初(澄・小景)
中学一年生の秋。夏服は流石にしまって、薄手のセーターを出しはじめた頃だ。
小景の目の前にはホットケーキがあった。早く食べたかったが、澄の分がまだだったので大人しく待つ。
少し視線をずらせば、澄がキッチンでフライパンを振るっている。ここは小景の家なので、知らない人が見れば少々不思議に思うかもしれないが、二人にとってはいつものことだった。
口の中によだれが溜まっていくので飲み込んでいたら、澄がホットケーキの乗ったお皿を持ってくる。
「お待たせ〜」
メープルシロップがかけられるのを見届けて、二人手を合わせた。
澄の作るホットケーキはふわふわで、小景のお気に入りである。そんなホットケーキだけを眼中に入れて食べ進める小景の姿を、澄はフォークを加え眺めていた。
〈スタッフ〉である澄にとって、〈チャイル〉の小景を喜ばせることが出来た、というのは大変光栄なことだ。また作ってあげようと思うほどには喜ばしい。
小景のいつもより穏やかな顔を見て、そんなことを考えていたら、彼がこちらを見た。
「食わねえの」
「食べるよ〜」
澄はしばらく何も刺していなかったフォークをホットケーキに向ける。そのおり、考え事の延長で思いついたことを口に出した。
「こっちゃんっていつ小さくなるの?」
「あ?」
丁度次の一口を口に運んでいた小景は、口の形そのままで声を出す。何も応えることなく、口にはホットケーキが詰められた。
澄はそれを聞きの体制と受け取る。
「まだ子供化したことないでしょ。まさくんなんて中学入る前だったから、なんか遅いなあって」
「……個人差あるだろ」
「そうだけどさあ」
澄は小景が〈チャイル〉である実感が欲しかった。
〈チャイル〉は子供化以外に現れる症状がない。検査で〈チャイル〉と出たものの、実際に子供化するまでは、本当に〈チャイル〉なのか分からないのだ。
――自分だけ体質に動かされてるみたいで嫌なんだもん。
はっきり言って、同じくらい体質に悩まされて欲しかった。酷い願いである。
次の日、自分を責め立てるくらいには酷い願いだった。
「隣のクラスに〈チャイル〉いるの知ってた?」
「知らねえけど、誰?」
「浦都ってやつ。俺もさっき知ったんだけど……」
澄がトイレから戻ってくると、そんな話が教室のあちこちで飛び交っていた。
隣のクラス、が聞こえなくても浦都なんて苗字は学年に一人だけだ。小景に何かあったのだと、瞬時に察した。
詳しく知っていそうな男子の会話に耳を澄ませる。
「隣のクラスがなんか騒いでて、気になって見に行ったらちっさいのがいてさ。仲良いやつに誰? って聞いたんだよね」
何かその後も言っていた気がするが、澄は聞かずに隣のクラスへ向かった。
隣のクラスは確かにざわついていたが、肝心の小景の姿が見当たらない。澄は近くにいた女子へ声をかけた。
「ねえ! こっちゃ……、小景がどこ行ったか分かる?」
「浦都くんなら保健室連れてかれたよお」
お礼を言って、保健室へ急いだ。廊下は走るなと怒られそうだが、そんなこと気にしている場合じゃない。
保健室のドアを勢いのまま開けた。
「こっちゃん!!」
室内には小景のクラス担任と男子生徒、それから保健室の先生という三人がいて、その内のクラス担任は澄が慌ただしく入ってきたことに怒る。しかし、澄はその声を無視し、三人の先にあるベッドへ駆け寄った。
ベッドでは小さな小景が規則正しい寝息を立てている。
そのことに澄が胸を撫で下ろすと、男子生徒が事の顛末を教えてくれた。
「さっきの時間が体育だったんだけど、今日また暑くなったじゃん? そのせいか授業中も辛そうにしててさ。でも休めって言っても浦都のやつ休もうとしなくて、結果的に無理が祟ってこうなったんだと思う」
「そっか、……教えてくれてありがとう」
男子生徒はいえいえ、と手を振り教室へ戻って行く。
――こっちゃん、人に弱いところ見られるの嫌いだからなあ……。
今一度、小景に視線をやった。そして、澄は考えついてしまう。
――あれ、この状態も立派な弱みなのでは?
