悪女に惚れた私は、今でも彼女を憎みきれない
ああ、あんなにも愛しかった我が妻、カモミール・ドゥ・ロレーヌ。
今ではおまえのことを憎んで憎んで、憎んでやまない。
生きていれば、どうしようもなく殺意が込み上げてくる。
いっそのこと冷たく青白く光る刃で、そのどくどくと脈打つ心臓を刺し貫きたい。
おまえが犯した罪は、決して許されることのない大罪なのだから。
きっと優しい神様でさえもおまえのしたことを許しはしないだろう。
でも、なぜだ。
どうして今までと変わらない笑顔で優しく私に微笑みかけてくる?
どうしてそんなにあどけない表情を浮かべるんだ?
どうして私の心をこんなにも掻き乱すのか?
教えてくれ、カモミール。
世界で1番愛している。でも、ただただ憎い。
おまえを殺したい。
それでも。
殺意どころか、そのあどけない笑顔に、優しい心に、繊細な所作に、愛おしさが込み上げてきて、翻弄されてばかりだ。
無自覚な美しい凶器は、心をずたぼろに引き裂いて、ぐちゃぐちゃに混ぜてゆく。
出来上がったのは、憎悪とも愛情とも似つかない、真っ赤に燃えたぎる恋心。
おまえは私の心をこれ以上どうするつもりなんだ?
◇◇◇
「まあ、素敵。この世で最も美しいとは、このことだわ。」
真っ赤なバラが咲き乱れ、噴水の水が麗らかに流れるお城の庭園で、妻のカモミールはそう言った。
「ああ、そうだな」
まあ、確かに、この庭はこの世のものとは思えないほどに、美しい。
しかし、夫、テオドアの目に映るカモミールは、もっと美しく可憐で、愛おしく思えた。
もう、桜も散りゆき、緑の新芽を覗かせる暖かな時期になっていた。
赤の景色に映える妻は、赤毛を靡かせ翡翠色の目を爛々と輝かせている。
「見てみて、ここの桜、まだ咲いてるわよ!」
「ほんとだな。遅咲きの桜か」
笑顔ではしゃぐその姿は見た目よりあどけなく感じられるが、彼女は理知的であり、聡明で、天真爛漫な性格そのものだった。
ああ、なんとも可愛らしいカモミール。
まるで、その華奢で色白な身体の周りに花を纏っているようだ。
俺の頬は思わず緩む。
我が命に変えてでも、一生守り抜く。
貴方が私に微笑みかけてくれた時から、そう誓ったのだから。
◇◇◇
カモミールとの出会いはほんの一カ月前だった。
彼女は超がつくほどのお金持ちであり、センタトゥイーユ王国のロレーヌ財閥の令嬢でもあった。
父が交通事故で不幸な死を遂げ、なにも持ち合わせていない俺にとって、不釣り合いなくらい素晴らしい女性だ。
ある日、ロレーヌ財閥主催の百周年記念パーティーが開催された。
「今日は、お集まりいただき光栄ですわ。みなさま、思う存分楽しんでいただけたら幸いです。」
司会はもちろん、財閥界で最も美しいといわれる、カモミール令嬢だ。
天井には派手なシャンデリア。
豪華な食事と華やかな会場が設けられ、マダムたちは美しいドレスを身にまとい、ダンスに集中している。
そんな中で、主役のカモミール令嬢は他の煌びやかな貴族たちには目もくれず、なんの変哲もない格好をしていた俺の隣にピッタリとくっついた。
「お隣、良いかしら?」
突如、会場にざわめきが起こった。
当時私はこのパーティーに初参加だったため顔も知らない貴族達が大半だ。
そのため、周知には当然の反応と言えるだろう。
私の財閥は父の死によって経営が傾き、今やロレーヌ財閥が上がったり。
世界で一番くらいの高い令嬢と言えるだろう。
そんな彼女が、俺なんかに。
「あなたとお話ししてみたいと思っていたの」
彼女は微笑みながらそう言った。
話しかけられるというのは、こんなにも嬉しいものなのか。
しかも、こんなに儚げで、可愛らしい女性に。
みるみる自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
「あなた、確か、ロックハート財閥のロイスさんですわよね?」
「ああ、そうだ。よろしくな」
「よろしくお願いしますわ」
ふわっと、薔薇のいい香りが漂った。
俺はその香りと彼女の笑顔にやられてのぼせそうになった。
しかし、思えば、彼女は以前から私に狙いを定めていたのかもしれない。
彼女は人を不幸のどん底に突き落とす天才だったのだから。
◇◇◇
その日の午後は、雨が滝のように窓ガラスに打ちつけていた。
ふと、「薔薇の花をいける花瓶が欲しいですわ。できればガラスの瓶がいいわ」と
カモミールが言っていたのを思い出した。
なんとなく、ロレーヌ邸の薔薇の庭園の倉庫にあるのではないかと思い、その倉庫をのぞいて見ることにした。
外は土砂降り。
まるで天気を司る神が大泣きしているかのようだ。
私は適当な雨傘を手に取り、無造作にさす。
庭園の倉庫に着いた。
ドアを開ける。
ガシャン!!
