前編
都内某日某所、午前9時前。
電車を降り駅を出た律は、人通りの多いオフィス街を歩き、折れて路地裏へ入る。すると洗練されたビル群は、昭和の下町のような風景へと一変する。
そんな路地をすぐ立ち入ったところに、レンガ造りのこぢんまりとした建物が待ち構えていた。入り口にはブラックボードの立て看板に白字で手書きのメニューが書かれており、一番上の題目には『平日限定! お得なワンプレートランチ!』と銘打たれている。
黒板スタンドの謳い文句に目を奪われていた律は、足元に『チャイム』と記された純喫茶を思わせる青い電飾を見つけ、無事目的地に着いたと確信した。
――駅から徒歩5分圏内に位置する喫茶店『チャイム』。
30年以上続く老舗喫茶で、平日の格安ランチがビジネスマンに人気を博しているそうだ。慌ただしい表通りから外れた静かな小路にあるため、隠れ家のような雰囲気に惹かれ入り浸る常連客も多いのだとか。
今日のため店の下調べをしてきた律は、意を決して細く暗い建物横の道に踏み込み、そこで発見した裏口の古びたドアをノックした。
「はーい」
ノックをして数秒と経たず、金髪だが襟足と頭頂部は黒い特徴的な髪型をした青年がドアの隙間からひっそりと顔を覗かせた。
目が大きく鼻が小さい。小顔で中性的な顔立ちをしている。一目だと二十代前半……律と同じ大学生ぐらいか。見方によっては高校生にも見えるだろう。
幼い印象の顔から、何の装飾もついていない耳たぶのピアス穴に目が行き、最終的にそこて律の意識は収束した。
「いらっしゃい、えっと……」
「谷中律っす。橋場先輩の紹介で、バイトに来ました」
律は想像したよりもずっと若い男性に驚きつつも、表情には出さず明白に伝えた。律を出迎えた男性は大きい目をさらに大きく見開き、口を開いた。
「あぁ、君が! 舞都ちゃんが辞める代わりに新しい子連れてくるって聞いてたけど、うちのバイトに男の子だなんて初めてだからびっくりしちゃったよ! ごめんね? 今日はよろしく〜」
「……ウス」
舞都とは、律にこのバイトを紹介してくれた同じサークルの先輩、橋場の名前だった。元々ここのアルバイトだった橋場からの紹介というだけで採用され、面接もなく2人は今日が初対面だった。
男性は顔の前で両手を合わせ律に謝罪をしていたが、軽薄なノリや年齢不詳の見た目に、一抹の不信感や不安は拭えなかった。男性に促された律は、ぎこちない足取りで勝手口のドアをくぐった。
室内に入ると、何やら煮込んでいるような食欲をかき立てられる匂いが漂ってくる。そして今まで顔だけしかわからなかった男性の背中――全体像が把握できた。
骨格が華奢で手足が長い。律の目の位置に男性の頭があった。細い廊下を抜け厨房らしき場所へ出たところで、男性は踵を軸に一回転し律に向き直る。
「それでは改めて、オレは『チャイム』の店主の音巽、です。みんなにお願いしてるんだけど、店主でも巽でも好きな方で呼んでね」
「じゃあ……巽さんで」
「おっけー、じゃあオレは律くんって呼ばせてもらおうかな。他の子も親しみを込めて名前で呼んでるけど、嫌だったら遠慮なく言ってね」
「べつに嫌じゃないっす」
名前を呼んだり呼ばれるのは構わないが、マスターという呼び方が日常使いではないからか、無性に小っ恥ずかしく感じた。自分にはとてもできない。
斜め下を見ている律に、巽が小首を傾げる。
「ちなみに律って、旋律の律?」
「そっす」
「良い名前だね。うちにぴったりだ」
「そうっすか……」
いつまでも目を合わせようとしない律に男性――巽は覗き込むように背中を丸め、大人びた目であどけなく微笑んだ。
「――もっと、気難しいオッサンが出てくるかと思った?」
「え。……まぁ、そうすね。先輩も何も言ってなかったんで、お店のことも考えるともっとご年配の方かと……」
律の視線が自然と巽に誘導される。
律と目が合うと巽の鋭い目は悪戯っぽく反射し、巽は少年のように歯を見せて笑った。
「そうだよね。オレ、二代目なんだ。一代目のオヤジが病気で倒れて入院しちゃって、脱サラしてこっちの世界に入ったんだ」
「はぁ……」
