第三話(最終)
最終話です。
最後までお読み下されば幸いです。
よろしくお願い致します。
眠ってないせいか気持ちが高揚して、それに突き立てられるようにあぜ道を駆け抜ける。
気温はずいぶん低いはずだけど、寒さは全く感じない。感じる余裕がないほど、心は一つのことで占められている。
彼に会わなければ。
きっとあそこにいる。
空はうっすらと白み始め、時折、車のヘッドライトに照らされる。
電信柱を十本ほど過ぎた頃、ようやく《名水百選・滝川湧水 徒歩近道》の看板が見えてきて、その手前で左に折れる。薄茶けた鳥居をくぐると、その先に滝川神社が現れた。
息を切らせたまま、私は進む。
そして、横に設けられたわさび田を抜けたところで、そっと足をとめた。
湧き水が半円形の竹筒をサラサラと伝って、苔の生える岩に弾ける。その音にわざとらしさはなく、この辺りを包む静寂の一部と化している。
その岩の傍で、沢村が片膝をついている。
昨日と同じウインドブレイカーを着て、空のペットボトルに湧き水を汲んでいるのだろう。
沢村はおもむろにこちらを振り返って、私も目を逸らさなかったので、数秒だけ、視線が重なった。
沢村はすぐに作業に戻って、私は彼へと近づきやすくなった。
「今日、出発なんだろ?」
半分だけ振り向いた彼は、水を汲みながら訊いた。
「そうだよ」
「こんなところ、寄り道してていいのかよ」
「寄り道じゃないから」
沢村は、今度はきちんと顔を向けてきたので、私もきちんと言葉にした。
「今日、本当に来たかったのはここだから」
微かでも笑えた私とは対照的に、彼はムスッとして黙った。
「東京行くよりよっぽど勇気がいるよ。そういうやる気がでるジャンパー、私も欲しかったな」
「どうして、俺がここにいるって?」
「それ」
と私は沢村の手元のペットボトルを指した。
「昨日、買ってたから。憶えてる? ちょうど一年前、ここで会ったの」
「ああ。多分、同じことしてた」
私は当時を懐かしむように、ゆっくりと周囲を歩く。
「私、初めてこっち来て、なにもわからなくて。いろいろ不安だったの。家のこともあったし。それで逃げるように外を歩いてたら、音がして――」
「音?」
「水の音。水がさぁーって流れる音。ずっと聞こえるの。それで、どこから聞こえてくるんだろうって不思議に思って、歩いてたら……」
私は足をとめて
「ここに沢村がいた」
沢村は少し、顔を沈めた。
「でも後から気付いたんだけど、この町って、どこにいても聞こえてくるんだよね。さぁーって」
「俺は元々こっちだから、気にしたことなかったけど……」
私は沢村の隣に屈んで、流れ落ちる湧き水に手をかざした。
来るときとは違って、今度は凛とした冷たさを感じる。
「気持ちを落ち着かせてくれる、そんな音だよ」
「気に入ってたのか?」
私は小さく頷いて、両手で水を掬ってみる。
「水の音だけじゃない、この町も、学校のみんなも」
「……そうか」
「沢村のことも」
彼はまた、黙った。
「もったいないよね、せっかく出会えたのに」
「でも東京戻ったら、昔の友達とか、その、お父さんにも」
「沢村は私に行ってほしいの?」
「いや、俺は、別に……」
「私は行きたくないよ」
「そんなこと、俺に言われても」
「ずっとここにいたい」
「……だから、俺に――」
こっちを向いた沢村が、しばらく私の顔に視線をおいてから、やがてやりきれない表情に変わっていくのを見て、きっと自分は泣いているに違いないと思った。
自分でもどうしていいかわからず、ただ沢村の肩にもたれかかることしかできなくなったとき、彼は私を体ごと自分の胸に引き寄せていた。
「俺だって行ってほしくない。行かせたくない。けど、俺なんかじゃなにも……!」
沢村は、ジャンパーにしがみついた私を震えた腕で抱きとめながら、東京までは走れない、と強く唇を噛み締めたから、私もジャンパーの背中まで手を回して、同じくらい強く彼を抱きしめた。
「わかってるよ。わかってる。だから転校のこと、沢村には言いたくなかったんだよ。こうなるのわかってたから」
私の肩に、沢村が頭をこすりつけてきた。
「だから振ったのに」
それからどのくらいの間、私たちは身を寄せ合っていただろう。
湧き水の滴る音だけが永遠のように響く中で、次に聞こえてきたのは、朝の冷たい風が吹き鳴らした木々のざわめきだった。
