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幻の山

作者: 千賀藤兵衛

 「ちょっと、このカップ欠けてるじゃないか。口を切ったりしたらどうしてくれるんだよ」

 「誠に申し訳ありません」

 「このコーヒーもうっすいしさ。何なのこれ、アメリカンのお湯割り?」

 「誠に申し訳ありません」

 「店の中もきたないよね。ほこりっぽいし、窓ガラスもよごれてるし」

 「誠に申し訳ありません」

 文句をつけているのは薄よごれたジーンズとパーカーを着た若い男。ぼさぼさの髪と無精ひげが見苦しい。ぺこぺこ謝っているのは薄よごれたエプロンを着けた中年の男。肉の薄い背中と禿げかけた頭が哀れをさそう。二人が話をしているテーブルは私の席からだいぶ離れているものの、こんな問答を延々と聞かされるとだんだん気がめいってくる。

 取引先を訪問するために上京したのだが、早く着きすぎたので時間をつぶそうと思って近くの喫茶店に入ったのだ。ところがコーヒーを頼んだ直後に汎覚催のアップデートが始まってしまった。そこへさらにこのいざこざ。まったくついてない。

 言いかたがネチネチしていて嫌味なのはともかくとして、クレームの内容はいちいちもっともではあった。私のコーヒーもやけに薄いし、カップには茶渋がこびりついているし、卓上のシュガースティックの入れ物には埃がたまっているし、壁紙は日焼けしてところどころはがれかけている。ひとことで言えば、ひどい店だ。客がくだんのクレーム男と私の二人しかいないのもうなずける。

 早いところ汎覚催のアップデートが終わってくれないものか。そう念じながら、私は耳から抜けそうになったイヤホンを挿しなおし、タブレット端末に目を落とした。画面にはアップデートの進捗状況が表示されている。やっと六十パーセントというところだ。まだしばらくかかる。

 「要するに従業員の教育がなってないんだ。商売ってものをナメてるんだよ」

 「誠に申し訳……」

 「そうやってバカのひとつおぼえみたいに申し訳ありません申し訳ありませんって繰り返してれば何とかなるとでも思ってんの?」

 「……」

 まだやってる。見ないふりをして端末の画面を切り替え、いまから取引先でする商談の資料を表示した。たいした金が動くわけでもないチンケな案件だ。だが私はわけもなく不安にかられた。見積もりの金額の計算を間違えているかもしれない。契約内容がひっかかるような法令を見落としているかもしれない。あるいは何か失言でもして先方の機嫌をそこねないともかぎらない。きっと無事に契約をまとめることはできないだろう。どうしてもそう思ってしまう。

 私は現実から逃げるように窓に顔を向けた。外の眺めもあまり面白いものではなかった。老朽化して壁に亀裂の入ったビル、下品な落書きだらけのシャッター、行き交う人や車はまばらで、目につくのは地べたにしゃがみこむみすぼらしい浮浪者。二〇一一年三月十一日の富士山の大噴火で火砕流と火山弾と大量の火山灰に見舞われてから十年近くたつが、東京はいまだにこんな感じだ。ビルとビルのあいだの空だけがさわやかに晴れている。

 「あのな、うちが好きこのんでこんな冴えない商売をしてるとでも思ってんのか」

 「いや、そうは言わないけど」

 「言ってるも同然だ。このご時世、うちみたいな小さい店はきれいごとじゃやっていけねえんだ」

 「うん、それはわかる」

 「わかってねえよ。わかってねえからもっと濃いコーヒー出せとか簡単に言えるんだ。ちゃんとしたコーヒーが飲みたきゃ、うちみたいな場末の喫茶店じゃなくてどっかの高級ホテルのラウンジにでも行きな。さんざん偉そうなことを言っておいて、そんな大層な場所でコーヒー飲むほどの金はありませんとか、まさか言わねえよな」

 「いや、それは」

 すこし目を離しているあいだに、客と店員のやりとりは攻守逆転していた。どうやら店員のほうもかなり鬱憤がたまっていたようで、客への遠慮など打ち捨てて言いたいほうだい言っている。

