第一章 プロローグ 少し先の未来の話
「キャアアアアア!」
近くで甲高い悲鳴が上がった。ローレンスがちらりと路地奥を覗くと、今まさに襲われんとする女を発見する。
女を襲っているのは黒い羽と角、それから真っ赤な瞳。どこからどうみても「悪魔」と呼ぶにふさわしい存在だった。
女がこちらを見る。恐怖に染まった瞳で、彼女はこちらに手を伸ばしてきた。
「助けて!」
『ギ、ギ……』
悪魔が気色の悪い声を上げた。それを見て呟く。
「ふん……低級悪魔か。まだ人間をそんなに喰ってないな」
高等悪魔は口をきく。喋れないのは、「成り立て」だからだ。まあ二、三人の人間の脳味噌を喰って知能をつければ、すぐに喋れるようになる。
「助けてってば!」
必死に抵抗しながら女が言う。髪を振り乱し、必死に助けを求めている。栗毛の髪が美しい女だ。
ローレンスはそれを冷静に分析し……頭を掻いた。
「嫌だ。面倒くさい」
「なっ!?」
女の顔が驚愕に染まったのがよく見える。今は夜だが、ローレンスは夜目が効くのだ。いや、ローレンスのような人間は、というべきか。
「どうして助けてくれないの!」
「どうしてって……さっき言ったが」
「面倒って何よ! 人の死ってそんなに軽いの?」
女の声に、ローレンスは溜息をついて言った。
「人の死とお前の死は関係ないだろ、悪魔さん」
「は……」
その瞬間、女の顔つきが変わった。女の輪郭がぶれ、歪み、出てきたのは、彼女を襲っているのと同じ悪魔の姿だった。
「なんで分かったんだ」
「低級悪魔でも、そんな細腕の女は碌に抵抗できずに殺されちまうよ。低能と組んで人を狙うお前も低能ってことだな」
ローレンスの言葉に、悪魔の髪が逆立った。歯茎をむき出しにした悪魔が叫ぶ。
「ふざけるな! 俺が低能だと!?」
「低能だろ。こうやって簡単にバレちゃってんだから」
「ッッ」
女悪魔が低級悪魔を押しのけ、こちらに走ってくる。ローレンスは武装も何もない。悪魔の爪が大きく振りかぶり、目の前に迫る_____。
ガキン! と大きく音がした。それはローレンスと悪魔の間に割り込んできた者の立てた音だった。
「ローレンス」
自分よりも小さな背中に、ローレンスは渋々頷く。
「わあったよ」
悪魔を撃退するのに通常の武器は効かない。彼らを撃退する術はただひとつ、「聖歌」だけだ。
「聖歌」にまず必要なのは譜面台と肝心の譜面、それから己の血を混ぜた聖水だけである。
「……標的・全体」
まずは目標の指定。バッグに入れた譜面を取り出し、自分の血を混ぜた聖水をそれに振りかけると「聖歌」は作動する。
「――――!」
勝手に口が開く。喉がひとの時には出し得ぬ音を出し、神官はただ歌に操られるように息継ぎをするだけでいい。それだけで悪魔はこの世のものとは思えぬほどに絶叫した。その体が聖歌の効力を受けて軋む。砕ける。千切れる。
そしてそこには、塵だけが残った。
「……ふう……あー、だっり」
懐から取り出したのは棒付きのキャンディー。それを加え、まるで煙草でも吸うように息を吐く。
「あんな奴ほっときゃいいんだ」
「ローレンス」
咎める風に名を呼ばれ、舌打ちをして歩き出す。
「おい、さっさと行くぞ」
「ああ」
彼の名を呼び、そして答えたのは女の声。
「ホントにクソだりい世の中だよな、ったく」
「そうだな」
頭の後ろで腕を組んでぼやいたローレンスに、女は静かに同意した。
そして、彼女はふ、と小さく微笑んで言う。
「その世の中を変えるんだろう?」
「は? 違うな」
ローレンスは傲岸不遜に言い放った。
「俺のために世界が変わるんだよ! 神も悪魔もぶっ殺してやる!」