第一楽章 魔女の調べ(1)
第一楽章 魔女の調べ
■/□/■/□/■/□
白い朝日があの人を照らし出したとき、わたしは本当にうつくしいと思ったの――。
「時間です」
侍女に告げられ、立ち上がる。ふんわり仕立てあげられた真新しいドレスは、雪のように純白で目に痛いほど。それでもその柔さがうれしくて、心地いい。
見上げれば、空は雲ひとつない快晴だ。風もないけれど、空気もそれほど乾いてはいないから過ごしやすい。
「なんだか変な気分だわ……改まってお会いするなんて」
やっと会える、愛しい人――。一方的だけれど。その空っぽの微笑みでも、うれしくなってしまうの。
はじめて彼を見たとき、翼が見えた――漆黒の翼が。
あまり笑わない、冷たい瞳……薄い唇は常に引き結ばれていた。やっぱり政略結婚なのかと実感し、虚しかったわ。
けれど次に会ったときはもっと虚しかった。柔い笑みの下に見せる暗い影に……いいえ、むしろ惹かれてしまうくらいの憂いに、わたしは目が離せなかった。
そして見たの――彼の背に生える、翼を。
白い、翼を。
「婚約は内密にってこと?」
甘い紅茶をすすりながら、苦笑して問う。庭園には薔薇の花がうつくしく咲き乱れていた。
彼はちょっと肩をすくめて、ゆっくりと口をひらく。
「ああ。兄上より先に、結婚なんてできないよ」
「そうねぇ、確かに」
くすりと微笑し、わたしは唇を小さく舐める。胸は高鳴り、くすぶる。
彼といると、とても幸せ。たとえそれが偽りの笑顔でも、わたしは惹かれてしまうもの。
国境の近くに屋敷がある。それなりに大きくてうつくしく、周囲の人々は公爵の城だと言っているけれど本当はちがう。この屋敷には、まだ大々的な結婚ができない第二王子さまの妃になる、わたしが暮らすのだ。
屋敷には庭園があって、その庭園には白い椅子とテーブルが置かれている。緩やかな時間を過ごすための憩いの場。そして、わたしと彼の密会の場。
密会といっても、国王等は知っていらっしゃる。だって彼らが計画したことですもの――わたしたちの婚約は、互いの親が策略したもの。
いわゆる政略結婚というやつだ。幼いころに引き合わせられ、この方の后になるのだと言われて育ってきた。
けれどわたしはちっともお父様を憎いだなんて思わない。むしろ感謝したいくらいだわ。
彼とめぐり会わせてくれたすべてに、わたしは。
「エナーシャ」
ハッと顔をあげる。やだ、いつの間にかぼうっとしていたみたい。
あわてて顔を戻し、目をふせた。恥ずかしくて仕方がない。
「真っ赤な薔薇が咲いたんだ。見にいこう?」
くすりと笑って彼はわたしの手を引く。
ああ、もう。
赤い薔薇よりももっと、わたしの頬は赤く染まるわ。あなたのせいよ。
漆黒の髪に、葡萄色の瞳。闇のなかでも鋭く光る刃のような、それでいて柔く包んでくれるような、そんな人。
「僕たちが結婚したら――」
「え?」
彼を振り返り、思わず大きな声を出す。なんだか今日はいつもより話しかけてくれるから、うれしくて。
けれど彼は戸惑ったように眉根を寄せ、それ以上つづけるのをやめてしまった。「なんでもない」とはぐらかして。
もし、わたしたちが結婚したら――?
ねぇ、それはどういうこと?
ごくりと生唾を呑み込む。薔薇をながめる彼のきれいな横顔に視線を滑らせながら、わたしは冷たい感情になった。否、寂しい感情が顔を出してきた。
ねぇ、それはどういうこと? わたしは、“あなた”と結婚するの――?
もうすこしでそんなことを尋ねそうになったけれど、なんとか呑み込んで。わたしは目をふせて、この苦しい衝動をやりすごした。
■/□/■/□/■/□
「なにを読んでいるの」
彼と出会ってから一年が経ったある日のこと。その日も彼はこの屋敷にやってきてくれていた。
いつものように、白い椅子に腰かけて紅茶をすすりながら読書をしている。黒髪にあたたかな陽の光がふりそそいでいた。
「聖書なのかな。よくわからないけれど、父の書斎にあったんだ」
彼は顔をあげると、小さく笑んで目を細める。その瞳の葡萄色が濃くなった気がして、胸は切なく鳴いた。
彼のこの葡萄色の瞳は、父親譲りのものだ。彼のお父様には子供がたくさんいらっしゃるけれど、この瞳を継いだのは彼らだけらしい。
とても素敵な色だと思う。うん、魅力的。
世間の人々は栄光に輝く第一王子さまを羨むけれど、わたしは彼だって負けていないと思う。わたしにとっては、彼がいちばん。
「あなたは神を信じるの?」
ふいに衝動的な疑問が浮かび尋ねてみる。国によって崇める神はちがうけれど、この人もそんな存在を信じるのかしら?
「君はどうなの」
「わたし?」
んん、と軽く唸り、顔をしかめる。
「いるのかもしれないわね。信じたいけれど、よくわからないわ」
飴色の髪をかきあげる。風が甘い花の香りをのせて吹いてきた。
彼はちらと微笑し、そっとわたしの髪を一房つかむと、それにキスを落とす。甘い悲鳴に胸は潰れそう。
「――僕は、信じるよ」
そう――やっぱりあなたはそうなのね――そんな言葉を呑み込んで、わたしは笑顔の仮面をかぶる。
卑怯? いいえ、お互い様でしょう?
「寒いわ。そろそろ部屋へ戻りましょう」
彼の手を取り、歩き出す。彼は読んでいた黒みがかった紅の本を手に持ち、つづく。
――リタレンティア――それがその本のタイトルだった。
横目でちらとそれを確認し、何事もなかったかのように取り繕う。胸の内では激しく感情が揺さぶられているのに。
ああ、嘘つき。いつもあなたは嘘をつくのね。
その本は聖書などではないわ。狂喜の書物よ。
「エナーシャ」
ふいに足をとめ、彼が呼ぶ。なにか切なさを感じ、胸の奥がぎゅっとなった。
葡萄色の瞳をまっすぐこちらに向け、彼は恥ずかしくなるくらい真剣な顔で口をひらく。
「名を……」
「え?」
風がさわさわと吹く。無邪気に髪をもてあそび、声をあげて天まで駆けてゆく。
彼は一度目をふせた。けれどすぐにまたこちらに視線を戻す。
「名を、呼んで」
笑顔はない。ただ、必死に。
きっと、わたしも彼も求めているだけなんだ。そして守っていたいだけなんだ――なにを?
そっと手をそえる。意外にも冷たかった指先に、熱がうつるよう願いながら、息をはいて言葉を発する。
呼んであげるわ。それであなたが、彼になれるなら。
「――シーラハンドさま」
抱きしめられながら、この空虚な悲しみに終わりがくることを願う。名を呼んでやるあとに見せる彼の微笑が、たまらなく苦しい。
だって知っているもの。この安堵が一時的なものであることを。
黒みを帯た、紅い本……あれがわたしたちを嘲笑っているみたい。
――リタレンティア――滅びの唄……すべてを呑み込み消し去る、喪失の歓び。
かつて天空の世界を二分し揺るがした双子神の物語。やがて破滅に向かう世界で、すべての神々の神であられるリタレンティアが彼らを滅ぼした唄……。
呪われたいの? 呪いたいの?
ああ、わたしたちはただ、嘆くだけ。