いっぱいで帰ってほしくて。バイトの女の子たちは体を気にして控えめに頼む子が多いから、作りがいがあるよ」

「そうすか……じゃあ、いただきます」

「はーい、どうぞ〜。オレも食べるねー」


 律が手を合わせて箸を取ると、巽は別の丸椅子を持って来て律の隣に座った。

 この時間は客の流れが落ち着いているからか、巽も同じく昼食を摂るようだ。とはいえ、巽の前にあるのは卵かけご飯だけで、律に比べかなり量が少なかった。


 律はメインの一つであるクリームコロッケを口にする。噛んだ瞬間容赦なくあふれ出すクリームソースに火傷しそうになりながらも、滑らかで濃厚なホワイトソースとサクサクの薄衣に律は舌鼓を打った。

「うっま」

「それはよかった。お惣菜とお味噌汁はお代わりあるから、いっぱい食べてね」

「……ウス」

 律の素の感想に、巽は心底嬉しそうに笑う。

 しかし律は複雑な心境だった。巽の仕事量に比べると、自分は何もしていないように思える。こんなに食べさせてもらっていいのだろうか……。

 

 巽はしばらく律の食べる様子を眺めると、自身も箸を動かし始める。会話もなく咀嚼するだけの静かな時間が2人を包み込む。だが律は不思議と気まずく感じなかった。

 ワンプレートのおかずが律の空腹の魔力でたちまち半分消えたところで、巽はひと足先に食事を終えたようだ。流し場に自分の食器を持って洗っていた。


 ふと流し台に立つ後ろ姿を見やって目に留まったのは、穴の向こう側が見える右耳のピアス穴だ。働いていて気づいたが、開けているのは右耳だけだ。

 

 空っぽのピアスホール――失礼だが未成年のようにすら見える幼い巽の見た目には歪な気がして、律は出会った当初から気になっていた。

 

 しかし巽は、自分の話をあまりしたそうには思えない。


 巽自身のことも度々話してくれるが、それはあくまで己のタイミングであって、律が聞き返そうと思っても絶妙な間で違う話題に上書きされているような気がする。だから自分から軽率に巽の事に触れてはいけない気がして、律はピアスのことを口に出せなかった。

 

 盛り付けのフォローもそうだ。初日だから当たり前だが、かなり気を遣われていて――全く信用されていない。律は早く店の、巽の役に立ちたかった。 


「バイト初日どうだった? やってけそう?」


 律が悶々としている間に流し場から戻ってきた巽は丸椅子に腰掛け、律と向き合う姿勢で話し出した。律は口の中にある惣菜のイカ大根を飲み込み、答える。

 

「そっすね、バイトそのものが初めてだったんすけど……たぶんいけそっす」

「バイト初めてだったのかぁ〜、よくできてたよ! 聞いたかもしれないけど、ウチのバイトは少数の学生さんで回してもらってて、小さな店のバイトってこともあって結構学生さん主体でシフトを組んでもらってるんだ。だからシフト調整や休み、交代の相談はオレじゃなくて、アルバイトのメッセージグループに連絡した方がいいかも」

「わかりました。グループのことはなんとなく聞いてるんで、橋場先輩に頼んで入れてもらいます」

「うんうん、よろしくね。……ところで律くんはどうしてここでバイトしようって思ってくれたの?」


 巽は台に置いていた腕を膝に移動させる。

 この時律は惣菜やサラダは全て食べ切り、ワンプレートにはロースカツが残り半分載っていた。箸を皿に置いた律は、顔を巽に向ける。


「……単純に、サークルでお世話になっていた先輩の頼みだったので。調理補助もできそうだったし、何より接客がないのがいいなって。勤務も基本バイト1人体制みたいだったんで、気楽だなって」

「なるほどね。舞都ちゃんの人を見る目も流石だけど、大切な先輩のためにバイトを決めてくれた律くんも優しいね」


 巽の過分な言葉に、律は過敏に反論してしまう。


「俺は全然すよ。失礼だったら申し訳ないんスけど、橋場先輩も俺の性格と見た目じゃ他の飲食店でやってけないと思って、このバイトに声をかけてくれたんだと思います。俺、表情筋死んでるんで……。ここでも橋場先輩の代わりになれるかどうかは、定かじゃないっすけど」

「いや、律くんでよかったよ。君の人柄が良くて信用できる人だから、舞都ちゃんも君を誘ったんじゃない?」

 巽のライトブラウンの瞳の光沢が、キラキラと律に瞬く。実際に発光した訳ではないが、それぐらい眩しく見えた。


「あの、その……いいスから……俺、全然そんなできた人間じゃないんで……」


 見え透いたお世辞なんて適当に流せるのに、なぜか巽の言葉は簡単に消化できなかった。


 上っ面でなく、この人は本当に『人間』を大切にしている。客と自分のようなアルバイトへの親身な対応を見ればわかる。短時間で自分という人間をよく観察して、歩み寄ろうとしてくれている――そんな巽の温かい人間性を、肌身で感じたからだ。


