感情が見える令嬢と盗賊の青年
幼き日のユリア=ランテールにとって、人間とはまったく理解できないものであった。
どうして丁寧に話しているのに怒っているんだろう? どうしてニコニコしているのに悲しんでいるんだろう?
それは「建前」であると知った。
そしてそれが成立するのは、人の感情はふつう他人からは見えないものであり、人は本音と建前を使い分けて、上手く他人と付き合っていくのだと理解していった。
ユリアには、人の感情が見えていた。
何を考えているのか一言一句わかるのではなく、ただ漠然と、他人のまとうものに規則性を見出していた。
それは澄んだ海の水のようであったり、色の濃いもやのようであったり、複雑に絡まり合ったぐちゃぐちゃであったりした。
こんこん、とドアを叩く音がしたので、ユリアは書き物をする手を止めて羽根つきのペンを置き、ドアを開く。
「お嬢様、本日は社交ダンスのお稽古の時間になりますが」
中年の侍女であり、腕に稽古用に用意したと思われる服を折って抱えていた。
声はいつもと変わらないが、彼女のまわりの空気は、ガラスについた油のようにブレていた。
「ごめんなさい、ヘンリエッタ。私、今日はもう少し、お手紙を書かなくちゃいけなくて」
「さようですか。その通り伝えても?」
「ええ。いつもありがとうね」
ユリアがそう言うと、ヘンリエッタはぺこりとお辞儀をする。
「それと……ヘンリエッタもたまにはゆっくり休んでね」
「……お嬢様はつくづく察しがよろしいですね。大丈夫ですから、あなたの心配には及びませんよ。失礼します」
疲れを察したユリアの言葉ににっこりと微笑むと、ヘンリエッタは長い廊下をまた歩き出した。
ユリアは机に戻る前に、窓から差した月の光が、床に斜線を作っているのを見てふと夜風に当たりたくなり、ガラス窓を少し開けて外を眺める。
遠方には村があり、昼間は子供たちが駆け回っているのをしばらく見たりする。
中位の貴族であるランテール家の長女に生まれたユリアは、同年代の子供と接する機会はあまりなかった。ユリアには活発な妹がいたから、幼少期はその話を聞いて過ごしていた。
村の子供たちを見ていると、自分もあの子達と同じぐらいの時に友達がいれば、と羨ましくなる。自分にしか見えないなにかの正体が感情だと気づいた今は、人の本音に触れるのが少しだけ怖かった。
ぱたん、と窓を閉めると、ふちの埃が舞って月明かりできらきらと輝く。
ユリアはしばらく手紙の続きを書いた後、ペンとインクを箱にしまい、ベッドに上がる。
中央まで膝をついて移動し、青い花模様の布団を被って目を閉じた。
◇
眠りについてすぐのことだった。
ぎぎっ、かん、と何かが擦れてぶつかる音がしてユリアは目を覚まし、上体を起こして腰を枕に付けるまで引きずって下がる。
ぼんやりとしかわからないが、どうやら男がしゃがんで小棚を物色しているらしい。
男はこちらに気づくと立ち上がり、月の光に照らされてその風貌が明らかになる。
紫がかった黒髪を後ろに結び、体格は細身で、しかし身長はかなり大きく感じられる。
「なにをしているの、あなた」
「見てわかんねぇか? 盗みだよ盗み。……動くなよ、黙ってそこに座っててくれれば命までは盗らねぇから」
落ち着いて、騒ぎ立てる様子のないユリアを男はじっと見つめる。
「ねぇ」
ユリアが口を開いた途端、男はズボンに備え付けられたナイフを素早く抜き取り、切っ先をユリアのほうに負ける。
「聞こえなかったか? 黙れ」
「あらそう? 急いでそうだから、一番高いものの場所を教えてあげようと思ったんだけど」
男はナイフを向けたまま、ユリアを睨みつける。
「随分と肝が座ってやがんな」
「だってあなた、殺す気なんてないじゃない」
ユリアの目からは、男にパチパチと弾ける火花のような苛立ちは見えたが、殺意ほどトゲのあるものが飛んでいるようには見えなかった。
男はベッドに距離を詰め、ユリアの首を左手で掴むと、逆手に握ったナイフを振り上げる。
てっきり悲鳴のひとつでもあげるものだと思っていたから、声どころか瞬きすらしないユリアに男は困惑した表情をする。
「……ほら、脅しでしょう」
首を掴む男の左手の上に、ユリアはそっと右手を重ねる。骨ばってごつごつする指に触れ、体温のぬくもりが伝わる。
男は舌打ちをして手を払いのけ、ナイフを握る力を緩めて腕をだらんと垂れ下げる。
「……命知らずもほどほどにしとけよ」
「あら心配してくれるの? 優しいのね」
そっぽを向いて吐き捨てるように言われた皮肉をくすくすと笑うユリアに対し、男はまた舌打ちをする。
「とっとと一番高いものってやつを出せ。なりふり構わず部屋荒らして身ぐるみまで剥がされたくなかったらな」
「いいわ。でも一つだけお願いを聞いてくれる?」
男は脅しがまったく通用しない上に、図々しく要求までしてくることに呆れてため息をつく。そんな男の返事を待たず、ユリアは少し柔らかい表情で口を開く。
「――あなたの、名前を教えてほしいな」
男は心底理解できないというふうに眉間をぐっと下げ、ただでさえつり上がった目つきをいっそうキツくする。
それから首筋をかりかりと触って、やがて観念したようにぼそっと言う。
「……ルーファ」
「そう。ルーファ。素敵な名前だわ。教えてくれて、ありがとう」
男は頬の肉をぴくりと動かして困惑し、やれやれと首を横に振る。
「それで? さっさと場所を教えてほしいんだけど」
「……今この部屋には無いの。だから、明日また同じ時間にここに来てほしい」
男は目を丸くして、それからくるりと九十度回転して窓のほうへ歩き出す。
ユリアは慌ててベッドから降り、よろめきながら男のズボンを引っ張る。
「ねぇお願いルーファ! また明日も来てよ!!」
「これ以上付き合ってられるか! んなもん誰が信じるんだこのクソイカれ女が!!」
窓に片足をかけ、もう片方の足はユリアに引っ張られる。男がいよいよ本気でユリアの頭を抑えて突き放し、両足を窓枠にかけると、ユリアは男の上着の裾を掴み、男は一瞬止まる。
「……お願い。明日もまた……来てほしいの」
男はそれを振り返ることなく最後まで聞いた後、ユリアの手を掴んで静かに下ろし、窓の上に跳んで消えてしまった。
◇
次の日の夜、断られたのにも関わらずユリアは椅子に座ってルーファが来るのを今か今かと待ち構えるぐらいには、へこたれていなかった。
肘をつき、頬に両手を当てて待っていると、約束の――一方的な約束の――時間になる。
そこから1分、2分、5分、座っているが彼はやってこない。
ユリアははぁーっ、と諦めたように息を吐きながら机に突っ伏してのびをする。
その時、窓の出っ張りにトン、とルーファが軽やかに降り立つのだった。
「ルーファ! 来てくれたのね」
ユリアは立ち上がり、ぱあっと明るい顔をしながら駆け寄る。
ルーファは窓枠に身をかがめて乗ったまま左手を上のふちにかけ、右手を広げて突き出し、金品を要求する。彼としては、とっととお目当てのものだけ受け取って帰りたいからである。
「……?」
が、ユリアはその行動の意図がわからず首を傾げると、少し間を置いて困惑したように彼の右手に自分の右手を置いてみるのだった。
「ちげぇよ!! 貴重品出せって意味に決まってんだろイカれてんのかテメェは……っ!」
怒りながら手を振り払う彼に、ユリアは納得しつつもちょっと恥ずかしそうに笑う。
「その前にちょっとだけ……あなたとお話したい」
「嫌だね」
「私ね……人の感情が読めるの」
拒否を気にせず話し始めるユリアにペースを乱されつつ、話には興味が湧いたのか、ルーファはユリアのほうを見やる。実際、昨日の彼女の物怖じしない態度には思うところもあるのだろう。
「昔からずっとそうで……本音の気持ちが見えちゃうから、お友達ともあまり上手くいかなくて。少しね、少しだけ、人間不信なの」
ルーファは、足を下ろして窓枠に腰掛ける。そして、どこか遠いところを見ながら喋るユリアのことを聞く体勢に入る。
「お母様とお父様、妹のマリア、それから使用人のヘンリエッタとは仲良しですごく……うん、すごく、信じられる」
ユリアは顔を下げ、声の調子を少し落として続ける。
「だけど社交界で、たくさんの殿方とお話してみて、やっぱり皆……怖い。……ランテール家は、あまり高い地位の貴族ではないから、見下したり、私が上手く踊らないと苛立っていたり」
「……誰だって本音と建前は分けてるもんだろ」
「もちろん、それはわかってるの。だから我慢して、今は何人かとお手紙を通して親しくなったりしたわ」
