書状
初代にして永代たる魔王の治める魔族の国は、夜空色の魔王城を中心に、蜘蛛の巣状に魔族達が住む魔族の街が存在する。
八本の街道とそれに添う形の城下町。
今回、魔王の書類の中に紛れ込んでいた書状は、人間族の王国に近い街に住む女性が出した物であった。
* * * *
「魔王陛下、今ならまだ間に合います。直ちに書状は緋晶に任せて、今すぐ城に帰りましょう」
「そうイライラするな、藍玉。ただ話を聞くだけじゃないか」
書状の差出人の女性と待ち合わせしていた喫茶店で、藍玉と隣り合わせに座りながら、今は幼子の姿の魔王は足をぶらぶらと揺らした。
「……城にはまだまだ書類が堪っておりますが?」
「嫌な事を思い出させるな。ちょっとした気晴らしだ」
赤と茶色の制服を着込んだウェイトレスが、不思議そうに並んで座る二人を見つめながら、横を通り過ぎる。
二人共すっぽりと顔を隠す様なフードを被り、特に何も注文する事もなくただ席についているのだから、不審に思われてもしょうがないだろう。
「おや。どうやら書状の主が来た様だぞ」
カラン、と高い鈴の音が響き、木製の扉を押し開けて店内に新たな客が入って来る。
肩まで垂らす栗色の髪を白のリボンで結んだ、焦げ茶色の瞳の可愛らしい雰囲気の女性だ。
きょろきょろと店内を見渡しながら入って来た女性に、魔王が立ち上がって右手を振ると、ホッとした様子で駆け寄って来た。
「す、すみません。遅れた様で……。念のため、合い言葉を確認しても良いですか?」
「構わないとも。――保守派、頑固者で石頭ときたら……?」
「えっと、木の精霊族ですね、お役人様!」
「……木の精霊族が聞いたら今にも攻め込んできそうな言葉ですね」
きゃあきゃあ、とはしゃぎあう二人を見つめながら、藍玉がフードの下でボソリと呟く。
幸いにしても誰の耳にも届かなかった様だ。
「サフィア嬢で、お間違いありませんか?」
「いいえ、お役人様。確かに私の名はサフィアでしたが、今はもう違います。あの人と共にこの地で生きる事を決めた今となっては、その名はもはや過去の物」
魔王とはしゃぎあっていた女性が、藍玉の言葉に毅然とした態度で首を振る。
それまでの何処か可愛らしさの強かった顔が、その言葉を発した途端、凛としたものとなった。
「ふふ……。オレの部下が失礼したな。失敬、それでは魔族の名で呼ぶとしよう。構わないか、青蘭嬢」
「ええ、勿論です」
にっこりと微笑んだ女性に、魔王が愛おしそうな顔を見せる。
それに気付いて、藍玉がコホンと空咳を上げた。
「ところで、青蘭嬢。旦那とは上手くいっているみたいだな」
「まあ、お役人様! 主人をご存知ですの?」
向かい合う様にして席に着き、他愛のない話を二言三言済ました後、さり気なく魔王が口火を切る。
「ああ。一時期、オレの職場でも話題になったからな。あのヘタレがようやく思い人と結婚出来たと」
「恥ずかしながら、求婚は私からでしたの」
きゃ、と頬を赤らめながらの女性の言葉に、それは良い事を聞いたと言わんばかりに魔王が口角を持ち上げ、藍玉はヘタレめ……と声に出さずに呟いた。
「人間族の女性として生きていた貴方が、何もかもを捨ててそれでもあのヘタレの手を取ってくれて本当に嬉しく思う。この国にはもう慣れたかな?」
「はい……。愛する人と一生を共にする事が出来る喜びもございましたが、同時に何もかも知らない世界で上手く生きていけるかどうか不安でしたけど、皆様優しくて……本当に幸せです」
そう言ってはにかむ青蘭嬢、つまりサフィアは、元は人間族の王国に住む一介の村娘であった。
しかしながら、何の運命の因果か村を訪れた魔族の男性と恋に落ち、周囲の反対を押し切って駆け落ちした女性でもある。
こうして異種族恋愛の典型的パターンの様な物語を経て、つい三ヶ月前に今の旦那と彼女は結婚した。
「本当に、今までにない程幸せなのですが……」
幸福で輝いていた女性の顔が曇る。
卓の上に置かれていた青蘭の手が小刻みに震え、表情に怯えの色が混ざった。
「ここ最近、何か可笑しいのです。――外に出る度に、視線を感じて」
