(2)
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そいつを彼女のもとへやり、僕はひとり暗い部屋に身を横たえていた。
馬鹿だ。どうしてこうも、虚しいと思い知ってしまうことしかできないんだろう。無理矢理に彼女を抱いた――エナーシャには断るすべなどない。それを知っていて、僕は彼女を自分のものとしたんだ。
知りたかっただけだ。教えてやりたかっただけだ。
君は“シーラハンド”のものだよ?
目覚めてすぐ、後悔した。身体だけを自分のものだと感じたとて、それだけ。心は空っぽのように虚しい。後悔しかなくて、もう彼女のそばにいることなんてできなかった。
間違っていただろうか? 僕はただ、君が好きなだけなのに。
暗闇のなか、ぼんやりする頭を振る。執務だってたまっているし、こなさなくてはならぬ仕事はたくさんある。ぐだぐだ悩んでいる時間はない。
大丈夫。今、“僕”はエナーシャのもとへいるのだから。なにも臆することはない。
「王子」
部屋の外からノックがかかる。ねっとりした声でそう呼ぶ者がいた。この声は、大臣のものだ。
あきらめてため息を飲み込むと、そっと身を起こして口をひらく。なるたけ威厳のある声を保ちながら。
「入れ」
失礼いたします、と言って、ルドルフ大臣が入室してきた。一瞬、暗い部屋に顔をしかめたが、すぐににんまり笑顔を浮かべる。
「王子。民はいまだ怯えています。早々に戴冠式を行いましょう。王のない国など、混乱が生じるばかりです」
兄王子が亡くなってから、驚くほど国が脆いということを知った。民は怯え、家臣らは不安におののき、国全体が大きく揺れる。なにより、未来の善王とたたえられた兄だったから、その面影を求める者は少なくない。
ルドルフ大臣は、たしかいちばん末っ子の王子の後見人であったが、その技量を買われ、大臣にまでのぼりつめていた。兄のときにも大臣として使われ、腕を振るうはずだったのだが、彼が亡くなった今、第二王子の大臣として仕えてくれる大事な人材だ。
「その話は先日に決着がついたはずだが? 春に行うと、言っただろう」
「ですが、王子。先ほども申し上げたとおり、国民は納得いたしません。早々にみせしめるべきです!」
ニタリと笑みを浮かべて手をこまねく大臣に嫌気がさす。たしかに彼は有能かもしれない。様々な人脈を持ち、人を動かすことには長けていると聞いた。だが。
「ルドルフ大臣、おまえは口が達者なだけではないのか?」
「なっ?!」
「よく見ろ。民は兄上の死に、いまだ納得していないのだ。冬はただでさえ苦しい――もうすこし、兄上を追悼したとて、バチはあたるまい。むしろ民が混乱しているのは、兄上が暗殺されたということだ」
怒りに顔を歪める大臣にぴしゃりと言い放つ。脂汗をしたたらせ、反論しようと口をひらく彼を封じるがごとく、さらに言葉を継ぐ。
「犯人はいまだ見つかってはいないのだろう? 今、だれがいちばん民に疑われているか知っているか? ――この僕だ」
そう。崇拝されていた兄上の死によって、次期国王の座を手にしたのはこの僕。今ここですぐにでも王になれば、民の反発はただものではないだろう。それほどまでに、兄上は親しまれていたのだから。
ルドルフ大臣はぎゅっと憎々しげに唇を噛みしめていたが、次の瞬間、ニンマリと顔を崩した。不審に思う間もなく、彼はねっとりする声で言う。
「ああ、ですが。わたしはなにも、そればかりを心配しているのではありません……弟君が出しゃばる前に、と思った次第でございます」
「弟?」
顔を歪めると、大臣はさらに笑みを深めた。
「はい。弟君でございます――御顔立ちのそっくり、な」
目を見開く。まさか、こいつが知っていたとは――。
カッと頭に血がのぼり、大臣の胸倉をつかんで詰め寄る。男は相変わらず皮肉的な笑みを浮かべていた。
「そうですね、彼はきっと思うはずです。どうして自分が“影”なのかと。“光”である貴方様に嫉妬するでしょう」
「そんな――」
「すべてを奪われる前に」
力のなくなった僕の手を振り払い、大臣は猫なで声で言った。恐ろしいほど、不気味な言葉を。
「見せしめるのです……真の権力者は、だれであるか、と」