ルーファは改めて部屋の中をよく見回して、貴重品のありかを抜け目なく探すついでにユリアの話に反応する。
「本当は、私やランテール家のことをそんなふうに見ている方とは、結婚したくない。でも、ランテール家の繁栄のためには、私は高位の貴族の方に嫁がなきゃならない。……お母様もお父様もマリアもヘンリエッタも、すごく期待してるの」
ユリアはこぶしをぎゅっと握りながら、ただただ淡々と語る。
「でもそれを相談できる友達がいないから……」
顔を挙げ、真っ直ぐにルーファのほうを見つめる。
「……それで俺に話し相手になってくれってか? 正気かよあんた、こっちは盗賊、罪人だぞ」
「あなたがただの盗人で、当家となんの関わりもない都合の良い人だからってだけなら、こんなこと頼んだらしないわ。でもあなたは……すごく、優しい人だと思うから」
ルーファはそれを聞くと鼻で笑い、それから窓枠に寄りかかった頭を下に傾けて、ユリアを睨みつける。
「あんたが俺の何を知ってる? 感情が読めて、俺があんたを殺さなくて、それで俺の性格までわかった気になってんじゃねぇよ」
静かに、だけど確かに憤る彼の言葉に、ユリアは少し自慢げに鼻を鳴らす。
「わかるわよ」
「あ?」
「あんなに……あんなに罪悪感を抱えながら漁ってる人が、優しくないわけないじゃない」
ルーファはユリアを見つめてから、舌打ちをして目を逸らす。
昨晩彼が小棚を漁っている時、ユリアが見た感情の塊は、罪悪感がほとんどで、そこに少しの警戒心が混じっている程度だった。
「今だってそう。私の話聞いてる時はずっと悲しいとか可哀想とか思ってくれたり、私に話す時も、心配してくれてる」
ルーファは黙って壁を見続ける。
「盗みをしてるのも、きっとなにか事情があるんでしょう。……だから、私はあなたの話も聞いてみたいの。聞いてあげたい、なんていうのは、私のエゴだけど」
「……長話は終わったかよ」
「……うん。聞いてくれてありがとう」
痺れを切らしたのか、はたまた見透かされるのが嫌になったのか、ルーファはまた、手を出して金品を催促する。
今度は、ユリアが薄茶色の布袋を置き、ごろっといくつかの宝石類の重さを感じる。
ルーファがそれをポケットに入れると、ユリアは身をぐいっと近づけて目線を上に上げ、彼の宝石みたいに綺麗な黄色の瞳を見つめる。
「ルーファ。……また、来てくれると嬉しいな」
ルーファはめんどくさそうに外を向いて、
「どうだかな」
と、それだけ。それだけ言い残してまた去っていった。でもユリアは、無言でも否定でもない、両義的な言葉を選んでくれただけでもじゅうぶん嬉しかった。
◇
次に彼が部屋を訪ねてきたのは三日後のことであった。
ユリアがつい机でうとうとしている時に窓を叩く音がするものだから、慌てて鍵を開けてルーファを中に入れてやる。
「あんたにも鍵閉めるって発想があったんだな。とんでもなく不用心な奴だと思ってたぜ」
「心配してくれてたの? やっぱり優しいのね」
「……うるせぇ」
まだ横の壁に寄りかかりながら腕を組み、ルーファは乱暴に答える。
「聞いて! 今日はお昼のメニューが私の好きなシチューだったの」
「……そうかよ」
「あなたは好きな食べ物とかないの?」
目をキラキラさせて聞いてくる彼女に、ルーファはまた皮肉たっぷりに答える。
「ねぇよんなもん。お嬢様は毎日美味いメシ食えて幸せですね」
「そう……よね、ごめんなさい」
「……真に受けるなよ、クソ。やりづれぇな」
足をクロスし、左足に重心を置いてもたれかかり、ルーファは月を見る。闇夜に紛れるためだろう黒い服はずいぶん着込まれており、ズボンもところどころ破れている。
「ルーファは……いつから盗賊をしているの」
「覚えてねぇ。ゴミ漁って食い繋いでた時から数えるなら、最初からだよ」
ユリアはなんと言葉をかけていいかわからず、思わず黙り込む。
「哀れだと思うか? 俺は別に、今の暮らしでじゅうぶんだよ。メシも一日一回は食えるし、寝床もある」
「でも……本当は盗みなんかしたくないんでしょう」
ルーファは少しの間沈黙し、それから独り言のように話し始めた。
「……俺は、俺と同じような思いをするガキを見たくない。……ってもっともらしい理由つけて、貴族から盗みで稼いだ金を孤児院とか、その辺の死にそうなガキに握らせて回ってる。いかにも義賊って感じだろ? 笑えよ」
ユリアは絶句する。自分と年齢もそう変わらないのに、生まれが違うだけでこうも壮絶な人生を歩むのか、と。
「俺はあんたら貴族が嫌いだよ。私腹を肥やし、平民を見下して……だから、盗みなんかしたくねぇ、ってわけじゃないと思うぜ」
「ならどうして……罪悪感を感じてるの」
「さあな。こっちが聞きてぇよ」
自覚なしの善性。ルーファはそのようなものが自分の中にあることを指摘されて初めて気づいたから、少し気持ちが悪かった。
そして、ユリアは自分の悩みが些細なことのように感じられて、途端に恥ずかしくなってくる。そんな様子を感じ取ったのか、ルーファはぶっきらぼうに付け加える。
「けど、あんたの話聞いて貴族も貴族で楽な世界じゃねぇんだなって思った。……そんで、あんたの悩みがどうでもいいことだとも思わねぇな、別に」
ユリアが顔を上げると目が合い、ルーファはぷいっと目を背け、彼はそのまま立ち上がる。
「……今日は帰る」
「……うん、ありがとう」
「……いや、俺も……やっぱなんでもねぇわ。うぜぇからニヤニヤすんな」
彼を見送るため、ユリアは窓に近寄る。
「……また来てもいいか」
「もちろんよ。……私は、毎日でも会いたいな」
「……盗賊はそんなに暇じゃねぇよ、バカ令嬢が」
ルーファは気恥ずかしさを紛らわすように後頭部をぽりぽりと掻くと捨て台詞を残し、窓から出ていった。
彼が去っていった後の窓から、少し欠けた月を見ながら、
「『また来ていいか』だって。ふふ……なんか、嬉しいな」
と一人くすくすと、それでも本当に嬉しそうに、笑っているのだった。
◇
こうして貴族令嬢と盗賊の青年の奇妙な交流がスタートした。
夜の決まった時間、場所はユリアの自室。
「ルーファ聞いて! 今日ね、厳しい先生に珍しくダンスを褒められたの」
「……そうかよ」
「ルーファ! 今日お母様のご旧友の方がいらっしゃって、すごく歴史に詳しかったわ」
「……そうかよ」
「ルーファ、あのね、今日お父様が珍しい笛をお土産にくれたんだけど、すごく変な音がして面白かったの! ……あっでも、盗んじゃダメよ」
「んなモンとらねぇよ」
「ルーファルーファ、あなたにも見せたい物語本があるの」
「……なんてタイトル? 俺文字あんまり読めねぇ」
「じゃあ私が呼んで聞かせるわね」
「ルーファ聞いて! 今日ヘンリエッタがね、庭に転がってた洗濯物を猫と間違えて一生懸命話しかけてたの!」
「はっ、ボケが来たんじゃねぇの」
「そういうこと言わないの。ルーファだってこの前インクを虫だと思って一瞬びっくりしてたじゃない」
「ルーファ! 今日ついに村の新しいお家が完成していたの。……夜だからあんまり見えないかも」
「俺盗賊だから目はいいぜ。……見えた、アレだろ?左側の三角屋根の。……何?」
「ち、ちかい……」
「……?」
お互いの愚痴を聞いたり、くだらない話で笑ったり。一度の密会時間は短いけれど、何度も何度も同じ時を重ねる。
「……あんたは演劇が好きなのか」
「そうね、子供の頃よく連れていってもらっていたわ」
「……妹はあんたに似てるのか」
「顔はあんまり似てないかも? でも髪の色と身長はほとんど同じよ」
「この部屋の模様って……ユリアの趣味?」
「いえ、これはお母様の選ばれた布地よ。……。……。……。……! 今私の名前呼んでくれたの? 初めてでしょう、嬉しいわ」
「……二度と呼ばねぇよ、クソが」
「ヘンリエッタさんってユリアの親戚?」
「ううん、血の繋がりは無いわ。……でも、昔から、お母様と同じぐらい私に愛情を注いでくれているの」
「……そう」
「その手紙書いてる相手ってどんな奴?」
「リドリッヒ侯爵は……髭の長い、ダンディなおじさまよ。どうして?」
「……ユリアはそういうジジイがタイプなのか」
「ええ? うーんどうかな……そういうわけではないと思う」
「……ふーん」
最初は一週間に一回来るか来ないか、ぐらいだったのが、だんだん頻度が増えていき、半年後には二、三日にいっぺんは訪れるようになった。