倉庫の中を探っていると、大きな音がしたかと思えば、地面にガラスが落ちて割れてしまった。
…ついていない。
拾おうとして、奥の方から軍手を出そうとすると、硬く冷たい金属のようなものが手に当たった。
気になって、倉庫の中のものを全て外に出して確認してみると、それは、ダイヤル式金庫だった。
(な、なんでこんなところに…??)
ダイヤルは、開いていない。
試しにカモミールの誕生日の数字を入力してみた。
(…1127)
ダイヤルを回すが、開かない。
それでは、私の誕生日か。
(…0916)
再び、ダイヤルを回す。
ガチャ___
重く響く音を立てながらその金庫は開いた。
どうやら長い間、暗くジメジメした庭の倉庫に放置され閉ざされていたみたいだ。
___中に入っていたものは、一つのボイスレコーダー、知らない男とカモミールが写った写真だった。
(なんだ、これは)
見たことのない、キリリとした顔立ちの五十代前後の髭の生えた男。
この男は、カモミールの父親だ。
何か嫌な予感がした。
しかし、好奇心を抑えきれない私はボイスレコーダーを再生してみた。
するとそこには。
「まあ、いい、カモミール。この件についてはあまり深く考えるな。俺がのちに処理しておく。お前は黙って、なにを聞かれても悲しそうに頷くだけでいいんだ。わかったな?」
野太い男らしき声。
「はい、お父様。手間をかけて、申し訳ございません。でもこれは、ロックハート財閥を潰せる大いなるチャンスですわ。ロイス様のお父上を消せば指導者がいなくなり、2財閥で争っていたうちの財閥も鰻登りによくなることでしょう」
続いて、カモミールらしき美しい女の声。
「スタッフの方は?」
「もう処置済みだ。口封じに金は渡してある」
(なんだ、一体なんの話をしているんだ…)
最初はなにがなんだかよくわからなかった話も、落ち着いてくるうちにだんだんと飲み込めてきた。
(カモミールが、、、消した?私の父を?)
ありえない。
そんな恐ろしいこと、あっていいはずがない。
しかし実際に聞こえてくる声はカモミールそのものであった。
「お父様、指導者を消しても、また新しい指導者は出てくるのではないですか?」
「それがな、カモミール。ロックハート財閥のところの息子はどうにも出来損ないなようだ。あまり披露宴にも顔を出さないだろう?それはあやつがいつも息子について恥ずかしがっていたからということだ」
私は手に汗を握った。
私の父は、交通事故で亡くなったのではないのか。
意図的な、事故に見せかけた、他殺。
それも、カモミールの指示によって?
