第一章 二話「ぬくもり」
そして、にっと笑って、彼女は言った。
(こいつ、馬鹿なのか?)
手を差し伸べてきた彼女に、ローレンスは思う。
スラムでは誰も他人を助ける余裕などない。現にこの女も、服はつぎはぎだらけ。見える肌には血が滲んでいる。恐らくは娼婦で、客の相手をしてきた帰りなのだろう。
それなのに彼女はからりと笑って、こちらに手を差し出してくる。
「……臓器でも売る気か?」
そう問えば、彼女はきょとんとした後きゃははと笑い声を立てた。
「そんなことしないよ! っても信じられないだろうけどさ。でも、そこにいたら死んじゃうと思うけど」
ほら、あの人みたいに。
イデアはそう言って、ローレンスから少し離れた路地の隅を指差した。そこには一人の老人が座りこんでいたが、彼は微動だにしない。冬だから虫はたかっていないが、死んでいることが一目で分かった。
「……」
「特にもてなしもできないけどさ、お入りよ」
少女は相変わらずにこやかにローレンスに話しかけてくる。
「何なんだお前。どんな見返りを望んでるんだ」
「見返りかあ」
考え込んだ彼女はやがて言った。
「話し相手がほしいな。だって一人は寂しいじゃない?」
一人が、寂しい。その言葉はローレンスの柔らかいところに突き刺さった。
ローレンスは差し出された手を取らず、自力で立ち上がった。後ろを振り返れば、確かにローレンスが寝転んでいたところの真後ろに扉があった。
ここが彼女の家らしい。
「アンタ、名前は?」
もう一度彼女が尋ねてくる。悩んだ末に答えた。
「――ローレンス」
桜庭隼人はもういない。ここにいるのはちっぽけでやせっぽちのスラムのガキ一人だ。
雪はしんしんと降り、次第に路地を白く染めていく。あの老人は、次に見た時には雪だるまのようになっているかもしれない。
「さあ、おいで。何もない手狭なところですが、どうぞ!」
少女が扉を開いてローレンスを招き入れる。ローレンスはやや逡巡してから、その敷居をまたいだ。
久しぶりの室内だった。
そこには本当に何もなかった。強いて言うのなら、床に布切れが大量に敷かれ、ごく小さな炉端があるくらいだ。
彼女はそこにマッチで火をつけた。
「へへ、いつもはつけないんだけど、今日は贅沢」
貴族ならはした金で買えるそれが、スラムの住人にとってどれほどの高級品であるか。それによりもたらされる火に、ローレンスはよろよろと炉端に寄った。手を翳すと、熱いほどのぬくもりが与えられる。
彼女は部屋の隅に置いてあった袋からパンを取り出してきた。ローレンスも幾度か盗んだことのある固くて日持ちのするやつだ。それを惜しげもなくローレンスに与え、彼女もそれを火に当たりながら炙って食べ始める。
二人ともあっという間に食べ終わった。彼女がほう、と一息をつく。ローレンスも久しぶりの食事が泣きそうなくらい幸福で、それを誤魔化す為に呟いた。
「……暖かいな……」
「ね。あったかい」
そう言った少女は、にんまりと笑ったかと思うとローレンスににじり寄って来た。継ぎはぎだらけの服と砂まみれの服がくっつく。
「くっついた方がもっとあったかいね」
その少女の行動にローレンスは動揺した。
「何、そういう口?」
所詮は娼婦、快楽に心をやられてしまっているのか、と思ったのだ。しかしイデアはそれに慌てて弁明してきた。
「違うって! ただあったまりたかっただけ。私も今日これ以上したら死んじゃうわよ」
そして何かに気がついたように、ローレンスの前髪を掻き分けた。咄嗟に跳ねのけようとするが、彼女がローレンスの瞳を見る方が早かった。
「……へえ、君、すっごく美人だね」
「よく言われる」
「大変だよねぇ、苦労しない?」
「する」
ローレンスとしては一言も喋りたくないほどに困憊していたが、それでも口を開いたのはきっと。
『一人は寂しいじゃない?』
彼女の言葉が今も脳内でリフレインされているから。
ローレンスも、まともに人と喋るのは久々だった。彼女は竹を割ったような物言いで喋り、それはローレンスにとってなかなか心地よかった。何より人と話すことは、思ったよりもずっと、安らいだ。
しばらく話して(といっても、ほとんどイデアが一方的に喋っているだけだったが)、とうとう限界がやってきた。眠気は最高点に達し、ローレンスはうつらうつらとし始めてしまった。
「ねよっか」
彼女の言葉に頷く。彼女は火を消してからローレンスを布の塊の上に誘導した。そしてそこにもぐりこむ。
「いっぱい時間をかけて集めたんだ。これ、いいでしょ。お布団」
布団で寝るのはいつぶりだろうか。布はお世辞にも良い匂いとは言えなかったが、スラム暮らしの長いローレンスにはさして気になりはしなかった。少女がまたひっついてくるが、今度は逃げようとは思わない。彼女の体は、火に当たっていたのにまだ冷たかった。
「……アンタ、俺が寝てる間にアンタを殺すとか思わないわけ?」
思わずローレンスはそう尋ねる。すると彼女はうーんと唸った。しかしやがて、あははっと笑う。
「そんなこと言う人は、絶対しないんだよ」
「それは……!」
それは結果論だ。ローレンスが刃物を隠し持っていれば、寝ている少女など一突きだ。そうすればこの家はローレンスのものになる。
もし持っていたらどうだろう、と考えても、きっと殺さないだろうな、と思う自分が嫌だった。
「ねえ、ローレンス。こっち向いて」
彼女と逆の方を向いていたローレンスは、その呼びかけに答えない。すると彼女はよりぐっと体を寄せてきた。
「おやすみ!」
「……おやすみ」
今日会ったばかりの少年に、ここまで身を寄せられる神経が分からない。体を売っているから麻痺しているのかもしれない。
ローレンスは彼女の体から離れる気にはならなかった。何故だか逆に目が覚めてしまったが、やがては眠りについた。最近で一番、安らかな眠りだったかもしれなかった。