夜の限られた時間の間だけで、できることや共有できることの範囲も狭かったが、二人の時間はお互いに他所では経験できないかけがえのないものとなっていった。
「……その髪飾り、よく見せて」
「え? いまさら? ……はい、どうぞ」
ユリアが花を模した青い髪飾りを手渡すと、ルーファはそれを受け取った途端腕をまっすぐ上に伸ばす。
「はい盗った。盗賊を簡単に信じちゃいけねぇよ」
ルーファが笑いながら髪飾りをぷらぷら揺らす。
いじわるだ、と理解しつつも、彼が自分の前でよく笑うようになったことが嬉しくて、ユリアも口元が緩む。
「ちょっと。それはお母様がくれた大切なものなのよ」
彼の手はベッドの天蓋ほど高くなっており、到底届かないものだから、ユリアは距離を詰めて手を伸ばそうとする。
ルーファはユリアが引っ付いてきても耐えられる体幹があると自負していたが、ベッドの脚につまづいてそのまま布団の上にどすん、どん、と音を立てて倒れ込む。
結果的に仰向けのルーファの上にユリアが乗っかり、押し倒したような体勢になる。
「……何してるのよ」
「ごめん、ふざけた」
二人はまるで子供のじゃれあいみたいな失態にくすくすと笑って、それからお互いの瞳を見つめる。
ユリアの白く長く、絹のようにサラサラとした髪がルーファの頬を撫でる。
ルーファは手を伸ばし、彼女の髪を片側、耳にかけてやる。
「……綺麗な髪」
「なに? ……よく、聞こえなかったわ」
ユリアはゆっくりと、本当にゆっくりと顔を近づけていく。ユリアはそれを重力のせいにした。あるいは、彼の引力のせいにした。
ルーファの指は、するすると彼女の綺麗な髪の隙間を縫っていき、手のひらが頭を優しく包む。そして―――
―――コンコンコン。ドアをやや激しく叩く音で、二人は静止する。それから急に夢から覚めたように恥ずかしくなり、ルーファは慌てて布団に潜り込む。
「ユリアお姉様、起きてますか?」
ドア越しに妹マリアの声が聞こえたので、ユリアはドアを開けて応対する。
「たまたまここの廊下を通ったら、物音がした気がしたのですが、大丈夫ですか」
「ごめん、ほら私すごく寝相悪いじゃない? それで一瞬落っこちちゃっただけだから。心配してくれてありがとうね」
「……そうでしたっけ? なんにせよ、お気をつけください。領地内は比較的安全なはずですが、夜盗が出ないとも限りませんから」
その愛しさに、ユリアが妹の頭を撫でる姉妹愛を見せるのを傍目に、その安全な領地のベッドの中にいる夜盗は気が気ではなかったのだが。
実際、領地の警備は万全であり、並のコソ泥が入れるセキュリティではないのだが、ルーファはなぜか侵入を成功させていた。
◇
それから一週間、彼は姿を現さなかった。
ユリアはそれほど気にしていなかった。妹との会話を聞いていた彼のことだから、怪しまれないように念には念を入れて一度時間を置こうとでも考えているのだろう。
さらに一週間経った。彼は姿を現さなかった。
ユリアは心配し始めた。彼がユリアのことを思って自分から身を引いたのなら、それはそれで素直じゃない彼らしいなとも思ったが、できれば一言別れの言葉がないと、彼の身になにかあったんじゃないかと心配してしまうからだった。
三日後、彼はフラッと部屋に入ってきた。服はいつにも増してボロボロになっていたし、体も汚れていたが、ユリアは一秒も躊躇せず彼を丸ごと抱きしめた。
「……どこに行っていたの」
「盗み先でしくじってクソほど追いかけられてた」
ヘラヘラ笑いながらなんでもないことのように話す彼にムカついて、ユリアは顔を埋めたままその胸板にぼふぼふと頭突きする。
「……いなくなる時は言って」
「無茶言うなよ、そいつは死んでる時だぜ」
ルーファは、機嫌を損ねたまま顔を上げない彼女を抱きしめ返す。彼の場合は、自分の薄汚れた格好で彼女を汚したくなくて、少し躊躇ったのだが。
二人の恋愛感情は誰の目にも――誰かに見られたらもちろんまずいのだが――明らかなものだったが、二人がそれを口にすることはなかった。
その気持ちに名前をつけてしまうなら。
決してそれは成就しない、結ばれてはいけない、悲恋であるとわかっていたからである。
そうしてルーファがいたりいなかったりする期間を繰り返しながら、部屋の中の時計は何度も回り続けていった。
そしてついに――その一室での出来事が神様には見えていなかったのか、それとも見えていたからなのだろうか――残酷にもその日はやってくるのだった。
◇
二人が出会って一年がそろそろ経とうか、というぐらいの肌寒い日。
珍しく、父と母が揃って居間で話をしたいというものだから、呑気なユリアは第三子が生まれるのかしら、などと考えていた。
「ユリア、先日の舞踏会のことは覚えているか」
「ええ。私は……あまり上手く踊れませんでしたけれど。どうしてですか?」
父と母は互いに顔を見やって、真剣な顔をして頷く。
「―――ノーゼンハイム家のご子息、レックス公爵がユリアを妻として迎え入れたい、と」
彼らの周りはしゅわしゅわと泡が膨れ、本当に喜んでいる様子が伝わってきた。
貴族の最上位、公爵家が長男レックス=ノーゼンハイムからの結婚申し入れ。
それは中位の貴族であるランテール家にとっては願ってもないありがたい縁談であり、そして、事実上の決定事項であった。
ユリアは表情が固くならないよう気をつけながら、聞き返す。
「それは……とてもありがたいお話ですね。でも私、その方と触れ合う機会は、なかったと思うのですが」
「私もあまりに唐突だから耳を疑ってしまったがね。レックス卿は踊るユリアに一目惚れをしてしまったと伝え聞いたよ」
ユリアは、両親のことが大切だった。悲しませたくなかった。だってきっと、ユリアが浮かない顔をしていたら、公爵家の縁談だって止めてしまうかもしれなかったから。彼らの愛に、報いなければ。
彼女は父の手を取って、笑顔で。
「この上ない幸せです。喜んで、お受けいたします」
彼らもまた、顔をくしゃっとして笑った。
その日、なにも知らない愚かなルーファは、気まぐれに道中の露店で一輪の花を買った。
浅学な彼はその花の種類など知らなかったが、青い花弁が彼女に似合うだろうとしか考えていなかった。
「……俺のガラじゃなさすぎるだろ、花とか」
夜道を歩く彼は、握りしめた花を見て、ぽつりと呟く。
冷静になって考えてみれば、庭師のつくる華麗な花園や、他の貴族から送られる見事な花束を見慣れた彼女に渡すには、名も知らぬ一本の花が急に貧相なものに見えてきた。
彼女は手放しに喜んでくれるだろうか。あるいは、あなたにも花を素敵と思う風流心があるのね、などと茶化してくるかもしれない。それでもよかった。
ただ、彼女の反応が見たいと思った。感想が聞きたいと思った。同じものを見て、同じ話をして、同じ時間を過ごしたかった。そこにいつも通りがあれば、それだけで幸せだった。
「―――私ね、結婚することになったの」
開口一番、彼女はそう言った。
ああ、それでやけに浮かない顔をしてるのか、とルーファは意外と冷静に分析した。
終わりが来るのはわかっていた。彼女は貴族で、自分は盗賊なのだから。いつか、彼女は他の家に嫁いで、別々の人生を歩むのだ、と。
「………………そうかよ」
そうか、それが今なのか。こんなにも、突然なのか。たった一言で、終わってしまうのか。
「お相手は公爵家の長男なんだって。私はね、まだ会ったことないんだけど……」
ユリアは、一刻も早く彼にこのことを伝えなくてはならないと思いながら、同時に彼に伝えるのが嫌で嫌で仕方がなかった。
「素敵な人だといいな」
「……ええ、そうね。きっと上手くいくわ。だからそんなに心配しなくても、私は大丈夫よ」
「……そうかよ」
ルーファがユリアに恋愛感情を抱いていることに、ユリアは気づいていた。それが、彼女が生まれ持った能力だからである。優しくて温かい、スープのような、でもどこか、触れるのは躊躇ってしまうトゲのような、不思議な感情だった。
だから、彼の中にある大きな感情が心配などではなく、恋心だと、ユリアは理解していた。
ルーファもまた、彼の気持ちが気づかれていることなどとっくに気がついていた。
それでも、二人がそれを確かめ合うことはしなかった。互いの肌に触れ、髪に触れ、心に触れても、それをあえて口にすることはなかった。
それを言葉にしたら、名前をつけてしまったら。終わってしまう関係だったから。醜い醜い、豚の恋愛を、二人は続けていたかった。
「結婚式の日時は決まってんのか」
「ちょうど二週間後。レックス卿の計らいで、場所はランテール家で執り行うそうよ。……ねえ」
