(2)
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「これを飲みなさい」
それは俺たちが十二の誕生日を迎えた日のことだった。
母に部屋にくるよう命じられた俺は、いやな予感がしていたんだ。そして入るなり、あの人はそう言った。
差し出されたグラスには、白っぽい半透明の液体が並々と注がれている。
俺は必死で怪訝な表情を押し隠し、部屋の様子を盗み見る。
「……シーラハンド王子は?」
「今日の誕生会で疲れたのであろう。あの子は今別の部屋で眠っておる」
今度こそ、俺は顔をしかめるのを隠すのに苦労した。
いつもの母ならば、絶対に質問は許してくれないはずだった。いいから飲めと、その手に持つわけのわからない液体を無理矢理口に押し込んだとしても驚きはしない。
彼女はベッドに優雅に腰かけたまま、さあ、とグラスを掲げる。
「これは北国からの祝いの品物よ。カスパルニア国にとっては大事な国からいただいたもの……さあ、お飲みなさい」
たしかに、破かれた包みと、飲み物の瓶の蓋が開封されてあった。
「……ですが母上、シーラハンド王子が口をつける前に、俺なんかが飲んでもよろしいのですか」
ああ、母はおかしい。普段なら、絶対にこんなことはしないのに。
ぴくり、と彼女の眉が動いた。
「まあ。あの子にこれを飲ませる? 馬鹿なことは言わないで」
ずい、とグラスを押し付けられては仕方がない。受け取り、口へ近づけた。
思わず、顔を歪める。
「これは……」
「おまえは構わずに飲むがいい。なに、死にはしない」
母の声はひどく冷淡だった。軽く笑いながら、彼女はつづける。
「たしかに、この品には毒が入っておる。北国の奴らめ、宣戦布告ときた。だけれど……飲んでもいないのに、これに毒があったと声高く騒いだとて、知らぬぞんぜぬで通されてしまうやもしれぬ」
くつくつと声をたて、彼女は天を仰ぐ。
「だから望み通りに被害を出してやればよい! 第二王子は毒にて混沌……体よく戦えられる……」
母はくもった眼でこちらを見すえた。
「さあ、おまえの出番ですよ――影」
俺は、正体の見えない燻る感情を胸に感じながら……その毒を、煽った。
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喉が焼けるように熱く、痛い。その痛みは肺から血管からなにからなにまでもを焼き尽くす炎のように、身体中に広がっていく。意識など到底保っていられず、すぐに暗く混沌とした世界へと堕ちていった。
――ああ、夢をみていたのか。
過去の記憶が頭のなかを駆け巡る。俺とまったく同じ顔をしたあいつが、俺を呼ぶ。
おかしな奴だ。母から疎まれている俺にも、王子だけは笑顔を向けてくれたから。
「僕が殺されたら、次はおまえが王子になればいい」
そう言って笑ったシーラハンド。
最初、言葉の意味がわからなかった。
俺が王子に? まさか。母さまはそんなこと許しはしないよ。きっとこいつは、“影”がどんなものかよくわかっていないにちがいない。
それでも、うれしかった。
俺とシーラハンドは全然ちがう。
よくみんな騙されるものだと、内心冷ややかに笑うこともある。俺はシーラハンドのようなカオはしない。あんなふうに笑うことなんてできない。
汚れがない、きらきらしている、そんな笑顔。俺には真似できない……。
だけどあいつは言うんだ。「シダみたいに、柔らかく笑えたら、どんなにカッコイイだろう」って。
それがやっぱり、ちょっとだけうれしかった。
それから、たぶん、趣味もちがう。俺は結構読書が好きで、いろいろ読みあさりたくなるけれど、シーラハンドはどちらかといえば剣術を好んでいた。別にあいつが危ないときは俺がおとりになればいいだけだけれど、王子の影ならすこしは戦えたほうがマシかな、なんて思う。
そんな風に思っていた矢先、あいつは「僕はもうすこし勉強したほうがいいと思うんだ。シダみたいに読書も好きにならなくちゃ」なんて言うから驚きだ。
それからしばらく、なにやら書斎からしばしば本を持ってきては読むように心がけていたけれど、すぐに飽きて眠ってしまうのがあいつの常だった。
おもしろい、奴だ。
俺の片割れの王子さまは、最高だ。
――場面は変わる。黒い闇が手を伸ばしてきた。
俺は、認めたくなどない。母と呼ぶべき人から息子と見なされず、ただの影の人形であるしかないということは、俺という存在を否定するのだ。かといって逆らえるはずもなく、人形のように振る舞うしかできない無力を噛み締めることさえ、認めたくはなかった。
だから、俺は俺のために、生に執着するために、人形を演じてやろう。
無理矢理従うのではなく、俺は俺の意志で人形をやってやるのだ。
そう考えなければ、俺は俺でなくなってしまうではないか?
暗い、暗い、檻のなか。逃げることなどできやしない。
足元にあるはずの影は、影ではなく光で、だから俺自身が影なのだと。
世界は、俺を拒絶する。
俺、俺、俺俺俺……
消えたくない。俺はここにいるのだ。名を持っているのだ。
俺は。
「シダ」
ふっと、その声に引きつけられるように、目をひらく。
「シダ……大丈夫?」
覚醒していく意識のなかで、手にあたたかなぬくもりが蘇ってくる。
「よかった……シダ」
何度も名を呼び、そいつは俺の目元をさっとなでて、「泣くな」とつぶやく。
泣く? 俺が? まさか。いつの間に。
気づけば頬に生温い滴がつたっていたから、あわてて顔を覆った。
「だ……大丈夫です。平気」
生きていた。俺は俺だ。シダだ。
他のだれでもない。シーラハンド王子なんかじゃない。
「……ッ」
涙が出る。苦しい。苦しい苦しい苦しい!
焦ったように、そいつは俺の名を呼ぶ。
ああ、なんて心地いい。
「……お願い……です」
手に顔をうずめ、そっとつぶやく。シーラハンドは聞き漏らすまいと耳を近づけてくれた。
今日だけだから。もうこんなお願いしないから。
だから今日だけ、今だけ、たしかめさせて。
「……俺は……だれですか?」
息を飲み込む気配がした。きっと引き攣った顔をしているにちがいない片割れを見るのが怖くて、俺は手で顔を覆ったまま待つ。
答えは聞きたいような、聞きたくないような、そんな気分だった。
俺は影だ。わかりきってる。だけど――。
「おまえはシダだよ。僕の弟……当たり前じゃないか」
思わず顔をあげれば、きょとんとした顔のシーラハンド。
途端にたまらなくなって、俺はそいつの手を握りしめていた。
「名を……っ呼んで」
嗚咽まじりに願った言葉にすら、そいつはちゃんと応じてくれる。
「シダ……シダ……」
うん、ありがとう。
俺のたったひとりの兄貴。
大切な片割れ。
もう大丈夫。俺はシダ。
俺はこれからも、おまえの影をやり切ってみせるから。
あの、アネモネの花のように。
――『期待』、『はかない夢』、『薄れゆく希望』、『嫉妬の為の無実の犠牲』……この花は春先に咲いて、『風』を意味したりもするんだって……。