夜風が窓から明日を連れて
令和七年二月十日(月)
これは僕が25歳の頃の思い出。僕には付き合っている彼女がいた。僕より6歳年下の彼女は、高校を卒業すると時々僕の家に泊まりに来るようになっていた。当時僕の性根は腐敗しきっていて「自分はまだ本気出してねーだけ」的理由で定職に就いておらず、働きながら酒がこっそり飲めるという理由で深夜まで居酒屋のアルバイトをしていた。彼女は彼女で「友達の家に泊まる」とか何とか両親に大嘘をついては成人の僕の家に宿泊に来るのだった。彼女には、いつも僕がバイトから帰るより先に僕の部屋に勝手にやって来て3~4時間一人ぼっちで僕を待つという時間があった。
その頃、僕と二人暮らしの母は、基本的に僕の異性とのつき合いに口出しする人ではなかったが、それまでいろんな成人女性が入れ替わり立ち替わりする僕の部屋に、なんだか小便臭い小娘が出入りするようになったのを察すると「あなた、いったいどういうつもり? あの男がどんな男か分かっているの? あの男はクズよ。別れなさい。あの男といると絶対不幸になる。あの男の母が言うんだから間違いない」と僕のいない時間にチョイチョイ彼女に説教をするようになった。僕がバイトから帰ると彼女は「今日もお母さんに説教された」としょげていた。でも僕は母を咎めたりはしなかった。だって僕自身がこんな男とは絶対別れたほうが良いと心から思っていたからだ。それでも彼女は僕と別れず、懲りずに誰もいない部屋で僕を待ち続けた。
そんなある晩。僕が深夜のバイトから帰ると、母がしーっと指先を口に当て、玄関の僕のところへ小走りでやって来た。「Qちゃん、静かに。静かにお母さんについて来て」何事かとついて行くと、母は僕の部屋の扉の前で立ち止まった。そして聞き耳を立てる仕草をして小声でこう言った。「ほら、よく聞いて。あの娘、歌ってるの」「ぴゃ~ぴゃ~ぴゃ~」耳をすますと彼女が扉の向こうで鼻歌を歌っている。「いつもああやって歌いながらあなたを待っているのよ」「ぴゃ~ぴゃ~ぴゃ~」テレビもねえ、ラジオもねえ、妙な本ばかり沢山置いてある僕の部屋は、さぞかし退屈なのであろう。「ね、ぴゃ~ぴゃ~聞こえるでしょう?」「はい。ぴゃ~ぴゃ~聞こえます」「あれは、何を歌っているの?」「おそらくジュディマリとか流行りの曲だと思います」「ぴゃ~ぴゃ~ぴゃ~」「ふふふ、変わった娘ですこと」母はそう言うと笑いを噛み殺して自室に戻った。夜風が窓から明日を連れて忍び込んだ。僕は部屋に入り、一人で僕を待っていた彼女に「鼻歌が扉の向こうに漏れていたよ。君は今、いったい何を歌っていたのかな?」と聞いた。数年後僕の妻になる彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめ「鼻歌なんか歌っとらん。暇だからぴゃ~ぴゃ~言ってただけ」と言った。ほんと変わった娘ですこと。