多分、ユリアも同じことを考えているだろう。だから、ルーファはそれを遮って自分から言う。
「ユリア。……もう一度だけ、会いに来ていいか」
「……ええ、待っているわ」
少ない言葉で通じ合う喜びに浸る余裕もなく、彼はそう言い残して、部屋を出ていった。
彼が忘れていった青い花を、ユリアは大事そうに、花瓶に挿した。
◇
「お初にお目にかかります、レックス卿。ユリア=ランテールと申します」
今に入ると、自分の衣装で最も高級な青いドレスをまとったユリアは、裾をつまんで深々とお辞儀をする。
父と話し込んでいた男は立ち上がると、ユリアの姿を見て目をぱっくりと開いて笑う。
「ああユリア! やはり君は美しいな。舞踏会ではその蝶のように舞う美しい姿しか拝むことはできなかったが……声までもが綺麗だとは。私の目に狂いはなかった……まさに理想の淑女だよ」
男はアッシュブロンドの短い髪をかきあげ、高らかに声を上げる。身長はそこまで高くないが、肉体はしっかりと鍛えられており、紳士服がよく映える。表情の変化が大きいものの、顔つきは女性のような雰囲気を思わせる絶世の美人であった。
「噂には聞いていたが、レックス卿は非常に謙虚で聡明な御方だよ、ユリア」
「恐れ入ります、お義父様」
最上の爵位を持ち、それでもユリアの父に敬意を払って頭を軽く下げてみせる謙虚な姿勢は、健やかな好青年といった印象を与える。
偉そうな態度の、怖そうな殿方が来たらどうしようかと思っていたユリアも、その当たり障りのない姿にひとまず安心して、口元に手を当てて話す。
「……お父様がそう仰られるのでしたら、きっと素晴らしい方なのですね。身に余る光栄にございます」
実際、ユリアの能力を通して見ても、男は本気でユリアのことを好きでいるようであった。
男の周りにはどくどくと脈打つ水面のようなものがほとんどで、そこに少しの警戒と緊張が入るぐらいの、普通の人だった。ユリアはあまり恋をしてこなかったものだから、きっと見慣れないこの感情が恋なのだろうと解釈した。
それから二日は平凡に過ぎた。ユリアの父もレックスも式前契約などにいろいろと忙しいようで、せいぜい朝と昼に挨拶をするぐらいだった。
ユリアは彼ならあまり穿った目で見なくていいのかも、とほっとした。彼からはユリアを大切にしたいとという感情が伝わってくるから、多少のことに目をつむればこのまま表面的には円満な結婚生活を送っていけるだろうと、受け入れ始めていた。
◇
四日目のことだった。
ユリアとレックスは、二人で話しながら長い廊下を歩いていた。
「……それで、私が代わりに敵将を討ち取ったんだ」
彼が自分の武勲を語るのを、ユリアは相槌を打って聞いていた。尊大な部分は誰にでも、特に貴族であればなおさらあるものだから、あえて見ないようにしていた。
「ときに、ユリア。そのドレスは君が?」
「いえ、これはお母様からお譲りいただいた品物です」
レックスは指を顎に当て、ユリアの全体像を確認する。ユリアの返答を聞くと納得したように頭を縦に振る。
「なるほど、そういうことか。君には黄色や金色の高貴な色が似合うと思ってさ」
レックスは、にこにこしながら目を細める。
「ありがとう存じます。……でも、私も青が好きなんです。小さい頃から、お母様が着ていらっしゃったので。思い出深い色なんです」
「ああ! なるほど、ごめんね」
照れ臭そうに話すユリアは、笑いながらも謝るレックスの反応に慌てて手を振る。
「そんな、謝らないでください。責めたつもりは決して……」
「違う違う、伝わりづらくてごめんねって」
「……?」
尚も笑いながら話すレックスの意図がわからず、ユリアは困惑する。
「―――明日から黄色を着てこいと言ったつもりだったのだが、伝わらなかったかな?」
――レックスはユリアの小さな顎を三番の指でしっかりと掴み、顔を鼻のふれるぐらい近づけて、そう言い放った。
「え」
何をされているのかわからず、間近に見るレックスの小さくなった瞳孔に一瞬恐怖で動けなくなる。
「青が好きとかお母様がどうとかさぁ、ババ臭くて嫌なんだよね。やっぱり君みたいな美しい女性が着るのは、高貴な黄色でなきゃ」
ペラペラと得意げに話すレックスの手を振り払い、ユリアは一歩後ずさる。
「……いきなり何をするの」
「あれ、思ったより威勢がいいんだなぁ。ダメだろう、女の子はおしとやかじゃないとさ」
そう言うと今度は、ユリアを追い詰め、頭の真横の壁に左手を勢いよく突き当てる。ユリアの長い髪が、何本か巻き込まれて壁にはりつけになる。
「こんなことして、お父様に」
「言いつけてみる? やってごらんよ」
黙ってきっ、と睨みつけるユリアに対し、レックスは余裕そうにニヤリと笑う。
「受け入れなよ。君はもう私のものだ」
「あなたのものになんて……」
「ノーゼンハイムに逆らうのかい? こんな中流貴族、潰すことなんて訳ないけど。お義父様、お義母様、悲しむんじゃないかなぁ」
レックスの周りに見えるものの正体に、ユリアはようやく思い当たる。
気づくのが、遅すぎた。
どくどくと脈打つそれは恋心などという可愛らしいものではなく、どんな手を使ってでも対象を手に入れるという独占欲。それが彼のすべてであり、巨大すぎるが故に、どうりで他の感情が見えにくいわけだ。
コツコツと近づいてくる二つの足音に気がついて、レックスはユリアを引っ張って隣に立たせる。
それから姿を現したユリアの母とその側用人に、レックスはかしこまってお辞儀をする。
「お義母様、本日も素敵なお召し物でいらっしゃいますね。綺麗な青が本当によくお似合いで」
「あなたは本当に口がお上手ですのね」
先ほど侮辱した母を、馬鹿にした色を話題にして平然な顔でやり取りをするレックスに、ユリアは口の中で舌の側部をぎゅっと噛んでこらえる。
「レックス卿、ユリアは不敬を働いたりしておりませんか? 優しい子ですが、少々抜けているところがありますから」
「いえ、まったくそんなことは。今もつい話が弾んでしまいました。ねぇ、ユリア」
レックスはその濁った茶色い瞳でユリアのほうを見て微笑みかける。
「……ええ。彼はとても、話がお上手ですから」
ぎこちなくならないよう、ユリアもまたにこりと微笑み返す。
「それでは、私はこの後用事がありますので、失礼します」
そう言ってレックスが立ち去ると、ユリアの母は改めてユリアに話す。
「噂に違わず、素敵な人ね。公爵家の方なのに驕らず、謙虚で……。あんな方がユリアの婚約相手になるなんて、思ってもみなかったわ。私、本当に嬉しいの」
その周りはぽやぽやとした空気が流れており、ユリアの幸せを心から願ってきた母親の愛情がうかがえる。
「……はい、お母様」
だから、ユリアは込み上げるもの、言葉をグッと抑えて、ただ笑うことしかできなかった。優しくて大好きな母に、余計な心配をかけたくなかった。
それからは地獄だった。
半ば二重人格のような彼の行動に振り回されては、精神も肉体も疲弊していった。
一番辛いのは、誰にも相談できないことだった。父にも、母にも、妹にも、ヘンリエッタにも、―――こんな時にいない、ルーファにも。
レックスの言葉が嫌いだった。彼女の人格や価値観を否定し、彼女の大切な人達を侮辱する言葉が嫌いだった。
レックスの感情が嫌いだった。人前でひた隠しにされたそれはいびつな形で、それを感じ取るユリアを蝕んでいった。
レックスの目が嫌いだった。ぎょろぎょろとおぞましく見えるそれは、彼女を商品のように、着せ替え人形のようにしか見ていなかった。
レックスに顔を掴まれるのが嫌だった。自分という絶対的な存在の支配を顕示するかのように、何度も何度も彼女の顔を鷲掴みにした。
レックスが髪に触れるのが嫌だった。ベタベタと下品に、マーキングのように何度も雑に触られるたびに、髪中に虫が這うような感覚がした。
レックスのすべてが、嫌いだった。
次第に、ユリアは体調を崩していった。あるいは、彼の支配から逃れるように、生理的に体が防衛反応を起こして彼女を自室にかくまった。心配をかけたくないから、うまくやれてると伝えたいから、見舞いに来るヘンリエッタ達の前では明るく振る舞った。
自室に長くいると、ルーファのことを思い出して仕方なかった。一年間、何度も訪れた彼の存在が、ユリアの部屋に残って離れないように感じられた。
彼に会って、悩んでること全部話したかった。それが無理なら、せめて一言背中を押してほしかった。抱きしめてほしかった。
それでも、彼は来なかった。
