別れの時①
ダックス辺境伯の広間での謁見を終え、セシリアは一つの大きな試練を乗り越えた安堵と、新たな未来への不安が入り混じる心を抱えていた。
辺境伯の提案したマリウスとの婚約は、彼女に新たな希望を与えたが、同時に、クレイモア家の名を取り戻すための戦いがまだ終わっていないことを強く意識させていた。
広間の窓から差し込む夕陽が、セシリアの青いドレスを柔らかく照らし、彼女の決意を静かに映し出していた。
辺境伯はセシリアを客室へと案内させ、休息を取るよう促した。
石造りの廊下を進む中、セシリアの隣にはレノーラが歩いていた。赤いドレスをまとい、リュートを肩に担いだ吟遊詩人の姿は、まるでこの城の重厚な雰囲気とは異質な軽やかさを持っていた。
リュートに宿る精霊ルートは、
「フム、ワガハイはこの城の内装が少々気に入らんが、なかなか面白い展開じゃな。少なくとも退屈とは無縁じゃ。」
と呟いたが、セシリアはいつものようにその声を無視した。
客室に通されると、そこは質素ながら清潔で、窓の外には金色の麦畑が広がっていた。
セシリアは椅子に腰を下ろし、ようやく一息ついた。
レノーラは部屋の隅にリュートを置き、窓辺に立って外を眺めた。
「お嬢様、なかなかやるじゃない。辺境伯を相手に、あんな堂々とした答えを出すなんてね。」
彼女の声には、いつものからかうような毒舌の響きが混ざっていたが、その奥には本物の称賛が感じられた。
「レノーラ、ありがとう。あなたがいなかったら、私はここまで来られなかったわ。」
セシリアは素直に感謝を述べた。
トマスの婚約破棄、父の裏切り、追手からの逃亡、そして魔物との戦い。すべてを乗り越えたのは、レノーラの歌とその機転のおかげだった。
旅が始まった頃、セシリアは、貴族の私を助けるのが当然だと思っていた。でも、今なら分かる。そんな考えは傲慢だったと。
――あれからほんの少ししか経っていないのに。
セシリアの青い瞳には、感謝と同時に、どこか名残惜しい感情が宿っていた。
レノーラは振り返り、赤い瞳でセシリアを見据えた。
「お礼はいいわよ。私の仕事は、メリダ様の依頼であなたを無事に辺境伯領まで送り届けること。それが終わったんだから、そろそろお別れの時間ね。」
彼女の言葉はそっけなく、しかしどこか優しかった。
セシリアの胸に、鋭い痛みが走った。レノーラとの短い旅は、彼女にとって初めての「本物の冒険」だった。
貴族の屋敷で育った世間知らずの少女が、初めて自分の力で立ち上がるきっかけを与えてくれたのは、この毒舌な吟遊詩人だったのだ。
「別れる…?でも、私にはまだ…。」
セシリアは言葉を詰まらせた。彼女の心には、トマスとライザへの怒り、父の裏切りへの疑問、そしてクレイモア家を再興するという使命が渦巻いていた。
レノーラはそんなセシリアの様子を見て、軽くため息をついた。
「お嬢様、泣きそうな顔してるわよ。貴族の令嬢がそんな顔じゃ、メリダ様に怒られるわね。」
その言葉に、セシリアはハッと我に返った。彼女は目を拭い、背筋を伸ばした。
「そうね…お祖母様なら、こんなところで弱音を吐く私を叱るわよね。」
彼女は無理やり微笑みを浮かべ、レノーラに言った。
「でも、レノーラ。あなたがいなくなったら、私、どうやって真相を探ればいいの?…私はまだ、社交界に出られる年齢じゃないのよ。」
レノーラはニヤリと笑い、リュートを手に取った。
「その点は、心配しなくていいわ。ダックス辺境伯が動いてくれるって。」
彼女が顎で示した先には、広間の扉から入ってきた辺境伯の姿があった。彼は穏やかな笑みを浮かべ、セシリアに近づいた。
「セシリア、君が未成年で社交界に出られないことは承知している。だが、君の祖母、メリダ様の恩義を忘れるわけにはいかない。私が君に代わって、真相を探る手はずを整えよう。冒険者ギルドを通じて、トマスとライザの動向、そしてクレイモア家の状況を調べさせる。君はここで、マリウスと共に新たな一歩を踏み出すことに専念すればいい」
辺境伯の声は落ち着いており、しかしその裏には揺るぎない決意が感じられた。
セシリアは目を丸くした。辺境伯のこの申し出は、彼女にとって予想外の支援だった。
「ありがとう、辺境伯様。でも…なぜ、そこまでしてくださるの?」
彼女の声には、疑いと感謝が混ざっていた。辺境伯は微笑み、答えた。
「メリダ様は、ダックス辺境伯領を救ってくれた。魔物討伐の支援を通じて、この領地を豊かにしてくれた。その恩を、君を通じて返すのが私の務めだ。」
セシリアは胸が熱くなるのを感じた。祖母の遺志が、こんな遠い地でなお生き続けていることに、彼女は深い感動を覚えた。だが、同時に、彼女の頭には新たな考えが浮かんでいた。
――どこかに、きっとあるはず。真相を探るための手がかりが。