そっと魔王が、震える青蘭の手の甲に自身の手を乗せる。
他人の温もりに、安堵するかの様に青蘭の体から強張りが抜けた。
「家には、私宛に変な手紙が届くし、もうなにがなんなのやら……!」
「ヘタレ……じゃなかった、旦那にはこの事は?」
「主人は今、大事な仕事に取りかかっていて話せないのです。それに、あの人の負担になる様な事はしたくなくて」
魔王が藍玉に目配せをする。
「それで養母に相談してみても、妊娠のせいで気が立っているだけじゃないかと言われるだけで……でも!」
蚊の鳴くような声で、青蘭が囁く。
「……気のせいじゃないんです。もう私怖くて、怖くて……!」
ふるふる、と子兎の様に震える青蘭を魔王は抱きしめると、宥める様に背中を叩く。
心音と同じ早さで叩かれる単調な刺激に、抱きしめられている青蘭の震えが徐々に収まってくる。
「――……そう、良い子だ。ゆっくり息を吸って、そう吐いて。……落ち着いたか?」
「ええ……。本当にすみません。お見苦しい所をお見せ致しました」
僅かに潤んだ眼差しのまま、にっこりと青蘭が微笑む。
フードの下から微笑み返して、魔王は青蘭から離れ、元の席に着いた。
「お腹に子がいるのだろう? あまり無茶はしない方がいい」
「ええ。そうですね……」
まだそんなに膨らんではいないが、確かに自分以外の命が宿っている腹部を愛おしそうに優しく撫でる。
「それにしても、魔族の方々は年齢と外見がそぐわぬ方が多いとお聞きしていましたが、お役人様もそうなのですか?」
「ああ。今は子供の姿だが、こう見えて青蘭嬢よりも、この男よりも年上だぞ」
くい、と隣の藍玉を指し示して、魔王が軽口を叩く。
くすくす、と青蘭が笑った。
「――――さて。酷な事をお訊ねしますが、青蘭嬢。いままでに受け取った不審な手紙を我々に見せては頂けないでしょうか?」
「あ、はい。そうですね」
婦人用の小さな鞄に手を突っ込み、そこから何重にも油紙に包まれた封筒を藍玉の方へと寄越す。
常の如く淡々とした様子で受け取った藍玉が、封筒から紙を取り出した。
「――――確かに、受け取って嬉しい物とは言えんな」
横から覗き込んだ魔王が、苦々し気に眉根を寄せる。
どこにでもありそうなありふれた用紙には、乱暴な筆跡で『嘘つき女』『裏切り者』『許さない』といった具合の恨み言が延々と綴られていた。
「最初にこれを受け取ったときは、暖炉で燃やしてしまいました……。でも、最初の手紙を受け取ってから、三日おきくらいにこのような事が書かれた手紙が家のポストに届くんです」
「旦那には、この事は?」
「言っておりません」
悲しそうに、青蘭が首を横に振る。
「届く時間もまちまちで……。でも、家に私しかいない時に限って届くんです」
「消印や、差出人の住所も書かれていませんね。まぁ、当然ですが」
手紙ではなく、それが入っていた封筒を何度も見返しながら藍玉が一人冷静に呟く。
そうした後、訝し気に封筒の表、受取人の名前が書かれた部分を指でなぞった。
「変ですね……。この宛先、何故……」
「兎も角、こんな不愉快な手紙など二度と見たくないだろう。これは我々が預かる事にしよう」
「ありがとうございます」
頭を下げた青蘭に、魔王が「ところで」と口を開いた。
「ところで、青蘭嬢。今日はここに来るまでに視線を感じなかったのか?」
「はい。その手紙が届いた日には視線は感じませんの」
「ふうん……」
焦げ茶色の瞳に確信を込めて青蘭が頷く。
そんな彼女に、やや居心地が悪そうな表情に成った魔王が忌々し気に口を再度開いた。
「その、青蘭嬢。貴女が今置かれている状況についてだが……」
「はい。なんでしょう、お役人様」
「おそらく貴方はストーカー被害にあっておられます」
「――――え?」
きょとん、と目を何度も瞬かせる青蘭。
何がなんだか分かっていない様子の彼女に、溜め息を交えつつ魔王が頷いた。
「信じられない気持ちは分かるが。おそらくこれはストーカーとみて間違いないだろう。――犯人はどうやら、青蘭嬢があのヘタレの奥方に成った事が相当気に食わないらしい」
ヘタレこと青蘭嬢の旦那様は後々登場の予定。