「どうして……どうして来てくれないの? ……あい、会いたいよ、ルーファ」
泣くのを拭いたら目が赤く腫れてしまうから、とユリアは月を見ながら、流れる涙を流れるままにした。頬を、輪郭を、喉を伝う水が、彼女の服の襟元をしわくちゃになるまで濡らした。
ルーファの喋り方が好きだった。乱暴な言い方なのに、どこか優しくて、彼女が貴族であることとかお構いなしで、その距離感が新鮮だった。
ルーファの感情が好きだった。素直じゃなかったけど、中はとても純粋な結晶のように透き通っていて、彼女の話を聞いては自分のことのように感情を揺れ動かした。
ルーファの目が好きだった。切れ長なまぶたの裏に隠されたそれは、宝石ぐらいきらきらしていて心奪われそうになる。
ルーファと肌が触れ合うのが好きだった。暑い日も寒い日も、子どもみたいに暖かい彼の手に、首に、一秒でも長く触れていたかった。くっつきすぎて暑がられるのも、優しく押しのけてくれるのが愛おしかった。
ルーファが髪にふれてくるのが好きだった。何度も何度も丁寧に髪に指を通すから、なんとなく彼が来る前に髪を梳かしていた。平気な顔してるくせに、触る度に心臓の音が聞こえるのがいじらしかった。
ルーファのすべてが、こんなにも大好きになっていた。
◇
それからルーファが来ないまま、挙式の前日になった。
ユリアの体調は回復し、三日前にはこれまでの生活に戻った。レックスと顔を合わせるのが怖いから、なるべく鉢合わせないように過ごしたが、露骨すぎてもいけないので、彼と会話を交える際には黄色いドレスを着て、なるべく逆らわないようにした。
体は回復したものの、心のほうは憔悴しきっていた。
それは一時的な現実逃避でしかなく、これから待っているのは彼の言いなりになり、彼の理想の妻を演じ続ける地獄であることを理解しながら、結婚式までの一日一日を過ごさなければならなかったからだ。その先に地面がはっきり見える崖を、一歩ずつ着実に進み、最後は自分の意思で飛び降りろと命令されている気分だった。
寝室だけが、安息の地だった。母と自分が好きな青色に囲まれて、レックスも入ってこなかった。父に、婚前に部屋に入られるのは恥ずかしいからと無理を言ってお願いしたからであった。
それも、式が終われば数日で片付けられて、無くなる。
いろんな要素を抜きにしても、生まれてから今に至るまで、交友関係が浅く、こもりがちだった彼女が多くを過ごした場所である。もうここにはいられなくなるんだ、と思うと急に寂しくなった。
そして―――例の時間になった。
すとんと、身軽な影が映る。
やっと、やっとだ。
ルーファが降り立った。
「……久しぶり」
「ええ。……前にもこのぐらい空くことはあったけど、そうね、すごく長く感じたわ」
ああ、こんなものか。
意外と、冷静だ。てっきり、自分は泣き叫んで彼にすがったりするものかと思っていた。
会えたことは、嬉しい。ずっと待っていたのも、本当だ。
「……明日だな」
「……そうね」
でも、もう遅かった。
今さら彼一人になにかできることはないし、させるわけにもいかなかった。これはランテール家とノーゼンハイム家、家と家の間の問題だからだ。
ユリアは深く、深く絶望していたから、彼にすがっても遅いとわかっていたのだった。
「どんな人だった」
彼はやっぱり優しい。ユリアのことが心配で心配でたまらないといった顔だった。この二週間も、ずっと会いたくて、会って安心したい、させたいのは彼も同じだっただろう。
そんな優しい彼だから、本当のことを言えばきっと、意地でもどうにかしようと頑張ってくれてしまうのだろう。そんな優しいところが、好きだ。好きだ。大好きだ。―――だから。
「……とっても優しい人よ。裏表のない、素敵な人。きっと彼となら、私誰よりも幸せになれる」
ユリアは精一杯、ここ二週間でいちばんの笑顔で、彼に嘘をついた。彼女もまた、想う人のために嘘をつける、優しい人間だった。
ルーファは一瞬だけ、複雑そうな顔をした。それから、ふっと息を吐いて笑った。
「……そりゃあよかった。でも婿はこんな天然箱入り娘の相手させられて、これから大変だろうな」
「ちょっと。失礼ね」
悪態をつき、笑い合う二人。
対等に、こんなに軽口を叩き合える関係が何より大切で、永遠みたいだった。それも、これで終わりなのだ。
「じゃあ俺行くわ。邪魔して悪かったな。……お幸せにな」
「うん。あなたも……無茶しないで。長生きして」
互いに今後の人生の祝福を祈ると、彼はくるりと背を向ける。窓のほうへ、歩き出す。
呆気なかったな。
……そっか。終わりなんだ。
彼の足が空中で止まったように錯覚する。接地までの時間が無限に感じられる。
彼の足が地面につく。
帰るんだな。帰っちゃうんだ。
もうちょっとだけ話したかったな。
……もう、会えないんだ。
彼の足がまた、地面から離れる。
嬉しかったな。楽しかったな。長いようで、短かったな。彼と会えてよかったな。彼を好きになれてよかったな。……伝えられなかったな。
彼は……気持ちがバレてるってわかってても、隣にいてくれたのに―――
「……ユリア」
気づけば、彼の大きい背中に抱きついていた。
自分でも、歯止めの効かない衝動だった。彼にふれれば、彼がふれれば、それはもう、あふれて止まらなくなるとわかっていたのに。
「……離れたく、ないよぉ……」
彼の上着に顔をうずめる。埃っぽくて、少し獣臭い。大好きな彼の匂いだった。自分の涙で、鼻水で、彼の服がべちゃべちゃになることなんか気にする余裕はなかった。なってしまえ、とすら思った。
「私……っ私ね、あなたと……あなたと会えて、よかった。本当に……本当の本当の本当に……この時間が大切でたまらなかった」
「……俺もだよ。当たり前だろ。ユリアと会えて……俺は、本当に運が良かった。一生モンだよ」
ユリアは強く、今まで我慢していたありったけの感情を放出するように、嗚咽を漏らしながら、強く抱き締める。
「私……私はあなたのこと、ずっと……っ」
彼は手を振り解き、人差し指をユリアの唇に添える。ああ、彼は、続きも言わせてくれないのか。
「それは……お相手にとっとけよ。お世辞でも、俺なんかに、使っちゃダメだ」
「……そうね。好きでもない相手に、言う言葉じゃないものね」
嘘。
「ああ、俺も……あんたみたいな女、願い下げだぜ」
ルーファは、重ねるように嘘をつく。
二人に、本当の言葉は必要なかった。ユリアにはルーファの膨れ上がった優しい恋心が見えていたし、ルーファはそれが見られていることを理解していたから。
あるいは、言葉にしたくなかった。だって、既に顔を濡らす涙に、正解の意味を与えたくなかったから。残酷な答え合わせを、したくなかったから。
―――ドンドンドンドン。ドアを乱暴に叩く音がして、ルーファは慌てて窓から飛び出し、ユリアは涙をごしごしと拭って返事をする。
運命は、二人に別れを惜しむ時間も、余韻に浸る時間も与えなかった。
「やぁユリア。夜の君は一段と美しいね」
「……自室には入らないでくださいと、お願いし――」
「返事は『はい』だけでいいと、教えたはずだが」
半ば強引に入ってきたレックスは、反論するユリアの口をいつものように掴んで軽く持ち上げる。
「……はぃ……」
「よくできました。……目の周りが赤くなっているね。……ああ、私のことを思って寂しくて泣いていたのか。今日までよく我慢したね」
レックスは支離滅裂な発言をしながら、ユリアを抱き寄せる。さきほどまでルーファを抱きしめていた感触が、目の前の物体に上書きされるのが気持ち悪かった。
「ところでこの部屋はずいぶん古臭い模様だね。君の花のような香りからは考えられない異質な匂いも混ざっている」
「……」
「……ああ思い出した、青色はあのお気楽なババアの趣味だったか。こんな部屋で過ごすことを強要されてきたんだね、可哀想に」
レックスは部屋を物珍しそうに見渡し、見当違いな哀れみの言葉を投げかける。ユリアは無言で、ただこの時が終わるのを待っていた。
「ん? ……まったく、飾る花まで―――」
しかし、レックスが机上の花瓶に手を伸ばした時、ユリアは反射的にそれを取り、身を横に少し向けて大事そうに抱える。
「これはその……大切な人がくれた、花なんです、だから」
「……はは、そんな枯れかけのみすぼらしい花が、私の意思よりも大切と?」
途端にレックスはみるみる激昂し、彼のまわりが猟奇的な鋭いもので埋め尽くされる。
