(4)
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事件はそれから数年後、僕が十二のときにおこった。
母は持病が悪化して、ベッドからさらに離れられなくなった。僕には以前にも増して、自由ができた。
好きな本を読み、好きな稽古に打ち込み、好きなところへ行ける。それはすばらしい世界で、開放感に満ち満ちていた。
なにより、シダとしょっちゅう顔を合わせることもできた。
「シダ!」
いつものように名を呼ぶ。するとそいつは、風のように、あっという間に、いつの間にか隣に立つ。
「呼んだ?」
「もちろん」
秘密の関係――だれにも言えない、そして誇らしいものであるような気がして、僕は楽しかった。城の外へはめったに出かけられない窮屈さ、不祥事を起こしてはならない緊張感から、幼いいたずら心はこういった秘密によって緩和されていたのかもしれない。
シダは僕とまったく同じ容姿に成長していた。髪も、目も、背丈も、声も、すべて。本当に瓜二つで、黙っていれば父さまも母さまも見分けがつかないのではないか、と思うほどだ。加えてシダの僕に似せる演技が完璧なものだから、これなら本当に入れ替わってもわからないんじゃないか、と、半ばわくわくした気持ちで思った。
一度、入れ替わってみようと提案したことがある。けれどシダは決して受け入れてはくれなかった。
母はよく、『おまえとシダは全然ちがう。わたくしは母親だから、一目見ればわかるのよ』と言い聞かせてくれていたけれど――僕にはそれが、母さまが自分自身に言い聞かせているように見えた。実の母親すらだませるのだと、僕はわずかな確信を得た。
でも、僕ら自身にはふたりのちがいはありありと見てとれる。シダのような表情を、僕はしない――シダは僕とちがうカオをする。
「もしかして……“影”の仕事をしてきたの?」
僕はかすかに眉をひそめて問うた。
シダはちょっと困ったように笑ってから、ゆっくりと頷く。
「うん。外聞だよ。城の外を、兄上と一緒に見に行ったんだ。それで、領主たちから話を聞いた」
ちぇっと舌打ちをして、頬をふくらませる。いつもこうだ。シダばかり、外へ連れ出してもらえる。母さまは絶対に僕を城の外へは出したがらないから、僕らのこの秘密を知っている家臣に任せて、外への仕事はすべてシダにやらせるのだ。
不機嫌になった僕に、シダは小さく苦笑して、言い訳をした。
「そんなに羨ましがることではないよ。兄さまとと言ったって、兄さまは父上のお隣に座っていたけれど、僕は一列後ろだったから。あまり話せなかったし、お顔も見れなかった……」
「でも、話したんだろう? いいなあ。僕、兄上はすごく好きだ」
そう言ってため息をこぼすと、シダはさらに苦笑した。その顔を見て、こいつは兄上が苦手なんだと知る。
でもきっと、シダは自分が兄上を嫌っているとは認めないだろう。あくまでも影として、兄上を好いている僕に忠実であろうとするから。
「……そうだ。アネモネの花が咲いていたよ。シダ、好きだろ?」
話を変えるべくそう言うと、彼はぱっと顔を輝かせた。
アネモネの花言葉を教えてくれたのも、シダだった。どうしてこの花が好きなのかと尋ねると、見た目のうつくしさはもちろんだけれど、その花言葉に惹かれるのだと言っていた。多くの意味をもつ、アネモネ……。
はじめはちょっと薔薇に似ているなあとしか思わなかったけれど。僕は本当は薔薇が好きだけれど。でも、だんだんアネモネも好きになってきたんだ。
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その夜、事件は起こった。
以前からシダが読みたいと言っていた本が見当たらなくて、僕は焦っていた。どこにしまったのだろう? あの赤みを帯びた、厚い本は……。
たしか、数ページは読んだのだ。神の話だった気がする。双子神と、すべてを壊滅へ追いやる滅びの唄――けれど、僕は途中で飽き飽きしてきて、読むのをやめてしまった。それを見かけたシダが、今度貸してよ、と言ったのだ。
本棚にはなかった。あまり興味のない本だったから、どこかに無造作に置いたのかもしれない……。
