第一章 一話「蘇る記憶」
(あ、俺の名前、桜庭隼人じゃん)
そう思い出したのは、隼人が……いや、ローレンスが路地裏でぶっ倒れている時のことだった。
思いっきり死にかけた瞬間に唐突にローレンスの脳裏を駆けまわる記憶があった。それは自分のものであって自分のものではない記憶だった。
自分はかつて、日本という国で「桜庭隼人」という名前の人間だった。日本という国はとても豊かで、人々が飢えない仕組みや、誰かに命を狙われないような治安が存在していた。隼人はその中で、ただの高校生として生きていた。
何となく勉強して、何となく運動して、何となく友だちとつるんで、至って普通の生活を送っていた。
そのぐらいの年頃の奴にありがちな、何となくの変身願望はあった。特にその頃の日本では「異世界転生」とかいうものが流行っていた。
例えばトラックとかにぶつかって、あの世じゃなくて別の世界にいくというもの。隼人はそれを横目で見て「くだらねえ」と唾棄していたが、そういうことがあればと想像してみることもあった。そうすれば気持ちいい、かもしれないと少しだけ憧れもした。
隼人の知っている異世界転生の話は所謂チート系で、現実世界で冴えなかった主人公が異世界で輝く、というストーリーが多かった。最強。その言葉が嫌いな男子高校生はいない。
桜庭隼人という人間には特段何の取り柄もなく、強いて言うのならば図太すぎることだけだった。物怖じというものを知らず、言いたいことは大体言ってきたし、やりたいことも臆さずやってきた。
それ以外には、スポーツも勉強も冴えなかった。趣味はカラオケ。まあこれも高校生としては妥当なところだろう。それも一人で歌うのが割と好きだった。友だちには「陰キャかよ」と馬鹿にされたが、それは隼人にとっては些細なことだった。やりたいようにやるのだ、自分はと気にも留めなかった。
下に妹が二人いて、家での肩身は父ともども狭かった。二人とも中学一年と三年というお年頃で、廊下でばったり顔を合わせるだけで「どっかいってよ!」と叫ばれる始末。その癖勉強を教えてほしいとねだってきたり、自分のプリンを勝手に食べたり碌な奴らではなかった。小さい時にはいじめっ子から庇ってやったこともあるというのに。
桜庭隼人の世界は概ねそういったもので構成されていた。
――変身願望と言ったが、そんな大層なものではなかったかもしれない。ただ少し……たまたま漏れ聞こえたカラオケの歌を褒められるとか、歌で食べていけたら、とかそういうちょっと恥ずかしい、いつか黒歴史になりそうなことを思い描いていただけだ。
そしてあの日、隼人はいつものようにカラオケに行く途中だった。くたびれたスニーカーを履いて家を出て、いつもの交差点で信号待ちをしていた時だ。
「きゃははっ、やめてよ!」
近くで小学生が走り回って遊んでいた。隼人は「ぶつかったら殺す」と不穏なことを考えていた。基本的にガキは好きじゃない。うるさいし、言うことを聞かないし、すぐに泣く。以前職場体験で幼稚園に行ったときなど散々だった。
「きゃっ!?」
「嘘だろ!?」
それでもそのうちの一人が、道路と歩道を分けるブロックに足を取られ、道路側に落ちた瞬間体が思わず動いた。
その子の襟首をひっつかみ、歩道側へ引き戻す。予想外だったのは、自分の体が勢いで道路側に投げ出されてしまったこと。
その瞬間、トラックの前輪が眼前に迫ったこと。
「……え」
凄まじい衝撃と、真っ赤に染まる視界。熱いような痛いような気はしたが、それすらすぐに消え去った。そして桜庭隼人の記憶はそこで途絶えた。
ローレンスは思い返す。
あの時自分は死んだ。この世から完全におさらばした。短い生だったがまあ悪くないものだったと思い返す。
(それは、いいんだけどさあ)
それより問題なのは今だった。今までも問題だったが、それほど意識もしていなかった事実を、ローレンスは改めて認識し、絶望した。
「なんでこうなわけ……?」
地面に仰向けに転がったまま呟いた。
今ローレンスがいるのは、コズミリアの首都サダックである。この国の成り立ちがどうで、とかそういう詳しいことはローレンスは知らない。ただ分かることは、ローレンスはスラム街に生まれた、この国にとって最下層のクズだということ。
今も現在盗みの代償としてサンドバッグにされた後だった。それでもマシだ。一度「綺麗な顔だな」なんて言われて服に手をかけられた時には、あまりの気色悪さに死ぬかと思った。何とか難は逃れたが、それ以来ローレンスはわざと顔に砂をつけて顔を隠している。
異世界転生でチート。
そんなことを熱っぽく思い描いていたわけじゃない。けれど、これは、あんまりじゃないのか。ローレンスの体にネズミが上ってくるのを、何とか手を動かして払う。
「おい、まだ死んでないぞ……」
そうネズミを威嚇するローレンスの声は震えていた。その時だ。
「あれ? アンタだれ?」
足音にも気がつかないほど憔悴していたらしい、とローレンスは顔を上げる。
一人の少女がこちらを見下ろしていた。