彼は丸まったダンゴムシを無理やり開く幼児のようにユリアの肩を引っ張ると、花瓶を剥ぎ取って振り上げる。
「やめ―――」
―――パァン! からん。からん。
大小いくつかのガラス片が飛び散り、中の水が木の床に焦茶色のシミを広げる。
「……大丈夫だよ、ユリア。君が誰のことを想っていようとも、私は君のことを誰よりも愛している。明日からの幸せな日々で、そんな薄汚い花を送る下劣極まりない人間のことなんてすぐに忘れさせてあげるからね」
頭を守るように抑え、その場にうずくまるユリアの耳元で、レックスはそう囁く。
「……明日はちゃんと黄色のドレスで会おうね。結婚式を楽しみにしているよ」
去り際、それだけ言い残すと、さっさと出ていってしまった。
一人取り残されたユリアは地面に散乱したガラス片を避け、しおらしく横たわる青い花の茎を両手で握り、胸に当てる。それからぼろぼろ、ぼろぼろと涙を流して、床に何個もシミを作る。
「……助けて……助けてよ……」
ところどころ色の抜けた青い花を、彼の身代わりのように握る。
「……ルーファ……」
最後までお得意の憎まれ口を叩いて消えていった、もう二度とは会うことのない彼の名前を呼びながら。
◇
挙式が行われる夜、準備室でユリアは母や妹、ヘンリエッタたち使用人とかわるがわる談笑していた。
内容は新婚生活のこととか、領地のこととか、どれも当たり障りのないものだった。
鏡を見て、髪を直したり、うまく笑えているかチェックしている時、なにかが足りないような違和感を感じた。
そこに映る自分に、いつもなら見える感情の具現が見えていなかった。周りの人たちは幸せそうな空気をまとっているのだから、能力の不良ではない。感情が、欠落していた。
がちゃりとドアが開くと、レックスがまるで一国の王子のような白と金の派手な服でつかつかと歩いてきた。ユリアをちらりと見ると、一瞬だけぎょっとしたように目を見開き、それからいつもの造花笑いに戻って話し始める。
「昨日ぶりだね、ユリア。とても素敵な――青いドレスだ」
彼の心に、苛立ちのもやがかかり、曇った目でユリアを見下す。もっとも、それにユリア以外は気づかないのだが。そんな彼の入室を心待ちにしていたかのように、母は話しかける。
「実は、私の結婚式の時に着たものを元に作り直していただいたものなんです。うちのメイドのヘンリエッタが助言してくれましたの」
「滅相もございません。出過ぎた真似をいたしました」
口元に手を当てて満足そうに笑う母と、その母に褒められて差し出がましさに深々と頭を下げるヘンリエッタ。
明暗二色の青と、白を基調とするきらびやかなドレスにはところどころ大粒の宝石が埋め込まれ、見た目より重さがある。
提案を受けた時、ユリアは最初断ろうとした。指示に従わなかったら、横暴な婚約者に何をされるかわからなかったからだ。
ただ、ヘンリエッタが熱心に勧めてくれたことと、レックスへの最後の、せめてもの抵抗の意味。そして何より、不本意で望まない相手との最悪な気分の結婚式ではあるが、ユリアにとって最初で最後の晴れ姿を、かつて母が着たドレスで、大切な人たちに見せてやりたかった。
レックスはにっこりとして、会話を続けた。ユリアは時々返事をしたが、会話の内容はほとんど覚えていなかった。
「しばらく二人にしていただいても大丈夫でしょうか?」
「あらごめんなさい、長居しすぎでしたわね。あとは二人で楽しんでくださいな」
最後はそんな会話をしていたと思う。
母は、ヘンリエッタとともに部屋を出ていき、ドアがぱたんと閉まる。
ドアが、ぱたんと閉まる。
「ったく……年寄りは本当に話が長いなぁ。君も延々と付き合わされて苦労したろう」
「……はい」
レックスはユリアを抱き寄せると、その髪を何度も撫でる。ベタベタと、ベタベタと。
ひとしきり触ると飽きたように椅子に座る。
「それにしても……ほまれ高い貴族に、召使いごときが意見するなんてこの家はどうかしているよ。君以外は全員下衆な愚民だ」
「……はい」
足を揺すり、化粧台を指で小刻みに叩く。能力越しでなくても、不機嫌を撒き散らしていることは容易にわかった。
「私の好みなど気にもせず、君にこんな古ぼけた悪趣味なドレスを着させるなんて、まったく自己中な連中だ。まるで自分のことしか考えていないね。……そんなに不安な顔をしなくても大丈夫、私の家に迎えてからは、あんな奴らとは顔を合わせることもないし、こんな低俗なものを着なくて済むよう、最大限配慮しようとも」
「……はい」
それからしばらく、そのような滅茶苦茶な自論を展開するレックスと、機械のように肯定の言葉を繰り返すユリアのやり取りは続いた。相変わらず、会話の内容は記憶に残っていないが、彼の脈打つ支配欲が、あふれんばかりに満たされているのだけはずっと伝わってくるのだった。
◇
挙式は滞りなく進み、あとはユリアの入場を待つのみとなった。
大きな扉の向こうからはおびただしい数の拍手が聞こえてきて、それだけ大勢の人が待ち構えていることに少しけおされる。
「……お父様」
隣に立つ父は、背筋が伸び、真剣な顔をしていた。
厳格で臣下を率いる姿はかっこよくて、私とマリアには結構甘くて、大好きだった。なんだかいつもより、肩も、背中も、ずっと大きく見える。
そんなことを思いながら、ユリアは父のほうを向く。
「私は、お父様の娘に生まれて、本当に良かったと思います。私……私は、今、とても幸せです」
声が震える。それは大きな舞台で緊張しているからでも、幸せを噛み締めているからでもなく、ただただ悔しくて、悲しくて、涙が出そうだからだったのだが。
「ユリア。……結婚、おめでとう。ずっと、愛しているよ」
それでも、父に返しきれない感謝をしていること、それをこんな形だけど伝えたいという気持ちは本当だった。だからいっそう、悔しかった。
二人は腕を組む。
仰々しい音を立てながら、扉がゆっくりと開いていく。
拍手の音で、耳が痛い。詰め込まれた人の数に、めまいがする。
夜ということもあり、式場内は過剰なほどのあかりが灯されていた。さらに金や銀の派手な装飾がそこら中に施されていたものだから、ますます目がチカチカした。
父の腕にしっかりと捕まりながら、ふらつかないように、バージンロードを一歩ずつ歩く。
昔から人混みは苦手だった。能力は無意識下でも効果を発揮するため、たくさんの人の感情が一気に流れ込んできて、頭が痛くなるものだった。
式場内で拍手を送るランテール家の見知った顔ぶれと、ノーゼンハイム家の知らない人たち。誰も彼も、皆が心から嬉しそうで、感情は一体化し、幸せ一色だった。その幸せが、今はすごく気持ち悪かった。皆が喜ぶ中、喜ばれる側のユリアだけが、鬱屈な気分だったのだから。
途中で、ユリアはレックスに受け渡され、腕を組み直す。
二人きりの時の強引な引っ張り方はなく、レックスは驚くほど優しく穏やかな寄り添い方をする。彼は、本当に擬態が上手かった。
ユリアは、絶望に打ちひしがれていた。絶望の底にいた。絶望だけが、居場所だった。
あるだけうるさかった拍手が鎮まり、場は静寂に包まれる。どうでもいい。
牧師が長々と何かを読み上げている。どうでもいい。
「〜〜をし、永遠に愛しあうことを、神に誓いますか?」
何か言い終わったようだ。どうでもいい。
「「誓います」」
二人は同時に、言葉を重ねる。どうでもいい。
レックスが私の手を取り、金ピカの指輪をするするとはめる。どうでもいい。
ベールを丁寧にまくり、顔を合わせて向かい合う。満足そうに口角をあげている美丈夫が映る。どうでもいい。
ああ、そうか。
本当にこの端麗な顔の裏に隠された怪物に、捕まってしまうのか。
自覚した頃には、何もかも手遅れだった。
レックスの顔が近づく。二人の唇が、近づく。
怖い、怖い、怖い。来ないでほしい。嫌だ、逃げたい、やめたい、なかったことにしてほしい。夢なら、こんな悪い夢は早く覚めてほしい。そして、夢から覚めたら、またあの寝室に戻って、大好きな人がいて、なんだ、全部大丈夫だったんだって―――
―――ガシャーン! ――ゴン。
大きなステンドグラスが砕けるけたたましい音。それから何かが落ちる音。遅れて、ガラスの破片がぱらぱらと舞い散る。
二人のキスは中断され、その場にいる全員が何が起こったかわからず、思考も行動も停止する。
割った窓から、黒服に身を包み、仮面舞踏会で使うようなマスクをつけた大柄な男が飛び込んできて、式場の支柱のへりのひとつに飛び乗る。
着地と同時にマスクの鼻先を押さえる。
ああ、嘘でしょう? どうして?
