第一章 三話「来訪者」
転機が訪れたのは彼女と暮らし始めて3年目の冬だった。彼女が咳をするようになり、それは段々酷くなった。スラムでは何故だか王宮の使者がものものしい護衛を連れて闊歩しているという噂もある。
「おい、大丈夫なのかよ」
「うん、っこほ、う……」
ローレンスはこほこほと苦しそうに咳き込むイデアの背を摩った。
咳がマシな時には客を取っていたが、今ではもうまともに布団から出ることもできない。たまに元気な日には、残り数少ないマッチを擦った。ローレンスは小間使いの仕事に文句を言わずやるようになった。今はとりなしてくれるイデアはいないのだ。今クビになれば、彼女の食事を用意することができない。
こき使われても言い返せない日々はかなりストレスが溜まったが、イデアのためだと考えて堪えた。
そう、いつしかローレンスにとってもイデアは大切な存在となっていた。だから絶対にイデアを喪いたくはなかった。
最後にはローレンスのことすら分からなくなってしまった母のことが脳内を過ぎる度、寒いものが背を駆けのぼった。イデアもいつか、物言わぬ死体となってしまう。あの日雪に塗れてその顔すら見えなかった男のように、あるいは夏に腐って蛆にたかられている女のように。
その日、ローレンスは貰った数少ない給料を盗まれないようしっかり握りしめ、露店でりんごを買った。三等分して、三分の二をイデアにあげるつもりだった。イデアが働けなくなってから圧倒的に収入は下がり、一日一食がやっとだ。これではイデアの病気がよくなるわけもない。
今度はりんごを盗まれないよう足早に歩いていた時だった。ローレンスの前に立ちふさがったのは、立派な鎧を着た騎士と、これまた立派なローブを着てフードを被った人物だった。
フードの人物がローレンスを見て言う。
「この少年ですね」
「本当ですか? とてもそうは見えませんが」
周囲の騎士たちはそれに懐疑的な声を出した。ローレンスは訳が分からず、一二歩じりじりと下がる。
今は盗みもやっていないし、捕まる道理はない。逃げなければ、と思うのは当然だった。
「あっおい!」
逆方向に向かって脱兎のごとく走り出すローレンスに、騎士たちが慌てた声を出す。がしゃがしゃと鎧の音を立てて追ってくるが、その装備の重さがあだとなって足は遅い。
スラムは自分の故郷だ。どこにどんな道があるかは熟知している。ローレンスは前世よりも身軽な体を利用し塀によじ登ったり屋根を駆けたりして、メチャクチャに逃げた。
彼らの気配が完全にしなくなるところまで来る頃には、ぜいぜいと息を切らせていた。
「な、なんだあいつら……」
彼らは自分を探していたようだった。しかし何故? 考えても分からない。
「まあ、巻けたならいいか」
ローレンスは溜息を吐いて、歩き出す。そしてイデアの家へと帰った。イデアは今日は起きていたようで、「おかえり!」と声だけは元気に返してくる。それも随分と枯れていたが。
「ただいま、イデア。これ今日の飯」
「わあ、ありがとう! っこほ、……いつもごめんね」
「何言ってんだよ。俺は好きでやってんだ。同情とかじゃねえから勘違いすんなよ」
そう言えば、イデアはそっか、と笑った。その顔は青い。今日も体調は良くないのだろう。ローレンスは手の中のりんごを見つめた後、服の綺麗そうなところで拭いて、彼女に投げた。
「……俺、出先で食べて帰ってきたから、それはイデアにやるよ」
一応嘘ではなかった。イデアの友人の娼婦から、飴玉をいくつか貰ったのだ。薬でも入ってやしないかとひとなめだけしたが、大丈夫そうだったので全部食べてしまった。本当はイデアにも持って帰ってやろうと思ったのだが、一粒しかないそれに欲が抑えきれなかったのだ。
「本当!? ありがとう。ローレンス、仕事頑張ってんだね」
「まあな」
イデアがいなくなってから、娼館の主人のローレンスへの風当たりはかなり悪くなった。そのせいで給料も前より下がっているが、それをイデアに話す気はなかった。
ドンドン、と家の扉が叩かれたのはその時だった。
「あれ、誰だろう?」
イデアが首を傾げる。イデアの友人の娼婦がたまに見舞いにくることはあったが、ローレンスは嫌な予感がした。
「ローレンス、出ないの?」
「……うん。多分厄介ごとだから」
ローレンスは頷いた。扉はしばらくどんどんと叩かれていたが、やがて音が止む。かと思うと、唐突にバコンと大きな音がした。埃が舞い上がり、視界を奪う。その中で、埃を掻き分け来る人影が見えた。
「ッごほ」
そう咳き込んだ彼の声には覚えがあった。先程のフードの男だ。彼が手を振ると、多少埃の煙が払われ、予想通りの人の姿が現れた。
「やあ、さっきぶり」
フードを取ったその人は、さらりと長い髪をなびかせ、にっこりと笑った。