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#8

 無死満塁から二死満塁へと状況を好転させている、一年生投手貴伝名瞳。対峙する三番打者に対しても、全く物怖じしていなかった。


 このまま抑えて優勝投手になり、新聞部の号外で大先輩たる下村紀香を抑えて一面を飾る……そんな妄想が膨らんで仕方がなかった。まだピンチが続いているにも関わらず。


 穂苅知子が内角高め、ストレートのサインを出す。この先輩のサインに従えば、まず間違いはない。瞳は投球モーションに入った。


「おりゃ!!」


 気合いをつけて投じた初球を、相手は引っ掛けた。フラフラと力なくレフト方向に飛ぶ。左翼手の坂崎いぶきと遊撃手の湯沢純が追うが、ちょうどその間に落ちそうだ。


「頼む、捕って!」


 瞳は祈りながら本塁のカバーに走る。帽子を飛ばしながらボールに突っ込んでいくいぶきの姿が目に入る。


「任せて!」


 いぶきは純に声をかけると、グラブを地面に差し出すような格好で滑り込んだ。ボールはまさに地面スレスレのところだったが、グラブにしっかりと収まった。


「やったー!」


 瞳が飛び上がって喜んだ、そのときであった。


「フェアッ! フェアーッ!!」


 三塁塁審が何と、両手を水平に差し出している。確かに瞳は見ていた。ノーバウンドで捕球したところを。それを審判は認めなかったのだ。


 いぶきが立ち上がると目を見開いて、ボールが入ったグラブを掲げてアピールする。


「捕った!! 捕ってますって!!」

「ザッキー!! ボール!!」


 純が叫ぶ。いぶきは条件反射的に、純にボールを送った。すでに一人がホームインして、二人目もホームを突こうとしている。純はバックホームしたが、間に合わなかった。


 スタンドの空気が一変した。活気に乏しかった一塁側の海商応援団の蛮声が大きくなり、三塁側の星花女子学園の生徒たちはみんな、何か悪い夢にでも取り憑かれたかのように呆然としていた。そんな中で、キャプテンのいぶきは塁審に抗議している。抗議権があるのは監督だが、そんなことはお構いなしであった。


 菅野監督が飛び出してきた。塁審に向かって両手を大きく広げて納得できないということを体を使って示し、スタジアムじゅうに聞こえるほどの大きな声で抗議する。それでも塁審は取り合おうとしない。抗議権があるとはいえ、実は許されるのはルールの解釈と適用の間違い、違反に対するペナルティ適用の間違い、選手の適格性だけなのである。


「どこに目ぇつけてんだこの野郎!!」


 紀香はチームメイト数名がかりで取り押さえられている。彼女の怒りはスタンドまで伝播していき、生徒たちまで怒りの声を上げはじめた。影響力を持つ百合葉がなだめようとしても言うことを聞かない。


 纐纈幸来、塩瀬晶、猫山美月の三名は怒声から逃れるようにスタンドの端っこに移動して、互いに撮影した画像を確認する。三名とも捕球した瞬間を撮っていたが、中でも幸来の写真が一番克明に捉えていた。


「捕ってる! ちゃんと捕ってますよこれ!」


 捕球の前後の場面を連写で撮影した画像を見ると、本当にギリギリのところだが、グラブに収まった瞬間のボールは確かに地面についていなかった。


「よし、こうしちゃいられませんわ。運営に証拠を突きつけに行きますわよ!」

「「はい!!」」


 幸来たちは、怒り渦巻くスタンドから出ていった。


 *


 TCVの中継もまた、ごくわずかな地域にそらのみや球技場で起きた大事件を流し続けていた。


――アーウート!! アーウート!! アーウート!!