しかし、そこでハッと思い出す。
そういえば、あれを最後に読んだのは母さまの寝室だった。病によって弱った母さまがそばにいてと乞うので、寝付くまで僕はそばの椅子に座って読書をしていたのだ。
思い出し、深夜を過ぎていたが、僕は急いで母の自室へと向かう。医者から、母さまには今夜は近づいてはならぬと言われていたことも忘れて。
今思えば、すでにあのとき、母は狂っていたのかもしれない。
カチャ、と静かに戸をあける。衛兵の姿もなかったが、本のありかを思い出した興奮で、僕は不審にも思わなかった。
「母さま? 入るよ」
暗闇の部屋だ。母の枕元にあるランプがほのかに色づいているだけで、あとは一切明かりなどない。医者の姿も見えず、とても静かだった。
僕は構わず、母のベッド脇にある木彫りの棚へ足を運ぶ。その棚の上には、剥かれた林檎とナイフが無造作に置かれている。僕は引き出しを順序に開け、二番目の引き出しに、赤い本が黒い影を落としてしまわれているのを発見した。
見つけた――ほっと息をこぼし、僕は誇らしげに笑みをつくる。これでシダに渡してやれる。
シダはもう眠ってしまっただろうか? ……そんなことを考えながら、ひとり、僕は部屋を出ようと立ち上がった。
――そのとき。
「シ……ダ……?」
ぎくり、とする。声はかすれて唸るようにささやかれた。それが母の声だと気づくのに、数秒かかった。
振り返ると、身体をゆっくりと起こした母上がいた。目は定まっておらず、どこか夢幻をみているかのようにぼんやりしている。肌は青白く、顔は痩せてこけ、髪はぼさぼさで、とても王の妃には見えない。目の下にできた大きなクマが異様な不気味さを醸し出していた。
「母さま、その、夜にごめんなさい。僕、どうしても探し物があって」
「シダ、シダ? おまえは、わたくしを殺しにきたのね」
母はもはや、僕の声など聞こえないようだった。ただ大きな目で恐ろしいほどの憎しみを込めて、じっと僕を見つめている。
「やはり、おまえは悪魔だったのだね――占い師に言われた通りだ。さすがは双子の悪魔神……おまえからシーラハンドを引き離したとて、おまえを殺さねばあの子もわたくしも幸せにならぬのだ……」
母は息を荒らげる。目を見開き、ものすごい形相でこちらにばっと手を伸ばした。
「ああ、悔しい! この腹から悪魔を産んだことがなによりも不幸! 王の心はわたくしにいちばんをくださらない! それもこれも、双子を産んだせい! 呪われたこどもを産んだせい!」
「やめて!」
母に力はなかった。それでもゆるゆると蔦のように伸びて僕を絡め取ろうとする白い腕は、君が悪くて、恐怖を感じずにはいられない。
「おまえはわたくしを殺しにきたのだろう? だったらその前に、わたくしがおまえを殺してやる!」
「母さま、やめて! だれか――」
そのとき気づく。なぜ、衛兵は近くにいないのだ。そういえば、僕の部屋のまえにもいなかった。この母さまの寝室の近くの部屋には、だれひとりいなかった……なぜ、なぜ、なぜ……?!
僕は悪魔の子なの? シダと僕は双子だから、呪われた子供なの……?
「よくもわたくしを不幸にしたな! この悪魔!」
母の白く細い腕が、すごいはやさで棚に置かれたナイフに伸びる。サアッと血の気が引いて、逃げようともがくが、首根っこをぐいっと引かれて引き戻された。母はその光るナイフをめいっぱい上へかざし、僕へ突き刺そうと振りおろした――。
「よくも――!」
助けて。
真っ赤な薔薇はうつくしい。上品で、とても触れてはいけないような、そんな敬いを含んだものを感じさせる。そして同時に、ぞっとするものも感じさせる。
僕は薔薇を見た。真っ赤な薔薇の花びらが、勢いよく散ってゆくところを。まるで咲き誇るかのように散ってゆくところを。
母は驚きに目をいっぱいに見開いていた。そして悲鳴をあげるまえに、喉をかっ切られて死に絶えた。
「あ……ああ……」
僕は声にならない声を絞り出す。動けなかった。
目の前にいる少年はだれだ? 返り血を浴びて、赤く染まって立っている、この少年はだれだ? 本当に――本当に、シダなのか?
