なぜ魔物がはびこる辺境伯領に?
馬車の硬い座席に身を預け、セシリアは祖母メリダの手紙を何度も読み返していた。
薄暗い馬車の中、窓から差し込む月光が紙面を白く照らし、祖母の言葉が目に焼き付く。
「貴族たるもの、自分で判断し、自分で責任を持つ」。
その言葉は、セシリアの心に重く響いた。だが、ダックス辺境伯の領地を選んだ理由がどうしても腑に落ちなかった。
なぜ、魔物がはびこる辺境の地を、祖母は選択肢に挙げたのか?
セシリアは窓の外に目をやった。街の明かりが遠ざかり、闇に沈む森の輪郭が揺れている。
彼女の頭には、祖母メリダの厳格な顔が浮かんでいた。
メリダは生前、冒険者ギルドのパトロンとして知られていた。
彼女がギルドに多額の寄付を行い、魔物討伐の装備や訓練を支援していたことは、セシリアも耳にしていた。
――冒険者として生きる選択肢なら、ギルドの支援が得られるかもしれない。それなら分かるわ。でも、辺境伯領? あそこは魔物の巣窟で、貴族の私が足を踏み入れるような場所じゃない…。
セシリアは額に手を当て、考えを整理しようとした。
ふと、彼女の脳裏に祖母の声が蘇った。
「目先のことしか考えられない馬鹿はいらない。」
メリダはいつもそう言って、セシリアに試練を課していた。
幼い頃、領地の管理について学ばされた時も、祖母は簡単な道を許さなかった。
――もしかして…。
セシリアの目が光った。
「冒険者ギルドやクレイモア邸への帰還は、簡単すぎる選択肢。祖母は私に、困難な道を選ぶ覚悟を試したかったのね。辺境伯領は、危険だからこそ、私の真の力を試すための選択肢だったんだわ!」
その結論にたどり着いた瞬間、セシリアの胸に小さな火が灯った。
プライド高きクレイモア伯爵令嬢として、祖母の試練に応えたいという思いが湧き上がった。
だが、同時に不安も押し寄せる。辺境伯領は遠く、魔物の脅威だけでなく、道中の危険も計り知れない。
彼女は隣に座るレノーラを見た。吟遊詩人はリュートを膝に置き、ルートと何か小声で話している。
ルートの「フム、ワガハイもその選択は謎じゃな。だが、面白い展開になりそうじゃ」と偉そうな声が聞こえた。
「お嬢様、考え事もいいけど、お腹が減ってるんじゃない?」
レノーラの声が唐突に響いた。
彼女の赤い瞳が、薄暗い馬車の中で鋭く光る。
「私の泊っている宿でさっさと着替えて、市場で夕飯にしましょう。その青いドレス、目立ちすぎるし、裾が汚れてる。ブローチには紋章も入っているし、追手に見つかったら一発でおしまいよ。」
彼女の口調はそっけなく、どこか挑発的だった。セシリアはムッとしたが、確かに空腹で頭がぼんやりしていた。パーティー以来、まともな食事を取っていなかったのだ。
「…分かったわよ」
セシリアは渋々頷き、馬車が街の市場へと向かった。
レノーラの宿は市場の裏手にある、狭くて古びた建物の一室だった。
部屋には簡素なベッド、木製の机、散らかった楽譜や冒険道具が無造作に置かれていた。
レノーラはクローゼットから地味な灰色のワンピースを取り出し、セシリアに放った。
「これ着なさい。貴族のドレスじゃ、道中で目立つだけよ」
セシリアは不満げに唇を尖らせたが、青いドレスの裾が泥で汚れているのを見て渋々着替えた。
クレイモア家の紋章の入ったブローチも、嫌々ながらレノーラに預けた。これで、クレイモア伯爵令嬢としての全てがなくなった。
鏡に映る自分は、まるで別人だった。華やかな貴族の令嬢ではなく、どこにでもいる平凡な少女。
「これも、祖母の試練を乗り越えるためよ」
セシリアは自分の頬を軽く叩き、自分に喝を入れた。