出発の日
すこし時間が進みます。
これまで閑話的な話でしたが、この話から物語が走り出します。
黒地に銀の刺繍の施された、麗々たる軍服に身を包んだ魔族の兵士達。
嘶きを上げて、荒々しく尾を振る軍馬の側に手綱を掴んだ姿勢で佇んでいる軍の精鋭達は、皆同じ方向を見つめていた。
遥かな大昔から、出立する兵士の見送りや華々しい式典の時にのみ使われる、魔王城の城門へと通ずる巨大な広場。
その一段と高い所に設けられた、この様な日のための特別な舞台。
城内で働く者や旅行く者達の関係者を始めとする大勢の視線が集まる壇上には、魔王補佐である藍玉と筆頭文官である朱炎、そして彼女の数名の部下達の姿があった。
「陛下の勅命によって、貴女に命じます。筆頭文官・朱炎、これより人間族の王国へと旅立ち、彼の国での剣によらざる戦いを制して来なさい」
「――勅命、謹んで承りました。必ずや、陛下のご期待に応えて彼の国での戦場を制してみせましょう」
魔王の代理でも藍玉の手から、朱炎の手へと書状が渡される。
親書を兼ねている書状を大事そうに両手で抱えると、朱炎の明るめの若葉色の瞳が前を見据える。
普段の深いスリットの入ったドレス姿とはまた違う、長旅用のカッチリとした男性用の衣装に身を包んでいる。
彼女の肩にかけられていたマントが大きく翻り、長靴が高らかに靴音を鳴らす。
凛々しい女騎士を思わせる華麗な姿に、誰もが息を飲んで、思わず見蕩れた。
* * * *
――――そんな彼女の姿を、魔王は広場に面した塔の一つから見守っていた。
深沈たる知性の輝きと姿に似合わぬ老成した光を灯す琥珀色の瞳は、眼下の魔族の兵士達とこれから旅立つ朱炎を始めとする文官達の姿から離れない。
「――……ご心配の様ですのぅ?」
「蒼氷」
幼さの残る声には似合わぬ年老いた喋り方。
群青色の巻き毛に、固く閉ざされた両眼の持ち主――筆頭判官である蒼氷だった。
「後悔、しておいでですかのぅ? 戯れとはいえ、勇者に討たれる様な事をなさったことを」
「勇者に討たれた真似をしでかした事は、別に何とも思ってないさ。これから起こる事、それこそがオレが求めた物になるのだから」
「――これから大陸が……世界が変わるでしょうな。今までに無い勢いで」
「ああ。オレが国を興してから、おおよそ何千年という月日が流れた。しかし、それによって世界が停滞しかけていたのも事実だ」
琥珀の瞳が見つめる先で、朱炎を始めとする魔族の文官達が馬車へと乗り込んだのを合図に、待機していた魔族の兵士達も各々自分の馬へと跨がっている。
整然とした動きのまま城門へと進む一同を、城内の者達や旅立つ者達の関係者達がそれぞれの思いを胸に抱いたまま、見送る。
「オレは依存を好まない。オレの元にいる全ての子供達を愛しく思うが、そのまま彼らがオレに全てを任せて、ただただ堕落していく有様を見たいとは思わんね」
「詰まる所、これを一つの試金石とする訳ですかのぅ?」
「そうなるだろうな。――となれば魔族だけじゃない、世界すらもこれを契機に大きく動き出すだろうよ」
気が遠くなる程の長い年月をかけて、この国は力を蓄えた。
例え、他国の者達がちょっかいを掛けて来た所で簡単に揺らぐ様な事はないと自信を持って断言出来る様になるまで。
それは長い長い時をかけて、魔王が魔族をこの国を守って来た結果でもある。
――実際、このまま守られ続けた方がきっと簡単だろうが、それだけでは生まれるべき芽は摘み取られ、咲き誇る筈だった花は直ぐさま枯れてしまいかねないし、同時にそれは魔王の望む所ではない。
「――――行っておいで、オレの愛しい娘。お前の蒔く種はこれから先の世界での、確かな切欠となるだろう。オレはお前が、お前達がどのような華を咲かすのか、楽しみに待つ事にするよ」
優しい声で、魔王は謳う様に言祝ぐ。
祈る様に祝う様に、優しく切なげな声で呟かれたそれは、側にいる蒼氷の耳にも届く事なく、ただ空気へと柔らかに溶けていった。