 幼い頃から共働きで忙しい両親に甘えられず、学校でも淡白な人間だと思われて、こんな風にちゃんと自分を見てもらえたことがなかった。

 律は慣れない褒め言葉を多量に浴びてどうしたらいいのかわからず、ただ巽から顔を逸らすことしかできなかった。


「ごめんね、ついつい可愛い学生さんにお節介をかけたくなっちゃって。オレは()()()()マスターだからね。――オレでよかったら、なんでも言って」

「……ハイ」

 

 律が俯きがちに頷くと、店内からカランカランとドアチャイムが響いた。

「はーい!」

 音が響いた瞬間、巽は声を張り素早く店の表へと歩き出す。音と声に驚いた律は、反射的に顔を上げていた。


「お客さん来たから行くね。それ食べてお皿洗ったら、今日は上がっていいから。――お疲れ様!」


 巽は律に手を上げ早口で告げると、俊敏にカウンター客のところへ向かい、親しそうに話を始めた。

 相手は常連客なのだろうか。律と話すよりもあどけない笑顔で――なんだか気を許しているようだった。


 それを眺めた律は箸を取り、ロースカツを口に運ぶ。揚げてから時間が経っても尚、肉はジューシーで衣も軽く美味しかった。


 だけどなぜか、物足りなく思うのは。

 空席となった隣の丸椅子を尻目に、律は黙々と食事を続けた。


 *


「ありがとうございましたー。また来てくださいね〜」


 常連客を見送り、巽は深く息を吐いて肩の力を抜く。

 平日の午後は昼とは打って変わって客が少なくなる。客層も父の代から来てくれるシニア層の常連客がほとんどだ。

 注文もコーヒーや軽食など厨房に入らずカウンターで準備できるものばかりで、接客に専念することができた。


「そろそろ始めるか〜」


 アルバイトが帰った後はカウンター前で読書やスマホを見たり、厨房で仕込みを徐々に始めたりする。今日はこれから客足が鈍ると読んだ巽は、厨房に足を踏み入れた。

 

 そして厨房に入った巽は目を見張った。

 目の前の作業台に、律がまだ座っていたからだ。


「……律くん?」

「あ、お疲れ様です」


 律は巽を確認すると、見ていた本を閉じる。本は新書判の建築関係の教養書のようだった。


「もしかして、ずっと待ってたの? あれから1時間は経ってると思うんだけど……」

「すいません。なんかちゃんとお礼や挨拶言いたくて……そのなんか、上手く言えないんすけど、あのまま帰るのイヤで……」


 律は右腕で左肘を抱える。落ち着きがなく少し気まずそうだった。 

 

 申し訳ないというか、恥ずかしい感情が強いか? 

 ……あまり他人に隙を見せた子がない子なのだろう。巽は不安そうな律をなだめる。


「いいよいいよ。迷惑かけた訳じゃないんだし、律くんが大丈夫ならこっちはいいんだよ」


 律は巽の言葉にほっとしたのか、顔を前に向け真正面から巽を捉えた。安心感からか、律の口角は自然な弧を描いていた。


「俺、巽さんからも頼りにしてもらえるよう頑張ります。賄い、美味かったっす。……おつかれした」


 終始クールな佇まいだった律が見せた無垢な笑顔に、巽は意表を突かれ背徳的な感情を覚えてしまう。

 

 そんな巽の心模様などつゆ知らず、律は頭だけを下げ軽快な足取りで目の前から消えた。


 巽が律に声をかけるゆとりはなく、黙って彼を目で追うので精一杯だった。

 勝手口のドアが閉まったかと思うと、喫茶店の表側の窓に律の後ろ姿が映った。

 

「初々しいなぁ」

 

 厨房と店舗を繋ぐ境目、巽はそこで壁に肩を預ける。店の外にいた律は一度も振り返ることなく、やがて巽のいる場所から見えなくなった。


 久々に抱いた感情に、まだ心の整理がつかず動揺している。しかし瞬きをすると即座に熱が引き――巽は鼻で哀しく自分を笑った。


「……オレがゲイだなんて知ったら、律くん、バイトやめちゃうんだろうな」


 孤独で虚ろに変わった巽の独り言を聞く者は、店内には誰もいない。巽は無意識に空白の右耳のピアスホールを、揉むように弄っていた。

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