魔王帰還
闇夜に浮かぶのは、仄かな橙色の燈火を灯す白亜の城。
世界の四種族のうち、人間族の王の住まう、鉄壁の防御を誇ると謳われているその城内。
夜空に浮かぶ真円なる満月とその周囲に散らばる銀の真砂の様な星が照らし出す下、踊る様に歩を進める小さな人影があった。
とん、とリズミカルに白亜の床を踏んで、軽やかに飛び上がる。
ゆうるり、と質素な作りの服に身を包んだ手が伸びて、空を切る。
くるり、とステップを踏むと後ろへと優雅に回ってみせる。
白のヘッドドレスこそないものの、服は正しくこの城で働くメイドの物。
簡素な作りの茶色の給仕服と真っ白なエプロンドレスが、人影が舞う度に軽やかに揺れる。
「――――ご機嫌ですね、魔王陛下」
「やあ、藍玉。お前は不機嫌だな」
舞台で観客を魅せる踊り子の様に、月下の下で舞う人影に声をかけたのは不機嫌そうな僧侶。
しかし、眼鏡を外してやや乱暴に髪を梳くと、整った顔立ちながらも何処か地味な雰囲気の青年の姿は、銀の混じった灰色の髪に冷たい光を宿した藍色の瞳を持つ怜悧な美貌の青年へと姿を変える。
「ふふふ。これでとにかくオレのすべき仕事は終わったなぁ、と思うと、それだけで心が浮き立つというものだ」
舞を止めた、全てが完璧に形作られた美の極致の様な爪先が、ゆっくりと空を掴む。
実体のない何かを掴もうとする様なその動きに、それまでじっと見守っていた藍玉が溜め息を吐いた。
「何を恍けた事を言っているのですか。魔王陛下、貴方は勇者が来るからと言って全て後回しにしていた書類の束がどれほどあると思っておられるのですか?」
「――――え?」
きょとん、と子供ながらも魔性の美貌を宿す面差しが驚きに包まれる。
「少なくとも、今現在の陛下の身長を超える程度の書類の束は山ほどあります。…………どうやらお忘れだったようで」
「うっそ! なにそれ、オレ聞いてない!?」
「初代にして永代たる我らが魔王陛下の事ですから、すでにご存知であったかと思っておりましたが、私の連絡ミスのようですね。うっかりお伝えするのを忘れたようです」
にっこり、と目だけが微笑んでいない笑みを藍玉が浮かべると、魔王は大袈裟な動きで頭を抱え込んだ。
「うっかり……って。お前、そんなキャラじゃないだろうが……。――完全に勇者の件を根に持っているな」
「何かおっしゃいましたか、魔王陛下?」
「いーや、なにも。――……昔はあんなに素直で可愛かったのになぁ」
唇を尖らせ、完璧に拗ねた子供用な仕草をしている魔王は魔族の中で最も長寿な存在である。
そのため、現・魔族の誰もの幼い頃の姿を見知っていた。
『――――陛下』
「塔へと侵入させておいた子供達か。頼んでおいた術式破棄は叶ったか?」
『当然です。異世界召還の術並びに帰還の術、全て破壊致しました』
「ご苦労様。さすがはオレの自慢の子供達だ」
周囲に誰もいないにも関わらず、二人に――厳密には魔王へと――声がかけられる。
夜の風に紛れてしまいそうな忍び声の持ち主を、魔王が弾んだ声で賞賛する。
愛しさの滲んだ声で誉められ、姿の見えぬ声の主が照れた様に沈黙した。
「さーて。第二の異世界産勇者が誕生しない様に手は打ったし、なんか藍玉は怖いし、オレもそろそろ城に帰るとするか」
「人間族の国王はあのままでよろしいのですか?」
「まぁ、いいんじゃね? わざわざおおっぴらにして、盛大に恥をかく様な趣味は持っていないだろうし」
心底どうでも良さそうに、魔王がひらひらと手を振る。
尚も言い募ろうとする藍玉を琥珀の視線で制すると、魔王は藍玉へと小さな手を伸ばした。
「――――そら」
「……なんですか、この手は」
「飛んで帰るんだろ? オレも連れてけ」
「失礼ながら、陛下は空を飛ぶ術を習得している筈では?」
「勇者に倒されてやった副作用で満足に力を使えないんだよ」
はぁ、とわざとらしい溜め息を吐いて、藍玉が子供姿の魔王を抱え上げた。
これより第三部になります。
「魔王城の新たなる日常」へと移ります。