澄の予感は正しく、次の日から小景は登校拒否をするようになった。
「こっちゃーん、プリント渡しに来たんだけどー」
小景が学校に来なくなって、澄は隣のクラスに行ってはプリントを預かり、届ける生活をしていた。
でも、小景の姿を見れてはいない。澄がやってくると部屋にこもってしまうからだ。会話もしてない。
いい加減まずかった。
先生が頼んでくれているからどうにか動けているが、こうも小景本人に拒否され続けると身体が鈍くなってくる。いつ動かなくなるか分からない状態で、小景の部屋の前に長時間居座るのはリスクがあった。
プリントを扉の下から滑り込ませる。
「じゃあ、また明日」
部屋の前から一歩、横に足を滑らせようとして、力が抜ける。
澄が倒れた音は、部屋の中にいる小景にも届いた。小景は焦って廊下に出る。
扉の開く音を聞いた澄は、何とか体を回転させ、力無く小景を見上げた。
「久しぶり」
「……言ってる場合かよ」
久々に見た小景の顔が、皺のよった険しいものなのが悲しい所だ。しくじったなあ、なんて、澄は割と冷静だった。
一方で、小景は焦りをどうにか隠して階段へ向かう。彼が何をするのか分かった澄は、声をかけた。
「千歳さんなら買い物行った」
予想は的中していたようで、思う通りに行かなかった小景は舌打ちをする。次にうんうん唸って、事態を動かさねばと思案し始めた。
自分のために動いてくれている小景へ、澄は感謝と同時に虚しさを感じる。
「いいよ、ほっといて」
虚しさが勝って、気づけば言葉に出ていた。
良くない、と言いたげな小景の視線は無視され、決壊した面倒な感情のダムからは次々想いが流れ出す。
「自分の思い通りに動かない身体がどれだけ面倒かとか、苦痛とか、全部分かってたのになあ」
喉から掠れた笑い声が漏れた。
「馬鹿だよね、俺。自分が嫌な事を他人にやっちゃダメって、小学生でも分かるのに、こっちゃんにも苦しんでほしいとか願ってさ」
小景は口を挟まない。視線を床へ落としたため、どんな表情で聞いているかも分からない。
――でも、きっと呆れられてる。好感度ダダ下がりだよ、こんなの。
「自業自得。だから、ほっといていいよ」
悪いのは自分と思いつつ、口からは不貞腐れた声が出た。
小景は澄の顔横まで歩いて、座る。それから、頬に手を伸ばした。
伸ばされてきた手が小さくて、澄は思わず振り向いてしまう。
「何で小さくなってんの」
不満そうに歪められた顔から、その質問に対する回答を読み解きたかったが、あまりに複雑な歪み方だったので無理だった。
代わりに、小景自身の口から真意を伝えられる。
「俺のことなのに、勝手に背負ってんじゃねーよ。ばーか」
昔聞いていた高い声から、昔はしていなかった口調で話されて、澄の脳内は混乱した。
内容を理解したところで襲ってきたのは怒りである。
澄としては大変悩んで、後悔して、償いたかった案件なのだ。それを小景は「馬鹿」の一言で片付けやがった。
文句を言ってやろうと澄が息を吸う。しかし、先手を打たれてしまった。
「それでも、俺に何か詫びたいってなら……ホットケーキ食べさせろ」
お願いだ。〈チャイル〉からのお願いだ!
認識した瞬間、先程までの怠さが嘘のように、軽やかに身体が起き上がる。
突然動いた澄に驚いて、体を硬直させた小景。その身体に澄は腕を回す。
「うん! いくらでも‼︎」
澄は腕に込められるだけ力を込めて、小景を抱きしめた。腕の中から「それは頼んでねえ!」とか何とか聞こえるが、向こうも腕を回してきてるため、説得力のカケラもない。