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「シダ」
名を呼べば、いつでも駆けつける、僕の“影”。
「おまえはエナーシャが好きなのだろう?」
まったく同じ顔立ちの、僕の片割れ。
「なあ?」
双子の、弟。
そいつはじっと僕を見つめていたが、やがてふっと柔く笑うと、自嘲的な調子で言った。
「なんのことかわかりませんが、王子?」
「僕はそんな顔をしない!」
その柔いなかにある脆くしたたかなにかを感じ、腹が立つ。カッとなってそいつの胸倉をつかんだ。
にらみつけてやると、そいつもまったく同じ顔でにらみ返す――それなのに、やはりどこか違う。
「僕を恨んでいるのだろう? たった数分、生まれるのが遅かっただけで、おまえはシーラハンド王子の影――僕が憎いんだろう?」
「なにを今更……」
つかんでいた僕の手を払い、そいつはさらに皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「今更、俺がなにかを望むとでも? そんなこと、とっくの昔にあきらめている」
ぎっと視線を強くし、シダは立ちあがって背を向けた。その視線がなぜか憎しみというよりは憐れみ――それも自分自身に向けられた――に見え、若干戸惑う。
僕は今、なにを言った? なにをした?
あいつを、傷つけたのか?
「エナーシャが好きか、だって?」
扉に手をかけながら、シダは唸るように言った。
「そんな答えなど、俺には選べないというのに」
音もなく部屋から出ていく。
自分とまったく同じ姿をした弟の背を目に焼きつけ、ただ、僕は突っ立っていた。
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かすかな吐息を感じて、ああ、生きていると実感する。『何時間も闇に身をひそめていると、まるで自分が消えてしまったみたいになる』――そうあいつが言っていたころの記憶を思い出し、ひとり失笑した。
真っ暗な部屋で、ベッドに身を横たえたまま、じっと動かない。消えてなくなるというよりは、銅像になって心臓が止まってしまうという感覚のほうが近い気がする。
昔、この部屋にあった赤い本が、唐突に瞼の裏によみがえってきた。
神様に関することや、唄に関する内容だった気がする。双子神の滅びの唄――リタレンティア。
あまり内容は好きじゃなかった。というよりは、幼い僕には難しすぎて読むのをやめてしまった。逆にシダはすごく惹かれたようで、いつか読んでみたいと言っていた。僕には合わないからと言って、いつだかあいつにあげた気がする。だからもう、この部屋の本棚にはない。
どうして急にその本が頭に浮かんできたのかわからない。ただ、ずっと胸のうちを這いずり回る、この蛇のようなもやもやした感覚に顔をしかめた。
あいつの声が、頭から離れない。そして同時に、最悪の予想が頭をかすめた。
シダは、エナーシャを愛している。そしてきっと、彼女も。
そっと身を起こし、バルコニーに出て夜風をあびる。細く白んだ三日月が、遠くで輝いていた。
エナーシャは賢い人だ。僕らのちがいに気づかぬはずはない――わかっていたことじゃないか。
彼女はなにかを秘めている気がした……だから僕はたぶん、彼女に惹かれたんだ。自分にはない、なにかを持っている気がして、この空洞を埋めてくれる気がして、だから執着するくらい、彼女が好きだった。
これは恋だったのだろうか?
本当に好きならば、だれにも渡したくないならば、僕はシダを彼女に合わせるべきではなかった。あいつは影で、僕が王子。僕が彼女に会いにいけばよかったんだ。債務をシダに任せていけばよかったんだ。あいつは仕事を完璧にこなすから、不足などあるはずはない。
どうして僕は、『エナーシャの恋人のシーラハンド』をシダにやらせたのだろう? 執着しているなら、なぜ。
涙が自然と頬をつたった。答えは、わかりきっていたから。
リタレンティアのイラストもいただいております!
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王国の花名ともども、これからもよろしくお願いします!