かんしょうするもの、されるもの
久しぶりに書いてみました。
書こうとした日もあったのですが、気分が落ち込んでしまい、つい億劫になってしまったのです。
「流れ」
ころころところがる玉。
とまることなく。
そこに意味はない。
ただころがっているだけ。
とめる者もいないだけ。
時折、反対の方へところがそうとする者もいるが、
玉は干渉を受けない。
「背けたものは」
あの子が手をふっている
私はそっと目をそらし、
うつむいたまま距離をとる
あのひだまりは、私には過ぎたものだから
のびる影がささやく
―こっちへおいで……
おそれつつも歩みは止まらない
そして包まれる
あぁ、
やはりはじめから決まっていたことだった……
「私は二人いる」
「私」が『私』になったのは
あの蒸し暑い夏の日のこと
『私』が目の前にやってきて
いつの間にか代わっていた
変わってしまっていた
けれど昔の「私」のことは
どこか他人事にしか思えず
『私』になったのだという感覚だけがあった
そして今度は「私」が来る。
「流れ」は時間の流れを意識していました。戻そうとしても無駄。タイムマシンないかな。
仮に時間の流れに形を与えるならということで玉にしたけど、たぶん手にびいだま持ってたんだと思う。
「背けたものは」は試験的に、詩の中で会話文のようなものを盛り込みたかったからかな。前にもつくったような気がしないでもないけど。
「私は二人いる」は、ぼーっとした後、頭がいきなりはっきりする瞬間に感じたことを詩にしたのかな。まだ二月なのに、夏のことを出してるのはなぜかしらん。
追記日—20170209