急に視界がぼやけて、吐き気がしてきた。
いつの間にか私は傘をささずにいた。
___ザアアアアアア
雨音がより一層強く聞こえる。
私はボイスレコーダーと現場写真を抱えて土砂降りの庭を後にした。
部屋に戻る途中、カモミールの声がまるで耳のそばで聞こえているかのようで、何度もえずいてしまった。
◇◇◇
ガチャ
部屋の扉が開いた。
「テオドア様、今日もご機嫌麗しゅうございます」
なんだ、妻か。
いつも通りじゃないか。
__違和感。
「今日は日曜日ですわ。昨日のお仕事も大変だったでしょうに。今から、温かいハーブティーを出しますわね」
妻はとびきりの笑顔でこちらに微笑みかける。
ハーブティーとは、気が利くな。いつもに増して美しい妻だ。
__違和感。
私は何かを忘れている気がした。
ズキンッ
頭痛がする。なんだ、この痛みは。
そういえば昨日、倉庫へ花瓶を探しに行って、雨に打たれて、そのまま…
「紅茶、持ってきましたよ。もう、テオドア様ったら昨日からずっと様子がおかしくって…大変でしたのよ?もしや、風邪をひいているんじゃ…」
そうだ。私は、昨日、妻のあってはならない秘密を知ってしまったのだ。
…私の妻は、交通事故に見せかけて父を殺した共謀者だったのだ。
本来なら、彼女を一番憎むべき存在は私だ。
妻は白い肌の手のひらを寝ている私のおでこに当てる。
「あっつ…!!テオドア様、熱があります。氷と薬、持ってきますね」
しかし、なんて美しく優しいんだ、この女は。
今日も一段と輝いていて、可愛らしい。
その愛おしさに思わず唇を噛み締めてしまう。
なんだ、私は。
調子が狂ったのか。
いつもなら、自分の父を殺めた存在など、憎くて憎くて仕方がないはずだ。
私を男手一人でいちから子育てを学び、育ててくれた。
悩んでいる時は親身に話を聞き、優しく慰めてくれた。
でも、そんな父は、もういない。
ガチャ
「テオドア様っ!大丈夫でして?」
ああ、妻よ。
もしも私の実の父を殺すのに加担したことが事実だというのなら、私は本当に貴方を憎むしか道がなくなるだろう。
愛しの妻よ。
できれば、こんな甘ったるいだけの感情を今すぐ捨てて、激昂し、血管を浮き立たせながら貴方の髪を片手で掴み、「今すぐ謝罪し、私と別れろ!」と言えることができたらどんなにいいだろう。
きっと、しっかりした人道のある男であれば、その反応が正解だろう。
しかし生憎、私はそんなもの持ち合わせていない。
貴方を好きだと思う感情ばかりが湧いてくるのだ。
妻は私のおでこに氷袋を置き、水と薬を持ってくる。
「やっぱり風邪ですわ…。テオドア様、昨日、どこか外に出ましたか?」
「ああ、実は…庭の倉庫に用事があったのだ」
「そうだったのですね…用事など、私に言えばいいものを…」
「あのな、カモミール」
「はい!なんでしょう?」
カモミールらしい元気な笑顔だ。その笑顔を見ていると、ズキリと胸が痛む。
「…いや、なんでもない」
「???」
___なんでもないんだ。
訝しげにこちらを伺うカモミールは、やはり私の知っているカモミールであり、その姿に寸分も疑う余地がないことを私は知っていた。
___だから、こそ。
問わなければならない。
しかし、私にそんな勇気はない。むしろ、カモミールが父を殺すのに加担したという事実をもみ消しにして、頭の中から消し去りたいくらいだ。
嘘だと思いたい。
こうして私は、彼女の罪を起訴し問いただすという選択肢をひた隠しにし続けた。
頭の中で意識はしていても、妻の笑顔に、優しい眼差しを見ると、そんなことどうでもいいか、と思えてきてしまうのだった。
◇◇◇
妻、カモミールのとある秘密を握って約三ヶ月がすぎた。
その間、何事もなく順調に物事が進んでおり、怖いくらいだった。
ついに私は、彼女にこの秘密について糾弾することを決意した。
きっかけは、彼女のとある一言だった。
「テオドア様のお父様は、とても優秀な方でしたもんね」
ある日、ロックハート財閥の経営についてカモミールと話をしていて、自分一人でやっていけるかどうか不安を打ち明けると、カモミールがそう言ったのだ。
なんだよ、それ。
お前が殺したんじゃないか!!