 目をそらして端末の画面を確認すると、アップデートの進捗はようやく八十パーセントを超えていた。あとすこしだ。

 汎覚催こと汎用覚醒型催眠術が一躍脚光をあびたのは、あの大噴火のあとの混乱の時期だった。政治と経済と文化の低迷が長くつづき、人々は活力を失っていた。何にもまして人々を打ちのめしたのは、富士山が噴火によってほとんど完全に吹き飛び、醜いあばたのようなカルデラを残して消滅してしまったことだった。あの均整のとれた姿は、日本人にとって精神的な支柱だったのである。清く正しく美しく。それを体現しているのがあの山だった。なくなって初めて人々はそのことに気がついた。富士山がなくなってしまったのなら、富士山を生きかたの手本にすることはもうできない。これからは不義、不正、不善のまかりとおる世の中になるだろう。日本人はすっかり意気消沈した。その状況を救ったのが汎覚催である。

 汎覚催は、オンラインで催眠暗示を配信するというサービスだ。利用したい人はインターネットで運営会社のサイトに接続し、規約の承認だとか料金支払い方法の指定といったお決まりの手続きをしたあと、音声ファイルをダウンロードする。このファイルをひらくと、ザーザーという砂嵐のような音が数分間流れる。意識下では雑音としか聞こえないが、これはじつは何かしらの暗示の文言を加工したもので、潜在意識ではちゃんと内容を聞き取ることができている。たとえば「元気出せ」という言葉から作ったザーザー音を聞くと、その人は本当に元気を出すのである。

 「いいかげんにしろよ。あんなのほとんどただのお湯じゃないか。コーヒーを出すと言っておいてお湯を出すなんて詐欺だろ。警察に訴えるぞ」

 「ほう、訴えられるもんなら訴えてみな。見たところまともに働いて食ってるって感じじゃねえが、捕まるのはそっちのほうじゃねえのか」

 「まともに働いてないだと。そっちこそ、こんな不景気な店の上がりで生活できるわけないし、裏で何かやってるだろ」

 「なんだと。思わせぶりな言い方しねえで、はっきり言いやがれ」

 一時は店員の舌鋒の前にたじたじとなっていた客がやっと体勢を立て直し、反撃をはじめた。店員も後に引かず、言い争いは過熱する一方。だまって見物していてはまずいような気もするが、止めに入ったところで止めきれるだろうか。下手な仲裁はかえって火に油をそそぐ結果にならないともかぎらない。

 とるべき行動を決めかねているうちに、イヤホンから聞こえていたザーザーという砂嵐のような音が急に止まった。はっとしてタブレット端末の画面を見ると、そこにはアップデートを終了しましたというメッセージが。向こうの二人も汎覚催ユーザーだったらしく、言い合いを中断してあたりをうかがっている。

 端末の画面には続けて汎覚催の再起動のお知らせが表示された。


『アップデートのために停止していた汎用覚醒型催眠術を再起動します。

 暗示「あなたは周囲の環境を快適と感じている。」を実行します。

 暗示「あなたは現状に満足しており幸福である。」を実行します。』


 私は目の前に置いてあるコーヒーカップを取り上げてひとくち飲んだ。香り高いブルーマウンテンだ。カップは透明感のある白磁で、しみ一つなく輝いている。店内は掃除が行き届いており清潔、内装もシックで趣味がよい。いい店だ。


『暗示「あなたは協調と友愛を重んじる。」を実行します。

 暗示「あなたは勤勉と積極性を尊ぶ。」を実行します。』


 「なんか興奮しちゃったみたいで、言いすぎたかも。すみません」

 「こっちこそお客さんにむかって取る態度じゃありませんでした。なんとおわびしたらいいか」

 向こうでは客と店員がたがいに謝っていた。二人とも落ち着きと誠実さが表情ににじみ出ている。

 窓の外に目をやると、一国の首都にふさわしい活気ある町並みがひろがっていた。どの建物も管理が行き届いていて傷んだところも汚れたところもなく、人々はみな身なりをきちんと整え、人も車もきびきびと往来し、そしてビルとビルのあいだの青い空を背にして……


『暗示「富士山は存在する。」を実行します。』


 ……端整な三角形の山がどっしりとそびえているのが見えた。富士山だ。富士山はそこにある。確かにある。

 私の胸に静かな自信がともり、なくした背骨を取り戻したかのような安心感が体を支える。コーヒーを飲み干すと勘定書きを取って席を立った。そろそろ時間だ。商談はかならずうまくいく。


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