第一章 七話「特別な力」
「祝福……だって……?」
「ええ」
モーリスが頷いた。その頬は紅潮している。
「貴方は特別な力を持つ者の中でもいっとう素晴らしい。途方もないことを成し遂げる。貴方を視てからずっと、私はその日を待ち望んでいます」
「俺にはそんな大層なことはできんし、する気もない」
「いえ、貴方にはできますよ。それに、しなければならない理由があるはずです」
その言葉にイデアの顔が浮かんだ。運ばれていった彼女は今どんな治療を受けているのだろうか。しばらく会えないと言われたので余計に気になる。
だが、イデアはローレンスが何かを成し遂げる理由にはならない。ここに来た時点で彼女は救われたのだから。
黙り込むローレンスに、モーリスが首を振って立ち上がる。
「まあ、前置きはこのくらいにしましょう。貴方にはまず、知ってもらいたいものがあります」
そして近くの本棚から一冊の本を出してきたかと思うと、それを開いた。ぱらぱらと軽快にページが捲られる。やがてモーリスはとあるページでぴたりと手を止めた。
そこには読めない字と共に、絵が描かれていた。頭から突き出る二本の角と、背から生えた一対の翼。それが人間らしきものに付け加えられている。
「これは……?」
「『悪魔』ですよ。寝物語や絵本にもよく出てくるでしょう?」
確かに出てくる。それに、前の世界でもこの概念は存在していた。しかしそれはあくまで架空の存在の筈だ。それこそ寝物語や絵本で、子供が悪いことをしないように悪役にされる存在。
「今この世界には、『悪魔』が存在しています。そしてそれは庶民が周知するところでもある。もっとも、首都の人間には知らない者も多いでしょうけどね」
「待て、悪魔がなんだって?」
「実在しているんですよ。黒い二本の角に翼、赤い目。皆判を押したようにその特徴があります。ここまではいいですか?」
よくない。全然よくない。
(悪魔が実在って、どういうことだよ……)
混乱するローレンスは、こんな状況でもそれを顔に出さまいと必死だった。しかしこの男にはきっと、内情などすべて見通されているのだろうという気もする。
「悪魔には通常の武器も火薬も効果がありません。膂力は低級悪魔でも人間の三倍以上、私たちは彼らの餌です」
「そんなやつらがいるのにどうして俺たちはこうして平和に暮らしてるんだ」
当然の疑問にモーリスはさらりと答える。
「それが、君の……君たちの持つ『特別な力』のお陰なんですよ」
「君……たち……?」
「ええ。貴方のように異世界から生まれ変わり、さらに記憶を保有している人間のことです」
「俺以外にもいるのか!?」
「勿論」
モーリスは頷いた。そして、とんでもない爆弾を落とした。
「君も含め、皆この世界に引き寄せられた人たちですよ。この世界を正すため、元の世界から強制退場させられたんです」
「なッ……!?」
強制、退場。それはつまり、桜庭隼人の死には、何らかの力が働いていたということか。ローレンスは目の前の男に掴みかかる。部屋の隅に控えていた使用人が動いたが、モーリスはそれを片手で制した。
「構いませんよ。ローレンス君、落ち着いて下さい」
「落ち着いていられるか! どういうことなんだ、説明しろ」
「うーん。そう言われても、『分からない』としか言いようがありませんね」
「は……?」
モーリスの言葉に力が抜ける。
「分からないのに何で知ってるんだよ」
「私は先見ですから。とにかく君たちは何者か、あるいは何かの意思でこの世界に連れてこられた。その使命はただひとつ。『悪魔』を祓い、この世界の均衡を保つことです」
「俺に……その力があるって……?」
「ええ」
頷くモーリスにはまったく迷いがなかった。ローレンスは自身のそんな片鱗を、感じたこともないのに。
「正確には君が十の時に覚醒した……といった方がいいでしょうね」
「十の時? それって……」
「そう、貴方が記憶を取り戻した時ですよ」
記憶を取り戻すと同時に特別な力を手に入れた。モーリスはそう言いたいらしい。だがやはり、ローレンスに自覚はない。自身の手を見つめるローレンスに、モーリスはくすりと笑ってその指先をひらめかせた。彼の指が自分の喉仏に触れるのに、ぞわりと鳥肌が立ち下がる。
「な、なにするんだ」
「見当違いのところを見ているものですから、おかしくて。教えて差し上げようと思いまして」
「なんだと……?」
ローレンスはモーリスから手を離し、自分の喉に手をやった。
「声……?」
「惜しい。声は声なのですが、もう少し難しいものですよ」
まるでなぞかけのようだ。分からず悩むローレンスに、モーリスが再び口を開く。
「いいですか? 君たち転生者は、遅かれ早かれ記憶を取り戻します。そしてその時、この世界ではない、別世界の『理』をも獲得するのです。この世界の住人には決して持ちえない力というのはそれです」
「どういうことだよ」
「まだ分かりませんか? それでは答え合わせを」
モーリスが指を立てて言った。
「……ローレンス君、この世界で、誰かが歌っているのを見たことはありますか?」
「…………!?」
その問いに、ローレンスは考え込んだ後はっとした。
「ない、……」
そう。この世界には『歌』がない。微かなメロディーでさえも存在しない。寝物語はあっても子守唄はない。記憶を取り戻してからもそれを今まで疑問に思わなかったのは、ローレンスが音のない十年を過ごしてきたからだ。
彼がにっこりと笑う。
「ええ。それこそが、その概念こそが、貴方の特別な力なのですよ。ローレンス君」