流石の私もその時のカモミールには苛立ちを覚えたのだった。
朝、私は起きるとボイスレコーダーと現場写真を持って庭園にカモミールを呼び出した。
カモミールは戸惑った様子で私を上目遣いで見上げた。
「な、何かありましたの?」
ああ、妻よ、こんな日に限っていつもより一層可愛らしい。
その上目遣いは反則だ。
ただでさえカモミールを目の前にすると私の心臓は激しく高鳴るというのに。
「あのな、カモミール」
「はい、テオドア様」
後ろに隠し持っていたボイスレコーダーと写真をカモミールの前に差し出す。
例のボイスレコーダーを再生する。
音声がなんの躊躇いもなく無常に流れた。
すると、困惑していたカモミールの表情が氷のように固まった。
「これは一体どういうことなんだ?」
「くっくっく…あーっはっはっは!」
急にカモミールは顔を伏せ、腹を抱えて笑い出した。
その姿はこの世のどんな現象よりも不気味に感じられた。
「何を笑っているんだ!」
「はあっ、はあっ...!おかしくて仕方ありませんわ!」
「何がだ」
「だって…!!テオドア様ったら、もう本当にバカなんですもの...!このブツを見つけてから私に言うまで、一体どれほどの時間がかかったんですの?」
「知っていたのか…?」
「知っていたも何も…テオドア様の部屋の掃除を毎日欠かさずしている私に気が付かないことなんてないですわよ?」
カモミールはほくそ笑みながらそう言う。
「本当に私の父を殺したのか…?」
真実であって欲しくない。できれば嘘だと思いたい。
しかしその答えはあまりにも無慈悲だった。
「ええ、そうよ?」
癖毛の赤毛を指先でねじりながら妻は言う。
目線の先を天井へ移動させる。
「ごめんなさいね。全てはロレーヌ財閥のためなの。ロックハート財閥の貴方に近づいたのも全て財閥のため。貴方を騙すため、優しい妻を演じ続けたわ。でもこれももう終わりね」
まるで吹っ切れたかのようにクスリと笑った。
「この事実を世間に公表すると言ったら、どうする?」
「あら、貴方にそんなことする勇気なんてないと思っていた。人は見かけによらないものね」
胸がズキッと痛んだ。
いまだに思考が追いつかない。
私だって、カモミールがそんなことを言う女には見えなかった。
だから、余計にだ。
微塵も愛情の湧いてこない相手だったらどれほど良かっただろう。
いっそのこと、出会わなかったらどれほど…
この胸の痛みは一生消える気がしなかった。
◇◇◇
世間にロレーヌ財閥の汚名が広まり、カモミールとその共謀者が逮捕されて四年ほどが過ぎた。
愛するものを全て失い、独り身となった私は父の残した唯一の家、ロックハート邸で暮らしていた。
そんなある日。
ふと、会いたい、と思ってしまった。
私は自分の意図せぬまま着々と歩を進めていた。
たどり着いたのは、カモミールがいる刑務所だった。
「面会したい人がいるのだが」
彼女は、変わっているのだろうか。
彼女のいない間、どれだけ私は寂しいと感じていたのだろう。
あんなことをしたとわかっても尚、彼女を愛する感情はとめどなく押し寄せてきた。
自分の計り知れない愛情が恐ろしかった。
しかし、もう一度、会わねばならない。
私は面会室で一人彼女を待っていた。
すると。
___ガチャ
扉が開いた。
伸び切った赤毛の髪の女がそこに立っていた。
女は翡翠の瞳で、こちらを警戒している様子で見つめた。
女は椅子に腰掛ける。
「………」
「………」
しばらくの沈黙が続いた。
私はなんと言ったらいいのか分からず、俯きがちにこう言った。
「…会いたかった」
恐る恐るカモミールを見ると、彼女は涙を流していた。
「私もです、テオドア様…」
小声だが、そう言った。
わざと聞こえないように言ったのか。
「貴方は、私のことを憎んでいらっしゃらないのですか?」
「…憎んでいる」
カモミールは、少し悲しそうな顔をした。
「いまだにおまえが、憎くて仕方がない。」
「…当然ですわ。私は貴方にいつまでも想っていてほしいなんて、おこがましいことは願いません」
「でも、好きだから、こうして会いにきた」
彼女は驚いて、喜びの表情を浮かべた。
「私はきっと貴方が私を知る前から、貴方のことが好きでした。でも、想いを伝えるのがこんな形になってしまうなんて情けないわね。貴方の父上を殺したのだって、心の底から望んではいなかった。お父様には逆らえなかったの」
「そう、だったのか…」
「こんなの自業自得よね。愛する人を四年間も置き去りにしてしまうなんて」
「私は、おまえのことを考えていると四年なんてあっという間だった」
「ふふっ…テオドア様らしいですわ。ねえ、私が出所したら、またバラの花を一緒に眺めてくださる?」
「ああ、もちろんだ」
「いつまでも愛しています、テオドア様」
「私もおまえを愛している」