『星花女子学園の生徒たちが怒っています』

『いや、これは無理もないですねー』

『もう一度リプレイを御覧いただきましょう』


 いぶきの捕球シーンがスローモーションで再生される。ボールがグラブに収まる瞬間でさらにスローになる。ボールはやはり、地面についていなかった。


『山田さん、これはその、審判の目から見れば微妙に映ったのだとは思いますが……』

『難しいところではありますが、それをキチンとジャッジするのが審判の仕事なんです。明らかに誤審ですよこれは。選手たちも一所懸命やっているのにねえ。しかもこんな大事な場面でねえ。誤審なんかあり得ないですよ本当に』

『えー、オフィシャルルールによると飛球が地面に触れる前に捕られたかどうかについては抗議できないと明確に記述されているわけですが、それでも監督は抗議を続けて……あ、今誰か出てきました。どうやら大会運営の方たちのようですが……』

『まあ、抗議を認めるわけにいかないでしょうし、ここは自分たちの顔に免じて引っ込んでくれってことでしょうね』

『うーん、これはどちらが勝とうとも後味の悪い試合になりそうです』


「……結唯。車を用意しなさい」

「まさか!?」

「直接話をつけるわ」


 波奈はソファーから立ち上がったが、ベロンベロンに酔っているせいでガクッと崩れ落ちた。結唯が慌てて身を支える。


「その体じゃ無理よ。それに、まだ負けたと決まったわけじゃない。行動は勝負を見届けてからでも遅くはないわ」


 結唯は酔い醒ましに、天寿製のスポーツドリンク「めぐみ」を差し出した。ミニペットボトル一本分の中身が、たちまち波奈の中に消えていった。


「私、一体何をしているんだろう。生徒たちが頑張っているのにそれを肴に酒を飲むだなんて……こんな肝心なときに酔っ払って何もできないなんて……」

「ほら、今できることはここで応援してあげることでしょ。後でできることは後でやりましょう」

「……」


 波奈は介添を受けて、ソファーに座らされた。あれだけ心地よかった酔いが気持ち悪いものに変わり果てていた。まるでヘドロが心臓に滞留しているかのように。


 *


 長時間に渡る抗議は認められず、5対4、二死一、三塁で試合は再開された。ここで瞳はしっかりと抑えてどうにか踏みとどまることができたものの、チームの気持ちは切れているに等しい。


 最終回七回表。菅野監督はもう一度ナインたちを奮い立たせようと円陣を組ませた。


「非常に残念なことになったけど、Never give upよ。相手は連投で疲れている。ここまで来たらheartの問題よ」


 そう言って、菅野監督は自分の胸を指差した。


「行くぞっ!」


 坂崎いぶきが声を出す。溜まったものを発散させるかのように。他の部員たちもも追随して、大きな声を出した。


 攻撃はトップバッターの新浦不二美から始まる。一月は良いようにされてきたが、今は違う。ソフトボール部での三年間の集大成をぶつけるときだ。


 薫は相変わらず変化球主体で投球を組み立ててくる。だが若干、キレと制球力が鈍りだしているように見えた。ツーボールワンストライクのバッティングカウント、不二美は得意のスラップ打法を繰り出した。叩きつけられたボールは高く弾んで三塁手のところへ。その間に不二美は一塁にヘッドスライディングで到達していた。


「やったああ!!」

「ナイスラン!!」


 タイムリーヒットでも打ったかのように何度もガッツポーズする不二美。続くは二番の千田彩芽。紀香の同期でもある彼女の使命はただひとつ、後ろに繋ぐこと。ニューイヤーカップでは薫相手に得意のバントをミスしたことがあったが、過去は過去で今は今だ。


 彩芽は薫の初球を見事に殺した。不二美を二塁に送って、次の打者、渦中に巻き込まれた坂崎いぶきがバッターボックスに入った。その直前、ネクストバッターズサークルに入ろうとする紀香に目配せをした。


「頼むぞ」


 という無言の声掛けである。


 常にフォア・ザ・チームの精神で試合に望んでいたいぶき。まだ怒りは収まっていなかったが、残っていた冷静さが自分のなすべきことを教えてくれた。


 薫が投げてくる。手も足も出なかったあのときのボールではない。じっくりとフルカウントまで粘って六球目、外角のカーブをおっつけて右方向に弾き返した。イメージした通りの一、二塁間めがけての打球。


