002 高校生活の始まり001
「本当に間に合うのかよ?」
肌を撫でる心地よい風と青葉の新芽の香りを全身で感じながら、芳晴は訝しげに呟く。ざんばらの髪に中肉中背。しかしその身はブレザーの制服に包まれていた。
眼下に広がるは一面の森、森、森。
「うむ、委細問題ない! 主はこの二ヶ月弱にも及ぶ修行を無事成し遂げたのじゃ。これしきの事、なんの問題にもなりはせぬわ」
傍らで偉そうにそう返すのは赤髪隻眼の少女。猫にも似た大きな釣り気味の瞳は芳晴と同じ場所に向けられている。
4月8日。朝7時00分。高校入学式当日。
列車やらバスやら徒歩やらでほぼ丸一日かかった距離を、入学式開催までのあと1時間で移動するという無茶ぶりを敢行しようと言い出したイグニの言を半信半疑で応じるのは無理からぬ事だ。
「入学当日に遅刻だなんて流石に嫌だぞ、俺は」
「今のおヌシならば問題ない! 行け、ヌシよ!」
「――まあ、行くしかないんだけどよ」
芳晴はやれやれと言わんばかりに両手を地面についた。
「まずは、ワシを使わんで試してみろ」
「ヘイヘイ」
両足に意識を集中。つま先にぐっと力を籠め、まるでランナーのクラウチングスタートを思わせる前傾姿勢をとる。
「――――ふっ」
いうが早いが、芳晴は走り出した。
但し、――亜音速。
「うおっ、ぐ、ぐぐ、く、そっ、たれ!」
「カカッ、馬鹿め、風圧のことなど何も考えておらんかったろう?」
イグニはカラカラと笑いながらいとも容易く芳晴の横を息を切らさずついてくる。
「くそったれ!」
熱を前方に放射。襲い来る風圧を直前で横に押し流す。
「ぶはっ、死ぬかと思った!」
「カカッ、その程度で死にはせんわい」
「呑気に言うなよ、時間ないんだぞ」
「ふむ、この距離であと一時間となると、やはりちょいと厳しいかのー、カカッ」
二人とも道なき山中を吹き抜ける風のようにスルスルとすり抜けながら、目にも止まらぬ速さで移動はしているものの、イグにはジジくさ笑う。
「だから、呑気に言ってる場合じゃないっての」
「しかし、やはりと言うべきか、ヌシだけではこれが限界かのー」
「何の問題もないんじゃなかったのかよ……」
「まあそういうでない、ここ一週間はリンクを切っておったからの、力量を試しただけじゃ。ほれ」
横に並ぶイグニは芳晴にその小さな手を差し出す。
「次からは初めからやってくれ」
芳晴は差し出されたイグニの手をため息混じりに掴む。
――閃光。
バキュッ。
二人はさらに加速し、その姿は虚空へと掻き消えた……。
✽ ✽ ✽
誰もが浮足立つ、そんな時期がやってきた。
季節は春。
西磁路学園高等学校。
この近隣でもひと際大きな学び舎では、他と同じく始業式、入学式が執り行われようとしている。
皆浮足立っているのか、始業前であるにも関わらずあちこちでごった返し、普段以上の喧騒を見せていた。
中でも最も人込みであふれているのは、二〇〇メートルトラックが優に三つ分は余裕でとれるほど大きな、だだっ広い校庭だった。
「やれやれーっ」
「目にもの見せたれ!」
「おい、新入生なんかになめられんなよ!」
そして飛び交うは穏やかではない野次。
校庭では二人の男女が離れて向き合い、その周りを囲うようにして人だかりができている。
その様はまるで小さな闘技場である。
「謝りなさい。先にぶつかってきたのはあなたでしょう」
凛と通る丁寧な口調で女は言う。その声音には隠す気もない敵意がむき出しになっていた。
スラっと伸びた手足。発育の良い胸元。腰まで届く濡れた黒真珠の様な髪、白磁のような肌、カエルを睨みつける蛇のような鋭い眼光。
遠目でもそれは美少女だと確認できる。
「おうおう、最近の若いのは威勢がいいね」
男はにぃと唇をゆがめる。
向き合っている大柄の男子生徒。檻から出てきたゴリラのような巨体。来ている学生服が今にもはち切れんばかりの分厚い胸板に丸太のような手足。制服を着ているから生徒だということは認識できるもの、明らかにサイズが合っていない。
「どうやら謝る気は無いようね」
男子生徒の軽薄な態度に少女は不機嫌そうに眉根ををひそめる。男子生徒はニヤニヤと笑みを浮かべたまま言った。
「あ? ぶつかってきたのはそっちだろうがよ。そんな義理もくそもねぇよ」
どすのきいた男の低い声音に、少女は眉一つ動かさない。
「こっちはただ穏便に優しく介抱してくれるだけでいいぜって言ってんだ、ありがたく思いな」
「下劣な猿め、これ以上口を開くな。虫ずが走る」
少女らしかぬ悪態に、男子生徒のこめかみに青筋が浮いた。
「てめぇこそ、女だからって調子に乗るなよ」
「私が女だから調子に乗っているのはあなたでしょ? 下心しか持ち合わせない低能の猿が。分かったらサッサと謝罪してどいてくれないかしら」
「どかしてみろよ、メスガキが!」
ドスン!
