うどん屋
ある休日の朝、僕が心地よい眠りについているところに、突然携帯の着信音が鳴り響いた。電源を切っておけばよかったかなと後悔しつつも「はい、もしもし」と少し無愛想な感じで電話に出てみると、相手は友人の古橋だった。
「おい、木島、今日は暇か? 暇なら飯食いにいこうぜ」
「ん、あ、ああ。暇といえば暇だけど今日はじっくりと休みたいんだ。仕事の疲れが残っているんでね」
「仕事の疲れ? おまえ事務職だろ? 大した疲れなんて無いだろうが」
「いや、おおありさ。ストレスというものをお前は知らないのか? これはいわゆる精神的疲労というもので、肉体的疲労同等かそれ以上のものなんだ。何故かわかるか? 肉体的疲労というものは日に日に無くなっていくものだからなんだ。ところがどっこい精神的疲労というものは日に日に無くなると言う事がない。何故なら原因は上司であり同僚であり得意先であるからだ。よってその疲れから逃れるためには仕事を辞めるしかないんだ。でもな、辞めたらどうなると思う?当然無職になる。しばらくは失業保険で食いつないでいけるだろうが、それも長くは続かない。また仕事を探し始める必要がある。それはそれで苦しく疲れる日々を送ることになる。前者と後者を天秤にかけた結果、僕は仕事を続けているというわけなんだ。ええとなんの話だっけ?」
「単に飯食いに行こうぜと言っただけなんだが」
「何だ飯か。一人で食えばいいじゃないか。何か話でもあるのか?」
「あるさ」
「借金なら断るぞ」
「それは無い。まあいいじゃないか。旨いうどん屋があるんだ」
「うどんか…… ならどこで待ち合わせする?」
「駅前の百円ショップでどうだ?」
「ああ、まあいいよ」
「それじゃあ昼前に会おうぜ」
「ああ」
僕と古橋が百円ショップで落ち合うと、「よう」とお互いに声を掛け合って、しばらく店内を見回った。
「何か買うものでもあるか?」僕はぶっきら棒な感じで聞いた。
「いや、特にない」 古橋もそっけなく答えた。
「なら、行こうぜ、その旨いうどん屋とやらはどこにあるんだい?」
「あ、ああ。店ならここから歩いて五分ほど先の少し薄暗い路地にあるんだ。でも繁盛しているからわりと周辺は賑わっているぜ」
「ふーん」
「立地がいいのかな?」
「それはないと思うぜ。風水的にはいかにも悪そうな場所にある」
「じゃあ、味しかないのか。接客はどうだ」
「普通だよ。とくに気にもならない」
「じゃあ、やっぱり味がいいんだな。楽しみだな」
「ああ、期待していろよ。いままでに食ったことがないほどうまいから」
「そもそも、それほどうどんを食った事がない」
「そば派か?」
「別に。ラーメンは好きだけどな」
「いつまでもラーメンなんて食っていられないぞ。体が受け付けなくなってくるからな」
「たまにだから大丈夫さ」
「まあ、たまにならな……、ああ、そこを曲がったところだ」
僕の目の前には古ぼけた駄菓子屋があった。客はだれもいなかった。
その駄菓子屋を曲がってすぐのところにそのうどん屋はすぐにうどん屋とわかる「うどん」ののれんを掲げていた。
「いらっしゃいませー」古びた戸を開けると意外と元気で愛想良さそうな中年女性の声が聞こえてきた。
「お二人ですか? ではこちらにどうぞ」
僕たちは言われるがままに端の方の席に座った。
「パートさんかい?」
「分からない。店主の奥さんかもしれないね。夫婦でやっているのかもな」
「ふーん」
僕は周りを見渡してみた。客はそこそこの入りで大繁盛店というわけでは無さそうだ。
「なにがお勧めなんだい? 僕は古ぼけた椅子に座ると立てかけてあるメニューを見ながら古橋に聞いてみた」
「個人的にはぶっかけうどんかな。でも寒くなってきたからな。熱い汁物を選ぶのもいいだろうね」
「そうか。じゃあ俺は肉うどんでいいや」
「俺はぶっかけうどんにするよ。好みなんだ」
「まあ、なんにでもするさ。二人共同じメニューなのも面白く無い」
「それもそうだな。じゃあ注文するぞ。すいませーん」