「よし!」


 抜けたかと思った。しかし一塁が好捕して、ベースカバーに入った薫にトスをする。どちらが先にベースを踏むか競走となったが、わずかに薫の足がベースに届くのが早かった。


「アウトーッ!」


 一塁塁審が大きな市ジェスチャーで宣告すると、ちくしょう、といぶきは大声で喚いた。それでも一打同点、本塁打が出れば逆転の場面で、主砲が打席に立つ。


「打てー下村ー!!」「紀香ちゃーん!!」「下村せんぱーい!!」


 ダグアウトもスタンドも、下村紀香に全てを賭けていた。しかしながら二死三塁で最も怖い打者を迎えるということは、セオリー上では歩かされることになる。ニューイヤーカップでは一塁が空いていた場面で、薫は監督の確認を受けた上で敢えて勝負を選んだ。


 だがこれはインターハイを賭けた一戦であり、試合の重みが全く違う。前の試合では四度も歩かされたが、相手投手のプライドは傷ついた。この大事な場面で、勝利とエースのプライド、どちらを優先するべきか海谷商業の監督は選択に迫られることになった。


 監督がダグアウトから出てきた。そして球審に向かって、一塁を指し示すジェスチャーを送った。


「テイクワンベース」


 球審が紀香に冷淡に告げた。怒号とも悲鳴ともつかない声がスタジアムに響き渡るが、紀香は淡々と一塁に歩いていき、代走として出てきた宇喜多秀美と入れ替わってベンチに戻っていった。


 海谷商業の監督がピッチャーズサークルへ向かう。監督に何か言われた薫の目から、涙がこぼれだした。監督は慰めるように薫の肩を軽く叩く。勝負を避けたのが彼女の本意でないことは、誰の目にも明らかであった。


「雲宝のやつ……」


 準決勝で四度も敬遠されたときは内心腹立たしく思っていて、相手投手がサヨナラ負けを喫してうずくまったときですら同情はしなかった。だがこのときの紀香は、薫のやるせない心中とシンクロしていた。


 打席には飯田薫子が入る。彼女も一発があるバッターだ。ベンチやスタンドからは大きな声援が間断なく飛ぶ。再逆転を信じて。


 そして、ワンボールワンストライクからの三球目だった。薫子は甘めに入ったボールを、芯で捉えた。


 打球はいい角度でレフトに上がる。懸命に追う左翼手。不二美も代走の秀美も全速力でダイヤモンドで駆ける。抜ければ再逆転間違いなしだ。


「行けーっ!!!!」


 紀香は肺の中の空気を全て出し切るように、ありったけの声を出した。


 左翼手は振り向かないまま、グラブを高々と差し出す。ボールが重力に負けて落ちていく。あと一歩、左翼手のスタートが遅ければ、というところであった。


 ボールは無情にもグラブの中に収まった。誰も見間違えようがない、正確な捕球であった。


 戦いは終わった。一塁ダグアウトから飛び出てくる海谷商業の部員たち。薫を中心に輪ができて小躍りしはじめる。それでも薫は口元だけで、寂しそうな笑みを浮かべていた。


 星花女子学園の部員は誰もが涙を流していた。ますますミスジャッジに納得いかなくなり、審判に対する恨みを募らせていたのもいよう。それでも菅野監督は、これ以上悪あがきをしようとは考えていなかった。


「あの子たちに優勝する力があったのは事実よ。さ、整列しましょう」


 促されて、撫子色のユニフォームも一斉にグラウンドに出てくる。双方一列に並んで、球審の「礼!」という号令とともに、帽子やサンバイザーを取って頭を下げた。


 礼が終わった後、紀香は薫と目が合った。薫は何も言わず、紀香に背を向けた。


「今度は正々堂々と勝負しような!」


 紀香は薫の背中に向かって声をかけた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。


 理不尽極まりない結末ではあったが、スタジアム全体から送られてくる暖かい拍手と声援が、何よりの慰めになった。

次で最終回です。

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