(3)
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嘘つき。
そう、彼は嘘をつく。
秋が終わり、冬がやってきた。「すぐに迎えにくるよ」と言った彼だったけれど、一向にそんな気配はない。たぶん、多忙なのだと察しはつく……急遽王位を継ぐことになったのだ。それなりにごたごたもあるだろう。
妃に迎えられるのは、ずっと先――。
「姫さま」
呼ばれて振り返ると、そこには庭師がいた。いつもきれいな庭園に保っている、初老の男の人。
「しばらくは庭にも顔を出せんでしょう。冬がきますし……雪が降ったら、見納めにしてください」
「雪が降ったら?」
はい、と庭師は頷き、つづける。
「雪化粧がうつくしいのです。まるで白い花を咲かせたようで……是非、ご覧になってください。どうか、吹雪く前に」
ふんわり積もる、汚れなき白……そう思うと、なぜか胸は切ない。
そんな思いを振り切り、わたしは笑って庭師に頷いた。
「ええ、わかったわ。初雪が降ったら、さっそく見にいくわ」
それから三日後、風はいっそう冷たくなった。そらは高く、彩りをつける花もないので、寒々とした庭が広がる。
……雪は、まだかしら。はやく、降って……。
そうしたら……花が咲いたら、彼が来てくれる。そんな気がするの。
だから、白い花よ、どうか、咲いて。
「エナーシャさま、どうかなさいましたか」
うろうろと廊下を歩くわたしを発見し、侍女が話しかけてきた。
「お身体に障ります。風邪でもひかれたら、大変ですよ。お部屋にお戻りください」
「でも――」
雪が、見たいのよ。もう、いや。
はやく来て。もうずっと会ってない。
わたしの愛しい――。
「あっ」
次の瞬間、わたしは制止する侍女の声も聞かずに走り出していた。
見上げた空から、ふわふわと白い塊が落ちてくる。吐いた息と同じくらいの白が、一面ひらひらと落ちてくる。
きれい。雪だ。
待ちどうしかった初雪に、胸は躍る。はやく白でいっぱいにならないかしら……?
「風邪をひくといけないよ、エナーシャ」
ハッと振り返る。今まさに馬車から降りてきた、彼。
馬車が走ってくる音すら聞こえなかった。それくらい、雪に見とれていたのだと思い、なんだか恥ずかしくなる。
「久しぶりだね。君をないがしろにして、悪かったよ……身体があかなくて」
「いいえ。お忙しいだろうと思っていたわ」
顔が引きつる。変な熱を帯て。
ああ、彼だ、と思って。
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「すっかり寒くなったね。不便はないかい」
「ええ。みんなよくしてくれるわ」
部屋に入り、ふたりであたたかい紅茶をすすりながら他愛ない会話をする。けれど、わたしの身体はいまだこわばったまま。
彼は寒さで赤くなった鼻の頭をすこしかいてから、やがてゆっくりとした調子で口をひらいた。
「戴冠式が春に行われることになったよ……そしたら、僕らの結婚式もする」
ああ、やっぱり。わたしたちが結婚するの。
「そう、よかったわ……あなたは、平気なの? 刺客など、仕向けられていない?」
「今のところは平気だよ」
彼はにこりともせずにそう言った。
「しばらくはこちらにいる」
「本当? お城のほうが安全ではないの」
「公では、僕は風邪で寝込んでいることになっているからね。平気だよ」
そう、彼はあちらに――。
ハッとする。ちらと見た彼の眼が、あまりにも鋭くて気後れしてしまった。
どうしたの――そう尋ねる前に、わたしの身体は彼の腕のなかにあった。
「シ、シーラハンドさま――ッ」
呼ぶ声は、彼の口のなかに消えていく。ただふたりの吐息だけが混ざりあう。
「や……やめっ……」
いきなりのことで頭がついていかない。身体は拒絶にわななく。
それでも彼は、抑えつけるようにわたしの唇をむさぼる。
頭は次第に鈍く、働らかなくなる。胸をしめる苦しさに支配されてゆく。
――いやだ。わたしは……わたしが待っていたのは――。
「――はあっ。お、おやめくださ……」
「しっ」
拒否するわたしをいさめ、彼は再びその唇を押し付けてきた。強く、強く。
はじめて彼と会ったとき、わたしは見たの――黒い翼を。
「……なぜ、泣く」
そっと目をあける。いつの間にか頬には、涙が伝っていた。
目の前には、ひどく苦しみに顔を歪める、彼。
泣くつもりなんて、なかった。なかったのに。
「エナーシャ、君は僕の妃だ」
彼は言うなり、わたしをそばのベッドに連れていき、押し倒す。ギシ、とベッドが重みで鳴く。
「まだ、わからない?」
――ちがうわ。ちがうのよ、シーラハンド王子。
わたしはただ……。
「あっ」
噛みつかれるように落とされた首すじへのキス。
ただ、痛みだけが走る――いいえ。
痛みと悲しみが、駆け抜けていった……。
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翌朝、しばらくは屋敷へとどまると言ったくせに、彼は急用ができたといって城へ帰っていった。わたしとは目も合わせずに。
あのきれいな葡萄色の瞳が、濁ってしまったような気がして……胸は潰れそうなくらい、息苦しかった。
しばらく彼は来ないだろう――そう思っていた矢先、彼は現れた。城へ帰ってから、三日目のことだった。
本当に急用だったのだろうか? ちがうわ。わたしには、わかる。
だって彼は嘘つき。
侍女たちもみんな、「姫さまのために急いでやってきてくださるなんて」だとか「次期国王でお忙しいのに」だとか言うけれど。そんなんじゃないわ。
彼はやっぱり来なかった。だって彼が来たもの。
「やぁ、エナーシャ。先日は急に帰って、悪かったね」
にっこりと笑って、彼は言う。漆黒の髪を揺らし、葡萄色の瞳を細めて。
「それにしても、冬到来だ」
窓から冬化粧をながめ、彼は笑う。ゆっくりと、花咲くように。
そっと目を落とせば、彼の手には黒みがかった本が握られていた。ぞっとさせる、あの――。
「わたし、結婚するの」
ふたりきりの部屋。わたしは彼に詰め寄る。
彼はちょっと眉を寄せたけれど、すぐに柔く笑った。
「ああ、そうだよ。僕らの結婚式は春に行われる。国中の人々に見てもらうんだ」
虚しさしか、残らないのよ。
わたしが、彼と結婚するなら、あなたは――。
――はじめて彼に会ったとき、わたしには見えた――白い翼が。
「キスをして」
その葡萄色の瞳を見つめて、そっと……わたしは、そっとつぶやいた。