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■/□/■/□/■/□


 ついばむようなキスだった。まるで恐れているような、かすかな戸惑いを残しながらの口づけ。

 つられて、わたしも身体を固くしてしまった。妙な緊張が走る。けれど同時に、胸の奥は甘い悲鳴をあげる。

 光が、まばゆい幸福の光が降り注いだ気がした。そして、その光はやがて暗い影を呑み込み、見えなくさせる……。


 ――甘い痺れは長くはつづかなかった。


 口を離し、彼はそっとほほえむ。優雅で、物腰柔らかな、王子さま。賢く、その頭脳はすばらしいと評判の、シーラハンド王子。

 ねぇ、けれど。

 こんな虚しさ、欲しくはないわ。


「エナーシャ……?」

 戸惑いの声をあげる彼に構わず、わたしはそっと彼の身体に頬を寄せた。胸は煩いくらいに高鳴る。

 顔をあげ、彼の葡萄色の瞳を見上げる。そこにどんな色が浮かんでいたって、わたしは引かない。

 これくらいの我が儘、赦して?

「……ねぇ……」

 つぶやいた。彼の耳元に口を寄せて、ささやくように。

 手が震える――でも。

「お願い……」

 あなたを感じたい。そばにいてほしい。

 これからずっと、わたしがわたし自身を騙していくために。せめて、今夜だけは。


 涙が浮かぶ。胸がきゅっとなり、むせび泣きそうになるのを必死でこらえて、わたしは彼の身体に腕をまわした。

 放したくないわ。どこにも行かせたくない。

 ねぇ、わたし、知りたいのよ――。



「エナーシャ」

 彼はやさしく、わたしの名を呼んだ。呼んで、そっと抱きしめた。それから額に、キスを落とす――。

 けれど、それだけ。

 彼は、決してわたしを抱いてなどくれないのだ。

「また今度ね」

 にっこりと笑って、彼ははぐらかす。そうやって柔く拒絶する。

 涙が頬を流れた。

 笑ってわたしを抱きしめる彼。だけど本当は笑ってなんかいない。一瞬傷ついた顔をしたの、見たもの。見逃さなかったもの。

 彼は気づいていないのだ。わたしが、彼だから「お願い」と言ったこと。わたしが好きなのは、彼だと言うことを。






■/□/■/□/■/□


 リタレンティア、滅びの唄。



「えっ」

 彼はぎょっとしたようにこちらを仰いだ。読みかけの本をぱたんととじて、あわてて笑みを取り繕う。

 わたしもそんな彼にならうように、唇に弧を描いた。

「……ごめんなさい。見えてしまったわ」

 嘘をつくのも馬鹿馬鹿しくて、笑みで言い切った。やっぱり彼も虚しい笑顔になりながら口をひらく。

「いや……知っているの」

「その物語のこと?」

 彼はこくんと頷く。いつもよりも、その瞳の色が明るい気がして、気を惹かれた。

 ずいぶん夢中で読んでいたようだ。何度声をかけても、わたしがそばに近づいても、気付く気配もなかった。その本のタイトルを声に出してみると、やっと彼はわたしに気付いたくらいだもの。相当熱中していたはず。

 彼はずいぶん前から、この本の虜みたい。


「……『リタレンティア。それは滅びの唄――長きにわたり、悲しみの戦を繰り広げ、彼らは太古の昔より授かりし我らが世界を滅ぼさんとす。うつくしき兄弟は互いを憎み、やがては崩壊へと進んでいく……』」