古橋は大きな声を出してメニューを頼んだ
「ぶっかけうどんと、肉うどんを下さい」
「はい。ぶっかけうどんと肉うどん一丁」
「はいよー」
奥から大将と思しき男の声が聞こえた。
「なかなかいいみせじゃないか」
「そうだろう」
「どうやって見つけたんだ」
「偶然さ。気分が暗くなると暗いところにいきたくなるもんさ」
「何かあったのか?」
僕は水を飲みながら聞いた。
「失業したんだ」
古橋も水を飲み干しながら言った。
「それはまあ気の毒に」
「それだけかよ。慰めてくれよ」
「そればかりはどうにもならんよ。なんでクビになったんだ?」
「上司を殴った」
「明確な理由があるじゃないか。次の面接の時もきちんとそれを言えよ。前職は上司を殴って退職しましたって」
「言えるかよ。ついかっとなってやっちまったんだ。あまりに生意気な口を聴きやがるからブチ切れたんだよ」
「そんなのどこの会社も一緒だろ?」
「そうだろうな。だから起業しようと思うんだ」
「起業? アテはあるのか?」
「無い。冗談だよ」
「だから旅に出ようと思うんだ。お前と合うのもこれで最後になると思うと挨拶だけはしておきたいと思ってな」
「旅か。どこにいくんだ?」
「それもアテなんてないよ。ヘタすれば野垂れ死にもあるだろうな」
「野垂れ死にか……」
「お待たせしました」
僕達の前にうどんが運ばれてきた。
「とりあえず、食べようや」
古橋が割り箸をパチっと割ってずるずると食べだした。それに応じて僕もとりあえずうどんに手をつけることにした。
「お、うまい」
「だろ?」
古橋は得意気な顔をして言った。
「うどんでも、ここまで差が出るんだな。どこでも似たようなもんだと思ってたよ」
「そりゃそうだろうさ。なんにでも差はでるんだよ」
「それが格差につながると……」
「ふふふ、共産党から出馬したらどうだ?」
「いいよ。人から嫌われるのは苦手なんだ」
「慣れれば政治家になれるな」
「まあね……」
僕たちはその後しばらく無言でうどんをすすり、食べ終わるとごちそうさまと言って勘定を払ってすぐに外に出た。
「すぐに旅にでるのか」
「ああ、アパートの荷物も全部捨てたしな。明日の朝この街を出る」
「そうか、じゃあもう少し遊んでいくか? 金は俺が出すよ」
「気前がいいな。でも、もうお腹いっぱいさ。俺は行くよ」
「そうか。じゃあ達者でな。帰ってきたらまた連絡してくれよ」
「そうするよ」
「じゃあな。あ、あと土産もな」
挨拶を終えると古橋は手を振りながらとぼとぼとどこかに歩いて行った。
帰り道、僕は少し憂鬱になりながらとぼとぼと歩いていた。そんな僕のマイナスオーラを察したのか怪しい占い師が声を掛けてきた。
「あんた、死相が出ているよ」
「死相?」
「そう、死相。そのままだとあんた近いうちに死ぬよ」
「死ぬ? 僕が? 友人の間違いじゃないのかい?」
「友人にそういう人がいるのかい? ならあんたにその相が移ったのかもしれないね。その人はどんな感じなのかい?」
「今しがた別れてきたところです。なんでも旅に出るみたいで」
「旅? ふーん。多分その人帰ってこないね」
「僕もそう思います。多分帰ってこない」
「そうならいいわ。あんたは長生きできる」
「出来ればいいですけどね……」
僕は占い師を振りきってまた駅の方に向かった。
駅に向かう途中にはホームレスがいた。憂鬱そうな顔をしながら線路の方を向いていた。髪はぼさぼさで顔は浅黒かった。目の前には古ぼけた雑誌が所狭しとおいてあった。売っているのかいと僕は聞いてみた。ホームレスは質問には答えなかった。僕はその場を後にした。
家に帰ると僕はすぐにテレビを付けた。まだ昼の三時だった。競馬中継まであともうちょっとだなと考えながら、自分の人生の行き先を考えた。
「何も無いな」すぐに結論付けると僕は冷蔵庫からビールを取り出して、競馬中継まで飲みながら待つことにした。テレビでは有名人の自殺を報道していた――