本当に?
でも、もしかしたら。
「―――この家で一番高いものを奪いに来た!!」
その声は、姿は、言葉は、紛れもなくルーファその人だった。
―――シュウゥゥゥゥ……。直後、男が投げ入れたそれと、加えて場内の四隅から真っ白な煙が噴き出す。会場内はパニックになり、悲鳴と怒声が飛び交う。
突然のことに、レックスもまた混乱していたが、本能的にユリアを背中で守るように、腕を後方に寄せる。
「大丈夫だユリア、君は私が絶対に――」
「その手をどけろよ、クソ野郎」
レックスは声のほうを振り返る。
煙が邪魔だが、さっきの男が近づいてくる。
こいつだ、こいつが、この屑が、私と愛しいユリアの大事な式典をぶち壊しやがったのだ。
「貴様が私たちの……私たちの大切な結婚式をォッ!!!」
レックスは無我夢中で突進し、左手に力を込めて殴ろうとする。しかしその拳は空を打ち、せいぜい煙を少し払うぐらいに終わる。
「おい」
大きくからぶって姿勢を崩したレックスは、後ろからする声に、怒り狂ったまま振り返る。男はいつのまにか講壇の上に立っていた。そして―――
「ぶっ―――がァッ!?」
半身を捻り宙を舞い、煙を掻き回すような男の回転蹴りが、レックスの頬を砕き、鼻をひしゃぐ。レックスはその勢いをまったく殺すことができずに、真横に吹っ飛んで転がり、机のひとつに背中から突っ込んでいった。
「きゃっ!?」
「離さねぇから……――離すんじゃねぇぞ!」
男はそう言いながら花婿を前方に、力強く抱える。
そして、煙で視界の悪いバージンロードを全力で駆け出し、なにかを叫びながら人混みを避けて大扉まで突っ切っていった。
人々の動揺が落ち着かないまま、煙はだんだんと薄れていく。
軽く意識を失っていたレックスは、ひっくり返ったまま目を見開く。顔を蹴り飛ばされて鼻と口の中から血が吹き出し、その美しかった顔をぐずぐずに赤く染める。さらに、ガラス片の散乱する床を転がったおかげで、純白の正装に刺さった破片を中心にして、赤い染みが体中にいくつもじわじわと広がる。
「クソが……クソがクソがクソがぁッ!!」
レックスはそれでも、痛みに打ち震える体を怒りで起き上がらせる。彼を突き動かすのは、己が所有するユリアへの妄執だった。
「絶対に許さない……ッ!! 私の持ち物に手を出したことを後悔させてやるからなぁッ!!!」
そこに、謙虚で紳士的な、誰もが羨む美青年レックス=ノーゼンハイムの姿はなかった。お気に入りのおもちゃを取られて泣き喚く赤子のような醜い男が、体中から血を吹き出しながら暴れ走っていくだけだった。
何人かの男衆とともにレックスが外に出ると、夜盗に侵入された無能で愚かな見回りの守護兵たちと合流する。
引き留める臣下をよそに、レックスは家の一番高い支柱を一心によじ登り、遠方をきょろきょろと見回す。その様はまるで絵に描いた猿のようで滑稽だが、彼はもはや体裁など気にしている場合ではなかった。
そうして、彼はお目当てのものをついに見つけて、高笑いをする。
「く……ハハハハっ! 爪が甘かったな下衆の盗人が……。さっさと追え無能どもが!! 向こうにマヌケな馬車が走っているのが見えるだろう!!」
レックスは屋根に立ち、腕をぶんぶん振り回して白いほろの馬車を追うように指示する。
馬鹿め、こんな夜ふけに白い馬車で逃げ出すなんて、自分から見つけてくださいと言っているようなものだ。
ガラス片が刺さったままの傷口が開いてじゅくじゅくと痛むが、そんなことはもうどうでもいい。兵士たちは一目散に馬車を出す準備をする。
「ノーゼンハイムを敵に回すとどうなるか思い知らせてやる……ッ! 地獄の果てまで追い回して、死すら生ぬるい拷問にかけて、一生をかけて償わ―――ぇ?」
鼻、口、顔、手、体からの出血多量と、あるいは敵の姿を見つけて少し落ち着いたところでアドレナリンが切れたのだろうか、意識が朦朧とする。まずい、と思って踏みとどまろうとするが、カクン、と足の力すら抜ける。
姿勢を崩したレックスは、屋根の上から真っ逆さまに転げ落ちる。
え? なんだこれは。
どうなってる? なんで私は宙に浮いているんだ?
昨日までユリアと仲むつまじく、幸せに暮らしていて、明日からもそうで……なんだ? なんだっけ?
ああ、そうだ。あの男だ。あの男が急に現れたんだ。それでユリアを、私の大切なユリアを!
許せない、なんて自分勝手な奴なんだ! 絶対に捕まえてやるから、取り返してみせるから、待っていてねユリア。
……地面? なぜ? なんだ? 私は今どうなっている?
迫っているのか? 地面が? どうして?
お、落ちているのか? 私が?
やめろ。
やめろやめろやめろやめろやめろやめろッ!!