脱サラって、一体いくつなんだろうか。無邪気な人柄や見た目で判断しようと思えば、十分年下に見えるのに。そんな疑問を口にする勇気もタイミングも見つからず、巽から仕事の話が始まる。
「舞都ちゃんから聞いてるかもしれないけど、うちのバイトは平日のランチタイムに1人調理補助に入ってもらって、仕込みからランチの提供を手伝ってもらうよ。難しい調理や接客はないから安心して。初めてでも大丈夫だと思う。エプロンに着替えて手を洗ったら始めよっか」
巽の説明で律が持参したエプロンを身につけると、早速アルバイト勤務が始まった。
チャイムのランチは看板にもあった通り平日の昼限定ワンプレートが売りで、メインのおかずを客が注文し、そこにサラダや日替わりの惣菜が盛られるスタイルだ。そこに味噌汁もつく。
ハンバーグやチーズオムレツといった定番の洋食メニューから、お刺身や焼き魚など10種類ほどの幅広いメニューがあった。
律に任された仕込み作業は、主に食材の下ごしらえ――野菜を切る作業だった。付け合わせのサラダで使うレタスの千切りやスライサーによる紫玉ねぎのスライス、スプラウトのざく切り。
そして普通の玉ねぎをグラタンやスタミナ炒め用の薄切り、ハンバーグに使うみじん切りなど、用途に合わせ準備をした。
律がこれらの作業をしている間、巽は淡々とハンバーグの成形やホワイトソース、複数の惣菜を仕上げているようだった。
律が出勤した時の厨房の匂いで早い時間から仕込みをしていたのだろうと察していたが、1人で仕込みを並行作業している巽の顔は真剣そのもので、彼がこの店の主で料理人であることを再認識した。
11時ほどから客が入り始め、正午には10席程度のカウンターやテーブル席があっという間に満席になった。
一斉に注文が入り、事前に準備していたワンプレートがすぐに無くなる。律はサラダや惣菜を盛る作業に追われた。
「大丈夫、律くん。焦んなくていいし、一つ一つ着実にやってこ」
基本的に注文を受けた巽がメインの料理を捌いていくのだが、初めての律が焦らないよう盛り付けも手伝いフォローをしてくれた。
配膳やレジも巽が行う。飲料や軽食などのランチ以外の注文もそうだ。巽に大分配分が偏っている気がしたが、巽は忙しなく手を動かしながらも合間合間楽しそうに客と談笑していて、律は驚嘆した。律は表に出ることなく厨房から、休まず生き生きと働く巽に圧倒されていた。
巽の話通り、律はあくまで来客の多いランチタイムの調理補助という立ち位置のようだ。空き時間ができた時には、厨房や家電器具の清掃を頼まれた。
14時を過ぎると、波が引いたように客が全員捌け、チャイムは再び静寂を取り戻した。
「……洗い物と片付け終わりました。他になんかすることあるっすか」
「お疲れ様! もういいよ〜。いやぁ、飲み込みも早いし手際も良くて助かったよ。自炊とか良くするの?」
「……それなりに、スね。実家にいた時も両親が仕事遅くて、姉も面倒な事は俺に押しつけてたんでよく晩飯の準備してました」
「そっか、大変だったねー……若いのに偉いなぁ」
「若いって……巽さんも俺と同じぐらいじゃないすか」
「あはは。嬉しいけど、オレたぶん律くんと10ぐらい違うよ? 28だし」
「えっ」
「賄い、何かリクエストある? 初日祝いも兼ねて、今日は特別に何でも作るよ〜」
エプロンを外しながら驚いた律は、天真爛漫な笑みを凝視する。確かに聞いた話と物腰から年上だろうなとは思っていたが、せいぜい25ぐらいだと思っていた。現在19歳である律とは、巽の言う通り10近く年が離れている。
「あ。えっと、そうスね……」
思うことはたくさんあったが、巽はもう違う話をしている。無理に話題を戻すこともできず、律は賄いに思考をシフトした。朝も軽くおにぎりしか食べてこなかった律は、かなり空腹だった。極度の空腹から生み出した結果を、律は巽に伝える。
「……じゃあ、ロースカツで」
「了解! ちょっと待っててねー」
巽はオーケーサインで応えて笑うと、律の前からフライヤーの方向へと姿を消す。律は空いた作業台の前に巽が用意してくれた丸椅子に座って、賄いが運ばれて来るまでスマホを見ていた。