(4)
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ついばむようなキスだった。まるで恐れているような、かすかな戸惑いを残しながらの口づけ。
つられて、わたしも身体を固くしてしまった。妙な緊張が走る。けれど同時に、胸の奥は甘い悲鳴をあげる。
光が、まばゆい幸福の光が降り注いだ気がした。そして、その光はやがて暗い影を呑み込み、見えなくさせる……。
――甘い痺れは長くはつづかなかった。
口を離し、彼はそっとほほえむ。優雅で、物腰柔らかな、王子さま。賢く、その頭脳はすばらしいと評判の、シーラハンド王子。
ねぇ、けれど。
こんな虚しさ、欲しくはないわ。
「エナーシャ……?」
戸惑いの声をあげる彼に構わず、わたしはそっと彼の身体に頬を寄せた。胸は煩いくらいに高鳴る。
顔をあげ、彼の葡萄色の瞳を見上げる。そこにどんな色が浮かんでいたって、わたしは引かない。
これくらいの我が儘、赦して?
「……ねぇ……」
つぶやいた。彼の耳元に口を寄せて、ささやくように。
手が震える――でも。
「お願い……」
あなたを感じたい。そばにいてほしい。
これからずっと、わたしがわたし自身を騙していくために。せめて、今夜だけは。
涙が浮かぶ。胸がきゅっとなり、むせび泣きそうになるのを必死でこらえて、わたしは彼の身体に腕をまわした。
放したくないわ。どこにも行かせたくない。
ねぇ、わたし、知りたいのよ――。
「エナーシャ」
彼はやさしく、わたしの名を呼んだ。呼んで、そっと抱きしめた。それから額に、キスを落とす――。
けれど、それだけ。
彼は、決してわたしを抱いてなどくれないのだ。
「また今度ね」
にっこりと笑って、彼ははぐらかす。そうやって柔く拒絶する。
涙が頬を流れた。
笑ってわたしを抱きしめる彼。だけど本当は笑ってなんかいない。一瞬傷ついた顔をしたの、見たもの。見逃さなかったもの。
彼は気づいていないのだ。わたしが、彼だから「お願い」と言ったこと。わたしが好きなのは、彼だと言うことを。
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リタレンティア、滅びの唄。
「えっ」
彼はぎょっとしたようにこちらを仰いだ。読みかけの本をぱたんととじて、あわてて笑みを取り繕う。
わたしもそんな彼にならうように、唇に弧を描いた。
「……ごめんなさい。見えてしまったわ」
嘘をつくのも馬鹿馬鹿しくて、笑みで言い切った。やっぱり彼も虚しい笑顔になりながら口をひらく。
「いや……知っているの」
「その物語のこと?」
彼はこくんと頷く。いつもよりも、その瞳の色が明るい気がして、気を惹かれた。
ずいぶん夢中で読んでいたようだ。何度声をかけても、わたしがそばに近づいても、気付く気配もなかった。その本のタイトルを声に出してみると、やっと彼はわたしに気付いたくらいだもの。相当熱中していたはず。
彼はずいぶん前から、この本の虜みたい。
「……『リタレンティア。それは滅びの唄――長きにわたり、悲しみの戦を繰り広げ、彼らは太古の昔より授かりし我らが世界を滅ぼさんとす。うつくしき兄弟は互いを憎み、やがては崩壊へと進んでいく……』」
「――すごいな」
冒頭をそらんじてみせると、彼は圧倒されたように目を見開き、率直な感想を述べた。
「たいしたことないわ。もともと、物語が好きだったの。小さいころ、読んだことがあるだけよ」
そう、はじめてその物語を読んだとき、わたしは震え上がった――忘れもしない。ある真冬……恐怖に捕われてしまったあの夜。
暖炉の火がはぜる音より、遠くで吹雪く音の方が強く耳に残ったあの夜――わたしは、恐れたのだ……。
「……聖書みたいだよね」
彼の声でハッと我にかえる。遠く昔の記憶の誘いから戻り、あわてて笑みを浮かべた。