僕はこのとき、おかしな体験をしたんだ。まるで自分が本当に、母を殺しているのを見ていたような。
僕が母をこの手で殺したのだと。
「……失敗しちゃったな……返り血を浴びない殺し方も習ったのに……焦ってたから、考えなかった……」
少年はふっとため息をこぼしてそうつぶやくと、血で赤く染まった黒髪を払い、くるりとまっすぐにこちらに向き直った。
「……平気?」
今しがた母を殺した狂気を丁寧に布で拭きながら、シダはそう尋ねてきた。本当に、なんでもなさそうに。
しかし僕は、恐怖は感じなかった――すくなくとも、母に感じた恐怖と同じ感情は、微塵も。
「おまえ……母さまを殺したの……?」
「そうだよ。命じられて。……でも、よかった。シーラハンドが殺されなくて」
ありがとう、とささやくように言葉を落とす。もし、シダが先に母を殺さなければ、僕は確実に……。
そうして気がつく。“影”とはこういうことなのだと。僕の替え玉なのではない。こういう汚れ仕事もこなすのだと。
「おまえ……だれに命じられたんだ?」
「それは言えない。それにどの道、その女の人は助からなかったよ。病と毒で身体を侵されていたから」
そうか、としか言えなかった。
シダはどんな気持ちなんだ? だれが、どうして彼に命じたんだ? シダは母の言うことを聞く人形ではない……でも、母を殺せと言った人間がいるんだ。他にこいつに命じられる人物は、限られるじゃないか。
けれど、いちばん驚いたのはそんなことではない。……僕は、僕自身に驚いたんだ。
母が死んでも、それほど悲しみは感じなかった。そんな自分が、怖い。
悪魔――そう言った母の声が耳にこびりついている。僕は、本当に母を愛していたのか? どうして悲しめない?
そうして知った。きっと母も、それほど僕を愛していたわけではないのだと。たぶん、それはずっとわかっていたのだ。
母はただ、双子というものが嫌いだったんだ。双子じゃなければ、どちらだってよかったんだ。だって母はいつも僕らのちがいがわからなかった。だからいつも、僕にだけ赤い腕輪をはめさせたのでしょう?
それにたとえ愛してくれていたとて、自分の分身のようなシダにひどい扱いをする彼女を、どうしても心から慕えなかっただろう。
僕は母よりも、きっと、シダのほうが何倍も好きなのだ。
自分の本当を知った――そんな気がした。
「……平気?」
再度、シダはうつろな目をした僕を見て問う。ただ頷いて、弟の瞳をじっと見つめた。
「僕らの秘密を知っている人間はね、僕らが思っているよりもたくさんいるんだ」
シダは僕から視線をそらし、滴る赤い血をながめながら言った。
「だから、嬉しかった」
「どうして?」
どうして、僕らが双子であるという秘密を知られるのが嬉しいのだろう? 母はずいぶんと双子であるということを嫌っていた。それは、双子が不吉であるからなのに、なぜ?
ゆっくりとこちらを向くと、シダはほほえむ。
「何時間も闇に身をひそめていると、まるで自分が消えてしまったみたいになるから――」
足元に広がる鮮やかな赤い血が、黒く、黒く、闇に沈んでいく。溶け込むように、ゆっくりと、確実に。
僕には、シダの気持ちがわかるような気がした。そして僕は、ぽつりと言葉を落とす。
「虚しい愛なんて、いらない」
そのとき覚えたあの感覚をなんと呼ぼう?