男子生徒は岩のような大きな拳を威嚇するように地面に叩きつけた。
ビリビリと地を揺るがす男子生徒の拳はそれだけでどれ程の脅威なのかを物語る。
「ふん、言ったわね」
少女は鼻で笑うと、右腕をばっと振り払うように広げた。
ゴゥッ!
二人の間に突然大きな旋風が発生する。
「きゃあっ」
「な、なんだ、これ」
野次馬がところどこで悲鳴を上げる。
「はっ,テメェは『風』ってわけか、おもしれぇ!」
男子生徒は眼前で一度拳をぶつけ、少女に飛びかかる。
「急いできてみりゃ、なーんの騒ぎだこりゃ」
そんな光景を上空から見下ろす影が二つ。
芳晴とイグニだ。
「ほう、能力者同士の喧嘩かの」
イグニは覗き込むように手をかざし、カカと笑う。
「どれ面白い、この際じゃ、他の『力』がどれほどのものか見るいい機会じゃな」
「そんなのんきなこと言ってていいのかよ」
「構わんじゃろ、遠巻きに見ておる奴らも大勢おるみたいじゃが、被害に巻き込まれること承知でああして観戦しておるんじゃろうし。おーおー、あの女子中々やるのう」
あっけらかんと答えるイグニに、芳晴はただ肩をすくめる。
「なあ、イグニ」
「なんじゃ、ヌシ殿」
「お前は俺の『力』が体現した姿、とか言ってたよな?」
「なんじゃ、薮から棒に。ま、その通りじゃが、それがどうした」
イグニは観戦を続けながら、芳晴の質問に答える。
「ずっと修行してて聞く暇なかったんだけどよ、お前、世間一般的な常識って持ち合わせてるのか?」
「何を言っておる。当然ではないか。ワシはおヌシから生まれた存在じゃ。おヌシが持ち合わせておる一般常識とやらは当然知っておるわい。おー、男のほうもやるではないか。だがあれでは力の『練り』が甘いのう。あれではあの女子に簡単に抜かれるゾイ。あーあー、ほれみろ言わんこっちゃない」
「知ってて、あの状況を見て何も思わない、と?」
「何を言っておる、そんなことないじゃろ。『力』を隠すのもひけらかすのも、個人の自由じゃし、それを見たいと思う気持ちも、まあ分からんでもないしの。しかしあの男もタフよの~。あれだけ転ばされてもまだ起き上がるか」
「あのね、喧嘩なんてするもんじゃないし、野次馬だって自分が怪我するかもとかそんなこと考えてないの」
「そんな事、ワシの知ったことではないわい。『力』の衝突はそれだけで危険な事じゃ。それはワシのような『歪な存在』よりも、おぬしらの方がよほど心得ておるだろうて。それを承知でここにおるというなら、それは自己責任ではないかの。しっかしあの女子は中々どうして『力』の使い方を分かっとるのう。『力』の操作に無駄がない」
イグニの放った言葉に、芳晴はぐうの音も出ない。
「まして、あれらがヌシ様と近い年齢であれば自分の危機管理ぐらいは出来て当然じゃ、幼子じゃあるまいしの」
至極真っ当な話である。しかしながら実際問題、今眼下で起きていることが各々の自己責任のうちでやっているとはとても思えない。見れば、校舎から大人たちが出てきているのが分かる。騒ぎが大きくなれば、警察沙汰になってもおかしくない状況になりつつあった。
今日は入学式である。誰もそんなことを望まないだろう。下手をすれば、入学式や始業式といったもろもろが全てなくなってしまうかもしれない。
「あー、メンドクセー」
少し悩んでから、芳晴は後ろ頭をポリポリとかいた。
「でも、しゃーないかー、入学式だもんなー。……ちょっと止めてくるわ」
「ヌシ様は、もしかせんでも人が良すぎはせんか?」
「――自覚はしてるよ。だが、その後に続くであろうもっと面倒なことは、できれば避けたいんでね」
「つまらんのう。まあ、よかろう。今のお前であれば、二人相手でも余裕じゃろうて。どうじゃ、リンクを切るか?」
