もう一人のストーカー
『 ――……僕の、負けだね 』
心底悔しそうに呟かれた言葉に、強張っていた肩から力が抜けるのを感じる。
砂塵やお互いの血液、流した汗や何やらで汚れた相手の横顔は、それでも尚その美しさを損なう事は無かった。
『 悔しいけど、この勝負は君の勝ちだ。潔く負けを認めるよ 』
長い長い戦闘で乱れた濃い金の髪が、汗で濡れた額に張り付く。
それを鬱陶し気に払い、それでも尚、未練の色を残す印象的な柘榴色の双眸が自分を見つめる。
相手の手に握りしめられた白銀の剣が、微かな光を帯びて煌めいた。
『 誓いは、誓いだ。僕の名と戦士としての誇りにかけて、君との間に交わされた契約に従うよ 』
――――その言葉を聞いて、自分の愛剣を握りしめていた右手に力がこもる。
噛み締めた歯の隙間から、長い溜め息を零した。
ああ、これでやっと……やっと、百数十年振りにこの変態から解放されるのかと思うと涙さえ零れかけた。
『 でも、一生想い続けるのは構わないよね? 』
そう思った矢先、朗らかに笑って言い切った相手の言葉に掴んでいた剣が滑り落ちかけたのは余談だ。
* * * *
「――……いや、一生想わなくていいから。迷惑だから」
苦々し気な表情を浮かべたまま、魔王が突っ伏していた頭を持ち上げた。
しかしその途端、視界に入って来た白い山を目にして、かなりうんざりとした表情になった。
「それにしても、蒼氷の奴め。ちょっと出かけてただけなのに、あんなに怒らなくてもいいじゃないか――そう思うだろ、藍玉」
「――陛下、貴方の中には『反省』という言葉は無いのですか?」
魔王の巻き添えを食って未決済の書類の整理を押し付けられた藍玉が室内に入ってくる。
呆れた態度を隠しもしない青年に、魔王は口を尖らせた。
「やれやれ、昔はあんなに可愛かったのに。……年を食う度に可愛げが無くなりおって」
「……追加の書類です」
どさり、と一気に書類の山が増える。
魔王の表情が、無言のまま引き攣った。
「魔王陛下、遊んでいる暇があれば仕事して下さい。それと夢を視ている暇があればサインをお願いします」
「おおぅ。いつも以上に冷たいな、藍玉」
ぶつぶつと呟きながら、手に持った羽根ペンを左から右に動かしていく。
琥珀色の瞳が藍色の瞳と交差した。
「なんだ。随分と何か言いたげじゃないか。何か聞きたい事でもあるのか?」
「……お訊ねしても?」
「――ん。構わんよ」
快諾した魔王の言葉に背中を押され、藍玉が口を開く。
「では陛下。陛下をストーカーしていた相手はどうなったのですか?」
「よりにもよってそれを聞くのか……。まあ、いい。話を振ったのはオレの方だしな」
大きな溜め息を吐きながら、それでもサインをする手を休める事は無い。
決済済みの書類が、瞬く間に積み重なっていった。
「かなり昔の事になるな。あのストーカー、何度断っても止めないから、ある日言ったんだよ。『真剣勝負をして、負けた方が勝った方の言う事を聞く』って」
「……成る程」
ぐしゃり、と藍玉の手の中の真っ白な書類に皺が寄る。
それに気付いているのかいないのか、魔王は視線は書類に注いだまま口を動かした。
「――で、当然奴もオレの提案に乗った」
「そう、ですか……」
「念入りに人払いをした上で、当時は人の住んでいなかった荒れ野で決闘をしたんだ」
「荒れ野で?」
「おう。そうして七日七晩、それこそ死に物狂いで戦って、オレはとうとう二度とストーカーに脅かされる事の無い自由を勝ち取った!! いやぁ、あの時の嬉しさに勝る物はかつて無かったぞ」
その時の勝利の余韻を思い出しているのか、晴れ晴れとした笑顔を浮かべる魔王に藍玉が眉間の皺を深める。
上機嫌になってペンを進める魔王のすぐ隣で決済の済んだ書類を持ち上げながら、藍玉は脳裏の記憶を探った。
――――今なお語り継がれている、魔王の武勇伝。
最強の存在として世界に名を馳せる魔王が、七日七晩も打ち合わなければならなかった程の相手は、数多い伝説の中でもただ一人だけ。
「いや、まさか……」
思い当たる相手の姿に、藍玉は訝し気な視線を執務中の魔王に送る。
紙を削る様な勢いで文字を綴っていく魔王は藍玉の事を気にしてもいない。
今は去りし神族を祀る神殿に僧侶として紛れ込んだいた頃、散々目にした絵画や彫刻の主題として取り上げられる事の多い有名な神話。
人の寄り付かぬ荒野にて魔王と剣を打ち交わしたされている、とある男神。
陽光を紡いで溶かし合わせた様な金髪に印象的な柘榴の色の瞳の美青年として描かれる、雄々しき軍神。
――――名を“柘榴のベルメーリョ”
千の強者を屠り、万の怪物を降したとされる彼の神と魔王が争った荒野は、二人の戦いの後に渓谷へと地形を変えてしまう程、凄まじいものであったと言う。
種族の壁を問わず、多くの者が知っている魔王の武勲の一つであるその戦いが、どのような理由で始められたのかは誰も知らず、当事者であった魔王本人も何故か語る事が無かったため、長らく魔族七不思議の中に入っていたのだが……。
「神殿の者達が聞いたら発狂するな……」
「ん? 何か言ったか、藍玉?」
神々の再来を今も待ち望み、一途に修行の日々を送る敬虔なる信徒達が、もしその様な真実を知れば世をはかなんで首を括りかねない。
一時期潜り込んでいた神殿に特に思い入れなどはないが、一生黙っていようと藍玉は決心したのであった。
一応、話の中にヒントは散りばめてはおきましたが、如何でしたか?
魔王のストーカーの正体でした。<ストーカー編>は今話で終了です。