第一章 六話「先見の待望」
モーリスは大きな建物ではなく、その横の奇妙な形をした塔に入っていく。歪んだサルの置物、よく分からない仮面群、きらきらと煌めく水晶。その塔には不思議なものが詰め込まれているようだった。
「ここ何」
「気になりますか?」
にんまりとされて腹が立つので答えなかった。
内心驚いたのはそれだけではなかった。もうひとつは、その塔にいる者がモーリスを見るなり皆跪くことだった。頭など、ほとんど地につきそうだ。死んでもこの男に頭を下げるのは嫌なので、それを平気でしている者たちが信じられない。
(まさかこいつらの一員になれってんじゃないだろうな)
そう思いついて、背筋が寒くなった。
ローレンスはモーリスを本能的に苦手としていた。彼には何かある。長年の勘でローレンスはそう確信していた。
モーリスは跪く者たちの間をこともなげに通る。ローレンスもそれに続いた。階段をいくつも登り、やがて辿り着いた先はひとつの部屋だった。
その部屋は塔と同じで、たくさんよく分からないものが置いてあった。モーリスは真ん中にあるソファーをローレンスに勧め、自分も向かい側に座った。
「さて、改めて。ローレンス君、ようこそ王宮へ……といってもここは先見の塔だけれど」
「さきみのとう?」
「ええ。その言葉の通り、この世界の先を視る塔です。いや、正確には私なんですけどね」
「どういうことだよ」
ソファーもふかふかでやはり落ち着かない。部屋に入ってきた使用人らしき男が、高そうなカップをふたつ、ソファーの間のテーブルに置いた。その中には薄茶の液体が入っている。恐らく紅茶だろう。
「どうぞ。温まりますよ」
「じゃあ遠慮なく」
ローレンスはそれを手に取ると、作法も何も気にせずに一息で飲み干した。意外に熱くはない液体が喉を通り、胃に落ちる。温かい飲み物などいつぶりに飲んだだろうか。カップを置くと、モーリスは意外そうな顔をしていた。
「なんだよ」
「いえ、何かを盛っていると思われるかもしれないと思っていましたので」
「盛らなくても使用人を使えばいくらでも俺をどうこうできるだろ。それよりも、さっきのがどういう意味か教えろ」
「なるほど、君は聡明ですね。因果とは面白いものです」
モーリスはくすくすと笑って言った。そして自身もカップの中の紅茶を一口飲んだ。
「さて、それでは先程の答えですが。まず私は『先見』です。まあ言ってみれば未来を視る力を持っています」
「は? 信じられるかよ」
ローレンスはカップを素手で叩きわりたい気持ちになった。何を言い出すかと思えば。
(未来が視える、だと?)
言われてみればこの塔はそういうまじない使いの住処のようでいかにもいかがわしい。前の世界でも占いは信じない派だったローレンスは、当然今もそうだった。
「それも無理はありません。では、何か当ててみましょうか」
「スラムの人間なんて幾らでも監視できる。信用できない」
窓の隙間から覗かれている可能性だってあるのだ。金持ちと違って番犬を飼っているわけじゃない。モーリスはうんうんと頷いてから、その薄く、奇妙に艶めく唇を開く。
「ええと、ハヤト・オウバでしたっけ?」
「!!??」
ガタン、と音がした。それはローレンスが思わずテーブルに足をぶつけた音だった。しかしその痛みも感じないほど、受けた衝撃はすさまじいものだった。
ローレンスは自身が転生者であると分かってからも、誰にもその素性を明かしたことはなかった。その理由はただ、「そんなことを言っても何の意味もない」からだった。十歳になるまで記憶の戻らなかったローレンスにとって、「濃い」のはあくまでこちら側だった。それに言ったとしても、スラムの飢えたガキが狂って妄想に取り憑かれたとしか思わないだろう。事実ローレンスも、記憶が戻った当初はそうではないかと幾度も疑った。
だがそれにしては向こう側の記憶は鮮明だった。一人の十歳の少年が妄想するにはリアリティーがありすぎる。
その転生前の名前を、モーリスは言い当てたのだ。驚きもするだろう。これはこの世界に存在するはずのない名前なのだから。
「……お前、一体何なんだ……」
「先程も申しましたように、先見ですよ。ハヤト君、いえ、ローレンス君」
「先見なら、俺の過去を知ってるのはおかしいんじゃねえの」
その疑問に、モーリスは首を横に振り両手をぱっと広げた。
「いえ、おかしくありませんとも! 私が貴方を視たのはもう十八年も前のことですからね!」
「なんだと……?」
確かにそれならば、「先見」には間違いない。その当時、桜庭隼人は十四歳の中学生だったのだから。
「貴方を視た時には正直、驚きました。私たちの文明とはまるで違う世界で生きている人のことを視る日が来るとは思いませんでしたから! けれど、ええ、同時にとても嬉しかったのです」
「嬉しい……?」
その歓喜は、ローレンスの持つ「特別な力」とやらに起因するものなのか。
その時、モーリスのずっと閉じていたその瞳がうっすらと開かれる。夜闇よりも黒い瞳にはまるで烙印のように、真白の五芒星が刻まれていた。それは夢見る乙女のように潤んでいる。モーリスは広げていた両手をゆっくりと下ろし、恍惚とした表情でローレンスを見て言った。
「ええ。祝福の子よ。私は貴方と会えるのを、十八年間ずっとずっと、待っていたんですよ」