「――すごいな」

 冒頭をそらんじてみせると、彼は圧倒されたように目を見開き、率直な感想を述べた。

「たいしたことないわ。もともと、物語が好きだったの。小さいころ、読んだことがあるだけよ」

 そう、はじめてその物語を読んだとき、わたしは震え上がった――忘れもしない。ある真冬……恐怖に捕われてしまったあの夜。

 暖炉の火がはぜる音より、遠くで吹雪く音の方が強く耳に残ったあの夜――わたしは、恐れたのだ……。


「……聖書みたいだよね」

 彼の声でハッと我にかえる。遠く昔の記憶の誘いから戻り、あわてて笑みを浮かべた。

「え、ええ……結局は、争いはいけないという戒めね。天罰が下るという。でも、あなた、それを最後まで読むつもり?」

「どうして」

 遠くで吹雪く音がした。また風が強まったのだろうか。


「結末を知りたいなら、教えてあげるわ。『ふたつの魂は安らかなることなく、今もさ迷い、果てを探す――』」


 怪訝そうに顔をしかめる彼に、わたしは諭すように手を重ね、有無を言わせぬうちに黒みがかった本を奪った。

「呪われてしまうのよ。もう、読むのはやめたらいいわ」

 これ以上、虜になってはいけないわ。本当に、呪われてしまうから。






■/□/■/□/■/□


 赤くなった指先をあたためようと、息を吹きかける。吐く息は白く、煙のように出ていく。

 凍てつくような寒さのなか、わたしはひとり歩いていた。向かう先は、庭園――今朝、彼がそこへ行くのを見たと聞いたからだ。

 その日のわたしは、きっとどうかしてた……たぶん、そろそろ限界だったのだ。

 嘘をつかれることも、つくことにも、こりごりだったのかもしれない。虚しいだけの笑みの仮面に、嫌気がさしていたのかもしれない。

 ――だから。

 そんなつもりなんてなかった。だってきっと、わたしはあなたを困らせるから。だからずっと、うまくやっていくつもりだったのに。

 あんなことを言うつもりなんて、なかったのに。



「またその本を読んだの?」

 わたしのあげた非難めいた声に、彼はそっと本を背後へ隠した。隠してから、それをまた隠すように笑みをみせる。

「すこしだけだよ……そうだ、君に伝えたいことがあったんだ」

 はぐらかそうとしたことが腹立たしい。嘘をつくなんて。

 はっきり見たわ。だれだってわかるわ。わたしに隠れて本を盗み読んで。そうして『すこしだけ』だなんて嘘をつく。

 寒空の下、手がかじかむことすらいとわず、ページをめくって読み耽ったのね?

 あなたはもう、虜――リタレンティアの呪縛からは逃れられない。

 愕然とした。彼の次の言葉に、さらに。


「明日、王宮にきてくれ。結婚の準備のために、そろそろ君を迎え入れたいんだ」


 え――?

 もう、そんな時期なの? 今、あなたに言われなくちゃならない事実なの?


「……兄上が亡くなったし……僕が次期国王になるんだ。この混乱した城を、国を、治めていかなくちゃいけない」

 淡々と彼は言葉を落としてゆく。そしてしまいには、ひどく柔く笑って見せた。

「君は王妃になるんだよ、エナーシャ」

 ――わかってたわ。わたしは、第二王子・シーラハンドさまと結婚するのよ。

 覚悟なんて立派なものではないけれど、それでも自分の運命として受け入れていたわ。

 だけど。

 ねぇ、どうしてかしら?


「……わたしは、あなたと結婚するの?」


 やっぱり、実際この時を迎えてみれば、ちがうの。苦しみが、ちがうの。

 突然すぎて、心がついていかない。『あなた』に言われたという事実が、たまらなく悔しい。

 彼は首をちょっと傾け、そして微笑した。

「――そうだよ」

 それからわたしの手をとり、身体を引き寄せ、そっと額に口づける。

 意味かわからなくて、混乱する……なんで、やさしくするの。

 彼は葡萄色の瞳を細め、それからわたしを強く抱きしめた。

 耳元で、くぐもったような、痛切な声がした――。


「名を呼んで、エナーシャ」


 ――だれの? いったい、だれの名を呼べというの。

 わたしは彼の肩に手をかけ、力を込めて身体を離すと、その魔力を秘めたような葡萄色の瞳を見つめた。

 止めようがなかった。

 怒りか、悲しみか、とにかく心は悲鳴をあげて震えていたのだ。


「あなた、だれ」


 口からこぼれた声は、ひどく冷淡だった。







これにて、第一章は終わりです。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


第二章もよろしくお願いします。


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