空から新鮮な木漏れ日が漏れてきて、すっかり夜が明けていることを知った。
沢村はウィンドブレイカーを腕から脱いで、私の背中に被せた。沢村の温もりが直に伝わってきて、彼がいつもこれを着ている理由が、少しだけわかった気がした。
窓の外からは引っ越し作業の喧騒が響いてくる。
私は写真フレームを新聞紙で包み直すと、ダンボールの中の元の位置に戻した。
着ているウィンドブレイカーはどうしよう、と迷う。駅からは電車に乗るので、このままだとお母さんが嫌な顔をするに決まっている。
そこで私は、ダンボールに詰めてある緩衝材をある程度抜いて、その隙間にウィンドブレイカーを丸めて突っ込んだ。
折りたたんだふたにガムテープを当てていると
「引越し屋さん、出るわよ!」
とお母さんのくぐもった声が窓越しに聞こえたので、ダンボールの他に忘れ物はないか、部屋の中を見渡した。
足元のリュックを除き、なにもなかった。
表に出ると、引っ越し業者が同じ大きさのダンボールをせっせとトラックの荷台へと運んでいる。
私はその中の一人に駆け寄って、自分が持ってきたダンボールを手渡す。お願いします、と爽やかな笑顔にお辞儀をしていると、後ろの方から別れ時にしてはそっけないお母さんの声が聞こえてきた。
「一年間、お世話になりました」
「いいよそんなの。それより、向こう行ったらしっかりやるんだよ。今度は二人きりなんだ」
二人の会話に軽く興味を覚えた私は、トラックに視線をとめたまま耳をそばだてる。
「めぐみの面倒ならちゃんと見るわよ」
「逆に面倒かけるんじゃないよ?」
「一応、母親ですから」
「もし迷ったら、私からして欲しかったことをしてやればいいさ」
「……そうね。たくさんあって忙しくなりそう」
続きを待っていると、トラックのエンジンが地響きを立てて、私はよろけそうになった。
いよいよ出発のときだ。
心が締め付けられていくのを感じながら、おばあちゃんに歩み寄る。
「おばあちゃん……行ってきます」
「ああ。夏休みになったら遊びにおいで」
「うん。元気にしててね」
別れを惜しむ、とはこういうことか。お父さんと離れ離れになるときでさえ、最後の握手はこれほど辛くはなかった。
「電車の中でお食べ」
おばあちゃんがお弁当を差し出して、それを受け取ろうとしたら、私の名を呼ぶ声が遠くから届いた。
顔を向けると、腰を上げて懸命に自転車を漕ぐ由里の姿が見えた。
由里はぐんぐんと迫ってきて、庭先で急ブレーキをかける。
「よかったぁ、間に合って」
「由里。来てくれたんだ」
「後ろ乗って。駅まで送ってく!」
私はタクシーで行くことになっていたので、お母さんに伺いの視線を送ると
「じゃあ私、先行ってるから」
と待たせてあるタクシーに一人で向かった。
私がはしゃぐように自転車の荷台に飛び乗ると、由里は待ってましたとばかりにペダルを漕ぎ出す。
自転車は勢いよく発進して、まるで遠出の遊びにでも行くような気分にもなって、悪くない旅立ちだ、と思った。
私は振り向きながら、どんどん遠くなっていくおばあちゃんに手を振り続ける。おばあちゃんも皺だらけの手を振り返してくれているはずだけど、小さすぎてすぐにわからなくなった。
田舎のあぜ道はデコボコしていて、ここで生まれ育った由里をもってしても、二人乗りはかなりきつい。
空気は冷たくても日差しは強く、由里は額に汗を受かべながら、あえぐように声を絞る。
「暑い……東京も暑いのかな」
晴天の空を仰いで
「うん、きっと――」
暑いかも、と続けようとしたら
「え、ちょっと、めぐみ、あれ!」
と由里が反対側の道を指した。
片手運転になってよろける自転車にしがみつきながらも、なんとかそっちに顔を向けると、平行する田んぼ道を自転車より早いスピードで沢村が走っている。
由里が彼の名を大きく叫んだ。
私は驚きと嬉しさとが合わさった気持ちで手を振ろうとしたら、沢村が腕を振りかぶって、こちらに向かってなにかを投じた。
目を上げて追うと、それは今朝方、彼が湧き水を詰めていたペットボトルだった。
空高く、大きなアーチを描くペットボトル。
私はそれを受けとめようと、目一杯、両手を広げる。
青空の頂点で太陽と重なった瞬間、中の湧水が光を反射して、水色に輝いた。