「え、ええ……結局は、争いはいけないという戒めね。天罰が下るという。でも、あなた、それを最後まで読むつもり?」
「どうして」
遠くで吹雪く音がした。また風が強まったのだろうか。
「結末を知りたいなら、教えてあげるわ。『ふたつの魂は安らかなることなく、今もさ迷い、果てを探す――』」
怪訝そうに顔をしかめる彼に、わたしは諭すように手を重ね、有無を言わせぬうちに黒みがかった本を奪った。
「呪われてしまうのよ。もう、読むのはやめたらいいわ」
これ以上、虜になってはいけないわ。本当に、呪われてしまうから。
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赤くなった指先をあたためようと、息を吹きかける。吐く息は白く、煙のように出ていく。
凍てつくような寒さのなか、わたしはひとり歩いていた。向かう先は、庭園――今朝、彼がそこへ行くのを見たと聞いたからだ。
その日のわたしは、きっとどうかしてた……たぶん、そろそろ限界だったのだ。
嘘をつかれることも、つくことにも、こりごりだったのかもしれない。虚しいだけの笑みの仮面に、嫌気がさしていたのかもしれない。
――だから。
そんなつもりなんてなかった。だってきっと、わたしはあなたを困らせるから。だからずっと、うまくやっていくつもりだったのに。
あんなことを言うつもりなんて、なかったのに。
「またその本を読んだの?」
わたしのあげた非難めいた声に、彼はそっと本を背後へ隠した。隠してから、それをまた隠すように笑みをみせる。
「すこしだけだよ……そうだ、君に伝えたいことがあったんだ」
はぐらかそうとしたことが腹立たしい。嘘をつくなんて。
はっきり見たわ。だれだってわかるわ。わたしに隠れて本を盗み読んで。そうして『すこしだけ』だなんて嘘をつく。
寒空の下、手がかじかむことすらいとわず、ページをめくって読み耽ったのね?
あなたはもう、虜――リタレンティアの呪縛からは逃れられない。
愕然とした。彼の次の言葉に、さらに。
「明日、王宮にきてくれ。結婚の準備のために、そろそろ君を迎え入れたいんだ」
え――?
もう、そんな時期なの? 今、あなたに言われなくちゃならない事実なの?
「……兄上が亡くなったし……僕が次期国王になるんだ。この混乱した城を、国を、治めていかなくちゃいけない」
淡々と彼は言葉を落としてゆく。そしてしまいには、ひどく柔く笑って見せた。
「君は王妃になるんだよ、エナーシャ」
――わかってたわ。わたしは、第二王子・シーラハンドさまと結婚するのよ。
覚悟なんて立派なものではないけれど、それでも自分の運命として受け入れていたわ。
だけど。
ねぇ、どうしてかしら?
「……わたしは、あなたと結婚するの?」
やっぱり、実際この時を迎えてみれば、ちがうの。苦しみが、ちがうの。
突然すぎて、心がついていかない。『あなた』に言われたという事実が、たまらなく悔しい。
彼は首をちょっと傾け、そして微笑した。
「――そうだよ」
それからわたしの手をとり、身体を引き寄せ、そっと額に口づける。
意味かわからなくて、混乱する……なんで、やさしくするの。
彼は葡萄色の瞳を細め、それからわたしを強く抱きしめた。
耳元で、くぐもったような、痛切な声がした――。
「名を呼んで、エナーシャ」
――だれの? いったい、だれの名を呼べというの。
わたしは彼の肩に手をかけ、力を込めて身体を離すと、その魔力を秘めたような葡萄色の瞳を見つめた。
止めようがなかった。
怒りか、悲しみか、とにかく心は悲鳴をあげて震えていたのだ。
「あなた、だれ」
口からこぼれた声は、ひどく冷淡だった。
これにて、第一章は終わりです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
第二章もよろしくお願いします。