私はユリアを悪党から救っていないんだ。彼女は私なしでは生きられない可愛い可愛いお人形なのだから、私が助けなければダメなんだ。
ユリア。必ず助けるからね、ユリア。
ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユリア、ユ―――
直後、約三階から落下した肉塊に、悲鳴が駆け寄っていく。
◇
一方、ユリアを抱えたルーファは、暗闇の中を、自慢の暗視だけを頼りに一心不乱に全力で駆けていた。
「どうして? ……全然追ってこない」
抱えられたユリアは、窓から顔を出すようにして後ろを振り返る。ルーファは息を切らしながら笑って答える。
「はっ、はっ……あのマヌケな奴らなら……偶然俺たちと反対方向に走り出した馬車のケツでも追っかけてんだろうぜ」
「それは、あなたが? どうして……あなたは、いったいどこまで……」
「舌噛むから黙ってろよ。……はっ……はっ……もう少ししたら……ランテール家からは見えなくなる……。そこまで、ちゃんと掴まっとけ」
相変わらず口が悪いんだから、と思いつつ、一生懸命走る彼にしがみつく。肩に顔を埋めると、彼の匂いがする。
途端に、緊張の糸が切れたように、ユリアは泣き出した。昨日彼の背中で泣いて、今日は彼の前で泣く。なんて弱虫な自分だろう。それでも、よかった。彼に抱えられて泣けるなんて、どれだけお金を払ったってこんな贅沢、できやしない。こんな特等席、神様にだって譲りたくない。
「……あっ……がとう」
向こうじゃ夢か現実かわからなくて、言えてなかったこと。ようやく、彼が何をしたか、何をしてくれたのかを理解したユリアは、彼の首に回す自分の細い腕を、ぎゅっと握る。
「―――助けに来てくれて、ありがとう。ルーファ」
彼はなおも息を切らしながら、しかし安心したような顔で、駆け続けた。
◇
丘を一つ越え、ルーファはひときわ大きな木の下にユリアを下ろす。
長い盗賊稼業で鍛えられた体力を持ってしても、あるいはユリアが華奢な体型の女の子であることを考慮に入れても、かなりの重労働であり、さすがに膝に手をついてぜえぜえと苦しそうに呼吸を繰り返していた。
「……ふぅーっ。……いつまで泣いてんだよ、お嬢さんは」
「そんなの……し、しょうがないじゃない……っ」
「いつ見てもひでぇ泣き顔してんなぁ、ユリアは」
自分だってまだ疲れてて余裕がないだろうに、へらへらしながら軽口を叩くルーファに、ユリアもだんだんいつもの調子に戻っていった。
「……話してもいいか」
「うん。ちゃんと……知りたいから」
一呼吸おいて、ルーファは事の詳細を語った。
まず、昨晩のユリアとレックスのやりとりを窓の横から聞いていて、計画を実行しようと思ったこと。
本当はすぐにでも手を差し伸べたかったが、今行動を起こしたら彼女が自分にレックスの本性を話さずに別れた意味がなくなると思い、ぐっと堪えた。
つらい時間を少しでも長引かせてしまったことを彼は悔いていたが、ユリアは感情的な彼が冷静に判断できるぐらい、ユリアのことを思って行動してくれたことが嬉しかった。
次に、ユリアの愛するランテール家が不利益を被らないために、ルーファがユリアを誘拐し、ノーゼンハイムのヘイトを彼一人に向けさせること。
そのために、彼はノーゼンハイムに恨みを持っているかのような振る舞いをした。煙に包まれた式場から逃げる際、「ノーゼンハイム家に滅びを!」とか「ノーゼンハイム家に復讐してやったぞ!」とか「死ね! レックスノーゼンハイム!」とかわざとらしく三下じみたセリフを吐いてまわっていたのは、そういうことだったのかとユリアは納得する。しかし、ここで一つ疑問が生じる。
「ちょっと待って。あなたどうしてノーゼンハイム家の……ううん、それだけじゃない、式の時間も、それに家からの脱出経路も、どうしてそんなに詳しく知っているの?」
ユリアが権力で脅されていることぐらいは推測可能であろうが、それ以外にも上手くいきすぎている点が多かった。特に、昨晩から調べたにしても、彼一人では到底無理な情報も含まれていた。
「―――ヘンリエッタさんに、協力してもらった」
侍女、ヘンリエッタ。まさかここで彼女の名前が出るとはまったく予想していなかったユリアは、流石にわかりやすく動揺する。
「昨日の夜、ユリアと別れた後、会ったんだ。……レックスの本性も、気づいてたよ」
ルーファの話によると、体調を崩したユリアが妙に強がっているのを見て、これは何かあるのかもしれないと思ったヘンリエッタは、ユリアのことを陰で見守っていた。そこでやっとレックスの残虐性に気づいたが、使用人の身分でできることは少なく、彼女は無力を嘆いていた。そこに、ルーファがやってきて、ユリアの誘拐計画への協力を申し出たとのことだった。
ユリアは自分の能力のような力がなくても、ヘンリエッタが自分の本心を見抜いていたこと、そしてそれを上手く隠し通せたと思っていた自分の思い上がりを恥じた。
しかし、ここでまた疑問が生じる。
「あのヘンリエッタが……会ってすぐのあなたをどうしてそこまで……?」
そう、先の話はすべて、ルーファがユリアの良き理解者であり、長い付き合いのある、信用に足る人間である場合にのみ成立する。見ず知らずの男、ましてや屋敷に侵入したいかにも盗賊の見た目の男など、状況が状況とはいえ、信用することはできないはずである。
「……俺がどうして一年間も家に繰り返し侵入して見つからなかったと思う?」
「……嘘でしょう? ヘンリエッタと顔見知りだったの?」
「顔見知りどころか、あの人はずっと協力してくれてたよ。てか、そうじゃなきゃ流石の俺でもそう何度も貴族の邸宅に入れねぇよ」
ルーファは地面に座り、後ろに手をつき、足を伸ばして笑いながらそう言った。
「いったいいつから? どういう経緯で?」
「一ヶ月目ぐらい」
「いっ……!?」
ユリアは絶句する。それじゃあこの一年、ほとんどの密会が筒抜けだったのではないか。
隠し通すどころか、逆に隠し通されていた。ユリアが幼児の時から世話をしてくれていたヘンリエッタには、ユリアのことなどすべてまるっとお見通しだったのだ。
ルーファが言うには、きっかけはユリアに笑顔が増えたことだった。
ユリアは、昔からよく悩んでいるような顔をすることが多かったという。ヘンリエッタは、年頃の悩みもあるだろうと全部の相談を聞くことはしなかったが、ユリアが時々苦しそうな顔をするのを心配していた。
それがどういうわけか、約一年前から急にその悩みが解消されたように見えた。
ある時、彼女がユリアの寝室に入ろうとすると、知らない男の声と楽しそうに話すのを聞いた。ルーファが侵入していた経路を特定したヘンリエッタは数日後の夜、出てくるルーファを待ち構えて話しかけた。ルーファは逃げ出そうとしたが、ヘンリエッタはそれを引き留め、ルーファからユリアとの交流について詳しく聞くと、なるほどと思い当たって感謝を伝え、以降他の使用人に見つからないよう協力してくれた。
「い、言ってくれたらよかったのに」
「しっかり口止めされてたよ。破っても捕まえて突き出されるなんて思っちゃいなかったけど……多分、口止めの理由は、ユリアが一番わかってるんじゃねぇの」
ユリアが、ヘンリエッタに心配をかけたくなかったように。ヘンリエッタもまた、自分を心配してくれているユリアの気持ちを尊重してくれた、ということなのだろう。本当に、彼女には頭が上がらなかった。
さらに話を聞くと、脱出経路やここまでの道のりをヘンリエッタが指示し、囮の馬車は彼の信頼できる盗賊の知り合いに掛け合って動かしてもらったものだった。実際、真っ暗な中で目立つ白いほろの馬車は囮として上手く機能していた。
そして、青いドレスは、埋め込んだ宝石をしばらくの逃走資金にあてられるよう配慮されたものだった。
最後に、ほとぼりが冷めたら、ヘンリエッタさんから両親には事の顛末を説明する、と。
「ユリア。これは……この誘拐は、俺のエゴだよ。俺のわがままだ」
彼は優しかった。ユリアだって彼と一緒にいたい。だけど、身分がそうさせない。家柄がそうさせない。その壁を先に破ってくれたというのに、彼はそこにユリアの意思が含まれていないことを気にして、全部俺が俺のためにやりたくてやったことだ、なんて言う。そんな不器用な、優しさだった。
「家のことだって、完全に解決したわけじゃない。ヘンリエッタさんに頼ることが多すぎるし……もう二度と、ユリアは家族やヘンリエッタさんに会えないかもしれない」
「それでも、考えうる限り最善の道でしょう。私だけじゃなくて、私の周りの人のことまで考えてくれてる。感謝しても、しきれないぐらい十分すぎるわ」
彼はまだ、悔しそうな顔をしていた。それほどまでに、自分のことを想ってくれているのが嬉しかった。
真剣な顔をして、彼は続ける。
「しばらくは食いっぱぐれることはねぇだろうけど、ユリアの今まで、とは全然違う生活をさせることになると思う。もうシチューは食わせてやれねぇし、綺麗な服も着させてやれねぇと思う」
「……ええ」
あなたと一緒なら、土のついた野菜の皮でもきっと美味しくなる。
あなたと一緒なら、布切れも一等品の服になる。
あなたと一緒なら、ほら穴でもあたたかい。
あなたと一緒なら、これ以上の幸せはないもの。
「だから、これは俺のわがままだ」
彼はそう前置きすると、まっすぐに、ユリアに向かい直す。二人の瞳が、宝石が、見つめ合う。
「―――俺に、盗まれてくれ」
ユリアの返事はもう、ずっと昔に決まっていた。
「―――とっくに、あなたに心奪われているわ」
しばらく見つめ合ったのち、その神妙な空気と恥ずかしいセリフに、二人は吹き出す。
「……一番高いものといい、あなたって結構キザなところがあるわよね」
「うるせぇよ、もう二度と言わねぇからな」
かっこつけも、強がりも、二人で共有すれば幸せだった。幸せになる。これから、幸せになっていく。
「ねえ、ルーファ。私ね」
二人の顔が、自然に近づいていく。
さあ、昨日言えなかった言葉の続きを。
「―――あなたのこと、愛してる」
ルーファの頭に手を伸ばし、引き寄せて唇を奪ったのはユリアのほうだった。
月下、世界一な幸せなキスが、照らされる。
『感情が見える令嬢と盗賊の青年』
著 ララの丸焼き