魔王のトラウマ
ストーカーとは?
…特定の個人に対し異常な程関心を持ち、その人の意思に反して後を追い続ける者。
<広辞苑 第五版> 参照
ギラギラと理解し難い、いや、理解したくない欲望を火種に燃える、柘榴色の瞳。
普段は猫の様に細められているそれが嘘の様に見開いて、自分の姿を映しているのかと思うと鳥肌が立った。
『 好きなんだよ、心の底から。君しか欲しくないんだ 』
形の良い唇が動いて、その様な言の葉を紡ぐ。
相手が囁くだけで、熱のこもった吐息が肌をくすぐる。
その感触がおぞましくて、自分の顔面から血の気が引いていくのが分かる。
『 こんな想いは初めてなんだ。お願いだから受け止めて欲しい 』
きめ細やかな白磁の肌と、その肌に栄える黄金の髪。
髪の一筋から睫毛の一本に至るまでに完成された神々しいまでの美しさ。
至高の芸術品を思わせるその顔を寄せられれば、誰であれ陶然としてその美しさに酔ってしまうだろう。
『 ねぇ、お願いだ。僕の想いを受け止めてくれるよね? 』
――しかし、生憎そのお綺麗な顔を寄せられた所で自分が感じるのは嫌悪感だけだ。
というか、目の前のこいつは、自分がどれだけ嫌そうな顔をしていて、どれだけ離れて欲しがっているのかが見えないのだろうか。
『 愛しているよ、****。どうか結婚して欲しい 』
死ぬ気で嫌そうな顔をしているであろうに、相手はそんな事を気にもしない。
――――勝手な事を言いながら、赤い唇を寄せてくる相手に、自分は絶叫した。
* * * *
「――――っ、ぎゃああああぁぁぁあっ!!」
「如何なさったのじゃっ、魔王陛下!?」
それこそ身も蓋も無い叫び声が、城中に響き渡ったであろう。
場所は、魔王城の心臓部。
言わずもがな、魔王の執務室が悲鳴の発信源であった。
「へ、陛下! 何が何なのかよう分からんのじゃが、ひとまず落ち着くのじゃ!!」
「うわぁぁああっ! 怖気と鳥肌と蕁麻疹が立ってるぅぅうっ!!」
今までに目にした事が無い位、その魔性の美貌を青ざめさせた魔王が両手で二の腕を擦る。
宣言通り、微かに露出している肌の一部からは鳥肌が立っていた。
「か、過去に例を見ない、気持ちの悪い夢を見てしまった……」
「……大丈夫、ですかの?」
十五歳程度の容姿でありながら、達観した老人の様な口調で話す蒼氷が、やや呆れた様に頭を振る。
その隣で、魔王の方は先程思い出してしまった忌まわしい過去に頭を抱えた。
「うう……。なんだってば、今更あんな夢を……。もう二度と見るまいと思っていたのに……」
「随分な悪夢を見られたようですのぅ。折角の気晴らしも、上手くいかなかった様で」
ふふふ、と含み笑いをする蒼氷に、未だ青ざめた顔が向けられる。
琥珀色の双眸が、閉ざされたままの両眼をじっとりとした視線で見据えた。
「――――人が悪いぞ。仕事の最中に寝てしまって悪かったな」
「いえいえ。その様な些事は気にしておりませぬよ、魔王陛下」
寝る事は育つと言いますからのぅ、と言ってほけほけと笑う側近を魔王が睨む。
他は誰であれ、少なくとも現在の自分と似た様な年格好の蒼氷にだけには言われたくない台詞だ。
「して? 何故、悪夢などを視られたのかをお聞きしても?」
「大した事じゃないさ。原因は今日の青蘭嬢の話だろうな」
「青蘭嬢……? あの灰砂坊の奥方の事ですかな? 三月程前に、奥方を迎えられた?」
印が押された書類を小分けして運びながら、蒼氷が首を傾げる。
それにようやく鳥肌が収まって来た魔王が小さく頷いた。
「ああ。ちょっと警吏宛の嘆願書が混じっていたからな、藍玉と役人に扮して会いに行ってみたんだ」
「それで? 確か奥方殿は元は人間族でございましたな。何か不都合が?」
「それがなぁ……」
大きな溜め息を吐く。
口と同時に手を動かしながら、休憩時間の間に起こった一連の出来事を話す。
「ふーむ。聞けば聞く程、ストーカーの被害に遭っておられる様に見られますのぅ」
「だろ? 一応証拠の手紙を受け取って、念のため藍玉に風で青蘭嬢の周囲を見張らせている」
水の精霊族と風の精霊族の混血児である藍玉は、風と水の二元素を操る事が出来る魔族だ。
「しかし、魔王陛下。あのヘタレ……失敬、灰砂の坊やには伝える気はないのですかの?」
「夫に迷惑をかけたくないというのが青蘭嬢の言い分だったが、オレとしては明日の朝一番にあのヘタレに会いに行って、奥方の身に何が起こっているのか知らせてやるつもりだ。仕事が忙しいらしいが、それこそ魔王命令で何とかしてやる」
堂々と公私混同を宣言して、羽根ペンを動かす。
そんな魔王の隣で、顎に指先を当てて考え込む様な仕草を取っていた蒼氷が閉ざされたままの双眸を魔王へと向けた。
「……魔王陛下」
「なんだ、蒼氷」
「もしや、ストーカー被害に、過去遭った事が?」
「……なんでそう思ったんだ?」
「陛下の嫌がり様がどうにも尋常でないようですからのぅ」
「……」
――――その無言が、返答であった。
灰砂…青蘭嬢の旦那さん。後々、登場予定。