001 プロローグ
母の事は、よく知らない。幼い頃に、父から『お前の母親は死んだ』とまるで他人事のように聞かされたが、その事について気にとめたことはあまりなく、だからといって、母親がいないことに不満を持ったこともない。物心つく前から父子家庭で過ごした彼にとって、それは『そういう事』でしかない。
そして、その父が消息を経ってから、もうどれぐらい経ったのか……。
中学入学してすぐの頃ぐらいだったから、もう3年近くになるのか。
大鐘芳晴は届いた一枚の便箋の宛名を見て、そう思った。
封筒に切手や住所がないということは、人伝てでここまで届いたのだろう。表面に自分の名前、裏面には小さく父親の名前があった。
「ったく、なんだよ今更、手紙なんか送って来て」
季節は冬。高校の合格通知をもらい、後は卒業を待つばかり。そんな時期。二月の中旬。季節は冬。
お金は親から振り込まれるから生活する分には問題ない。だが中学に入ってすぐの頃から一人暮らしを強いられている彼にとって、高校の合格通知についてはただの通過点に過ぎなかった。合格に関しては嬉しくない訳では無いが、慌ただしく私生活を送っていると、その嬉しさや他に生まれてくる感情もあっという間に押し流されてしまう。。
しかし、3年近くも全く音沙汰がなかった父親からの手紙となれば話は別だ。
「それになんだよこの手紙、――ふざけてんのか…」
ぐしゃりと手に持った手紙が握りつぶされる。わなわなと震える手には驚きとは別に怒りが表れていた。
『大鐘芳晴殿 ○○月○○日○○時○○分○○山頂○○自然公園に来られたし 父』
たったそれだけの文章。なぜ消息を絶っているのか、どうしてこの場所へ赴かなければならないのか、その理由も何も記されていない。他人行儀で、事務的で、要点のみ。
行方をくらました父親を今まで放置していたわけではない。
警察に捜索願を出した。父親の知り合いには全て当たった。親戚にも訪ねて回った。考えうる限りあらゆる手を尽くして、何も有益な情報は得られず、半ば諦めていた。ただ、自分と父親しか知らない口座に身元不明のお金が振込まれるということは、おそらく生きているんだろうと、手がかりはそのただ漠然とした事実のみだった。
今にもあふれ出しそうなあらゆる感情をぐっと飲みこんで、芳晴は一度握りつぶした手紙を広げ、その住所を確認する。そこに必要な所要時間、交通費、その他必要なもろもろを頭の中で整理する。
あきらめていたとは言いつつも、せっかく手に入った父親につながる手がかりをみすみす手放す気は無い。
次の日の早朝、彼は日も明けぬ時間から出立し、手紙で記された場所へと向かうことにした。
何時間も列車に揺られ、バスを何度も乗り継ぎ、目的の山の麓にたどり着いた時には既に東の空に赤みが差してきたころだった。そこからさらに山頂を目指すものの、途中からは道も舗装されず石畳や補助柵も何もない草むらを分けて進み、辺りが暗くなっていることも気づかずに、樹海のような山をただひたすら登り続け、東の空から日が顔を出し始めた頃、ようやく一面が開けた場所へたどり着いた。
「――ここ、で、いい…んだよな」
地図と手紙の場所を交互に見比べながら、おそらくここが指定された場所なのだろう。白い息を長く吐き出す。
足元に広がる雲海を見下ろしながら、疲れ切った足取りで、近くに倒れていた古木に腰掛ける。
するとふと、目の前に影が落ちた。
「――――遅い! いつまで待たせておる!」
高らかと響き渡る幼女の声に、芳晴は思いがけない登山で疲れ切った瞳をその陰に向けた。日の出と丁度逆光になっていて、眩しさに目を細める。
「待っても一日と言うからワシはこうして待っておったのだぞ!」
「あぁっ? だれ、だ?」
「誰だじゃと? お主、何も聞かされておらぬのか?」
「ここに来い、とだけ」
「全くあやつめ、少しは説明でもしておけというのだ馬鹿者め」
「えっと、あんたは俺の親父を知ってるのか?」
「ああ、知っておる。ワシは、あ奴から頼まれてここにおるのじゃからな。そして、ワシが誰か知りたくば教えてやるぞ! お主が一生を共にする相棒をな!」
そして彼女は声高らかに名乗る。
「ワシは『イグニ』。古の言葉で『焔』という。覚えておくがよい!」