「はいはい、そうですかい、それじゃ、行ってくるよ。不測の事態にそなえて、リンクはそのままで頼む」
✽ ✽ ✽
「しぶっといわね、この」
肩で息をしながら、少女は悪態をついた。額には玉のような汗が浮かび、言葉の端々に疲労が伺える。
男子生徒もそれは同様でひどく疲労感が伺えた。
お互いに満身創痍といった体だが、それでも男の少女に対する挑発的態度は相変わらずで、それを受けてか少女の敵意の意思もさらに増すばかり。お互い引くに引けない状況となっていた。
「――ちょいと邪魔するよ」
二人の攻撃が途切れたところを見計らい、その間に割って入るように、間の抜けた声と共に唐突に人が天から降りてきた。
中肉中背、まだ真新しい制服をだらしなく着こなした、ボサボサ頭の気だるそうな少年。
――芳晴である。
「何よ、あなた」
「誰だぁ、てめぇ」
二人の声がハモり、芳晴に向けられる。
「通りすがりの新入生だよ。提案なんだがね、喧嘩はその辺にしておいて、そろそろ解散したらどうだ?」
「私はこの礼儀しらずのゴミ屑に謝罪を要求しているだけよ。邪魔するならあんたも相手になるけど?」
少女の整った相貌は、ギラギラと血走った眼で芳晴を睨みつける。だが芳晴はどこ吹く風といったように肩をすくませた。
「やれやれ、血の気が多いこって。少しは落ち着いたらどうだ?」
「あれだけ侮辱されておいて落ち着けですって? あなた、もしかしてそのゴミ屑を擁護するつもり?」
「喧嘩両成敗って言葉を、賢そうなあんたなら理解していると思ったんだがな。こう見えても面倒なんでね、話の通じる相手を選んでいるつもりだ」
「邪魔よ、どきなさい」
「だから、そろそろやめて解散しようぜって提案なんだけどな……」
ビュッ!
芳晴の話している途中で、耳の横を身を切るような豪風が突き抜けた。
「……おっとぉ」
つつ、と頬から赤い筋が流れ、芳晴は言葉を中断する。少女は人差し指を銃を模す様に構えている。
「二度は言わないわ」
「しゃーない、俺も三度は言わないよ」
「テメェら、無視すんなや!」
男子生徒も少女とほぼ同時にしびれを切らし、結果的にではあるが、芳晴に対して二人掛かりで攻撃する形となる。
――さて。
芳晴はポケットに手を突っ込んだまま刹那の間に考えた。
少女の属性は言うまでもなく『風』、対するは『熱断層』。
男の属性はおそらく『剛力』といったところだが、これは能力を使うまでもない……が、念のため『熱流体』でも使っておくか。イグニも見ていることだし。
咄嗟に判断した芳晴は、眼前に飛んでくる可視化できるほどに濃縮された極薄の空気の塊に対して『熱断層』を発動し、後方から飛んでくる隕石のような拳に対抗すべく『熱流体』を発動した。
芳晴自身は微動だにせず、だ。
飛んでくる極薄の空気の塊は芳晴の目と鼻の先で霧散し、後頭部に直撃必至であった拳は芳晴を避けるように空振りし、そのまま地面に突き刺さった。『熱流体』のみで対応できたか、と簡単に分析を済ませておく。
「ほら、聞こえるか、この音」
芳晴は何事もなかったかのように天を指す。
つられて天を仰ぐ少女の耳にサイレンの音が聞こえてきた。
「これ、何の音か分からないわけじゃないだろ?」
芳晴はやれやれとばかりに肩をすくませ、踵を返しながら嫌み交じりで言う。
「おそらくだが近隣住民か、先生達が通報したものだ。これ以上騒ぎを続けたいなら、俺は止めないよ。ただ注告はしたからな。あとでイチャモンつけないでくれー」
ヒラヒラと後ろ手で手を振り、芳晴はそのまま下駄箱に向かった。
入学式早々騒がせた小競り合いは、こうしてあっけなく幕を閉じ、集っていた野次馬達はサイレンの音が近づいていると知るや蜘蛛の子を散らすように校舎の中に戻っていったのだった。