鉄の扉
等間隔で灯された灯明に照らされている廊下を、女魔法使い・ラピスは一人黙々と歩いていた。
彼女が歩みを進める度に起こる微かな衣擦れの音と廊下に響き渡る高い靴音。静寂に包まれた空間には二つの音しか聞こえない。
――――やがて、靴音が止まる。
ラピスの目の前にあったのは、石造りの建物の中で異彩を放つ巨大な鉄製の扉。
重々しい雰囲気の巨大な扉には、魔除けの古代文字がびっしりと刻まれ、ある種異様な雰囲気を醸し出していた。
暫くの間、覚悟を決める様に扉の前で佇立していたラピスは、やがて一度深呼吸をすると服の襟口から銀の鎖に繋がれた錆び付いた鍵を取り出した。
慎重な手つきで錠前へ鍵を差し込むと、ゆっくりと右に回す。澄んだ金属音が扉が解錠されたことを示していた。
「……ふぅ」
ただ扉を開けると言う動作であるにも関わらず、ラピスの額には汗が滲んでいた。未だ差し込んだままの鍵を握りしめた手とは反対の手で額の汗を拭う。
「……さて、行かないと」
「――――師匠!」
決意も新たにラピスが呟きを落したのと同時に、澄んだ子供の声がかけられた。
誰もいなかった筈の廊下に、思いの外高く響いた声。聞き慣れた子供の声にラピスの肩が大きく跳ね上がる。
「就寝時間はとうに過ぎた筈よ、ディアン。何故あなたがここに居るの?」
「そ、それは……」
驚きを隠すために、やや険のある声音を出す。振り向いた先の子供の姿にラピスは険しい表情を浮かべた。
振り返った先の子供は、その身なりがかわっていることを除けば昼と全く同じであった。
乱れた黒髪に、顔に似合わぬ大きめの眼鏡。
身に纏う、ぶかぶかな白い夜着の端からは子供らしい柔らかな肌が覗いている。
「その、先輩から油が切れたから貰って来い、って部屋から追い出されまして……」
「パシリにされたと言う訳? 情けないわね、私の弟子なんだからそう言う奴らは魔法で黙らせてやればいいじゃないの」
「師匠じゃあるまいし、そんな事出来ませんよぅ」
情けない声で口を尖らせる子供に、強張っていたラピスの体から力が抜ける。
「――とにかく。油が欲しいならなんでこんなところに居るの? 給油室はもう閉まっているし、第一ここの反対側よ?」
「え? 先輩はここにあるっていってましたよ? それといつも使っている給油室はもう閉められているから鉄の扉の給油室から貰って来いって」
その言葉にディアンが意地の悪い先輩にからかわれていたと気付いたラピスが大仰な溜め息を零す。
いつの時代も才能ある者に向かっての反発めいた嫌がらせは無くなることはない。「地下室の怪物」に託つけた質の悪い嫌がらせであった。
「でも師匠に会えて助かりました。これで先輩達に文句を言われずにすみます。いやぁ、運が良かったなぁ」
眼鏡の下からでも子供が嬉しそうに目を細めているのだろうと言うことが判る、喜色に満ちた声。
ラピスは自然と肩から力が抜けて行くことを感じて暫しの間、脱力してしまう――それが、間違いだった。
「うわっ! 何だこれ!!」
「ディアン!! ――きゃあ!!」
生暖かい風が二人の頬を撫でたのと同時に、立っていられなくなる程強烈な風が鉄の扉を押し開けて、廊下を――引いては二人の間を駆け抜ける。
強風が勢い良く吹き抜けたせいで、子供の足が床から離れて小さな体が宙を舞う。
「うわぁぁああ!!」
子供の体が浮いたのと同時に、扉から吹き抜けて来た風が巻き戻る様にして扉の奥へと吸い込まれて行く。咄嗟に伸ばしたラピスの手はディアンの手を捕えることなく、無念にも空を掻く。
「ディアン!!」
吹き抜けた一陣の風はまるで何事もなかったかの様に止んだ。……一人の子供を道連れにして。
奈落へと誘う様な真っ暗な闇は、巻き戻った風と同時に閉ざされた鉄の扉に隠されていて、もう見えない。
しかしながら、大きく開かれた扉の奥へとディアンの姿が連れ込まれて行ったのを、ラピスはその瑠璃色の瞳で目撃してしまった。
「最善は、今すぐ扉を閉めて大賢者様の元に報告に行くこと。――ディアンがどうなるかは判らないけど」
親指の爪を噛みながら、ラピスは小さく呟く。
――ただの地下ならば問題はなかったが、この鉄の扉の向こうは話は別だ。
「噂じゃないのよ、ディアン。『地下の怪物』は実在するの……、この扉の先にいるのよ……」
弱々しい響きの声が唇を割って空気に溶け落ちる。
将来的に魔法使いになれるだけの力を持つとはいえ、ディアンは未熟な子供。
その事実に心が揺らぐが、彼女は頭を横に振る。
「待ってて。もう少しだけ待っていて」
耳にした者の胸が張り裂けてしまいそうな声を一度漏らすと、ラピスは扉に鍵をかけて、真っ直ぐに大賢者の元へと向かった。
――――弟子を助けるにしても、まずは戦力を補強してからでないと共倒れになる。
地下で眠っている“アレ”は、まさしく『怪物』であるのだから。
あれ? ラピスちゃんが何故か主人公の様に……。どうしてだろう。